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えーっと、チャプター43か。不安定な類人猿、みたいなタイトルだったかな。
えー、150万年くらい前ですかね、ホモ属の、誰か、すごい人が、何か、すごいことを考えついたんですよ。多分ね、その人、女性だったんじゃないかなー、って思うんだけど。石を拾って、別の石で、こう、形を、丁寧に、変えていったんです。で、最終的に、涙のしずくみたいな形の手斧を作ったんです。まあ、すごい原始的なものだったんですけどね。でも、それが世界で一番最初の、なんか、こう、進化した道具だったんです。
それが、今まであった道具よりも、ずっと、うん、よかったんで、みんな、すぐ真似し始めたんですよ。自分の手斧を作る人が、どんどん、増えていったんです。で、結局、ホモ属の世界は、もう、手斧作りに夢中になった、みたいな感じになったんです。「何千個も作ったんだよ」って、イアン・タタソールさんが言ってましたね。「アフリカのある場所では、もう、どこに行っても、手斧だらけなんだ」って。「作るの、結構、大変なのに、なんか、面白いから作ってたみたいなんだよね」って。
タタソールさんの明るいスタジオで、棚から、なんか、巨大な模型を取り出して、見せてくれたんですよ。それが、まあ、50センチくらいあって、一番広いところが20センチくらいかな。槍の先みたいな形だけど、踏み石くらいの大きさなんですよ。グラスファイバーで作られた模型で、重さは150グラムくらいなんですけど、本物はね、11キロもあったらしいんですよ。タンザニアで発見されたやつなんですけどね。「道具としては、全然、役に立たないんだよ」って、タタソールさんは言ってました。「二人いないと、持ち上げられないし、たとえ持ち上げられたとしても、これで何かを叩くのは、もう、めちゃくちゃ大変だよ」って。
「じゃあ、何のために作ったんですか?」って、聞いたら、タタソールさんは、ちょっと肩をすくめて、その謎めいた感じを楽しんでる、みたいな顔をして、「さあ、わからない。なんか、シンボル的な意味があったのかもね。推測するしかないんだよ」って。
その手斧は、後で、アシュール文化の石器って呼ばれるようになったんですよ。19世紀に、最初に発見された場所、フランス北部のアミアン郊外のサン=アシュールっていう場所の名前から取ったんです。もっと古い、オールドワン文化の石器と区別するためにね。オールドワン石器は、タンザニアのオルドバイ渓谷で最初に見つかったから、その名前が付いたんです。昔の教科書では、オールドワン石器って、なんか、丸っこくて、握りやすい石、みたいな感じで描かれてたんですけどね。実はね、今の古人類学者は、オールドワン石器は、もっと大きい石から剥がして作ったもので、それで、なんか、物を切ったりしてた、って考えてるらしいんですよ。
で、問題はね、初期の現代人、つまり、今の私たちに進化する人類が、10万年以上前にアフリカを出始めた時、アシュール文化の石器が、一番、こう、持ち運びやすいものだったんです。この、初期のホモ・サピエンスも、アシュール文化の石器が、もう、大好きだったんですよ。遠くまで持って行ったり、時には、まだ形になってない石を、持って行って、後で、道具にしたりしてたんです。一言で言うと、もう、道具作りに夢中だったんですね。でもね、アフリカ、ヨーロッパ、西アジア、中央アジアでは、アシュール文化の石器がたくさん見つかってるんですけど、極東では、ほとんど見つかってないんです。これって、本当に謎なんですよ。
20世紀の40年代に、ハーレム・ムーヴィウスっていう、ハーバード大学の古生物学者が、「ムーヴィウス線」っていう線を引いたんです。アシュール文化の石器が使われていた地域と、使われていなかった地域を分ける線ですね。その線は、南東方向に、ヨーロッパ、中東を通って、今のカルカッタ、バングラデシュまで伸びてるんです。その線の外側、つまり、東南アジア、中国を含む広い地域では、もっと古くて、シンプルな、オールドワン文化の石器しか見つかってないんです。ホモ・サピエンスは、もっと広い範囲に到達してたってわかってるのに、なんで、こんなに進化した、お気に入りの石器を、極東の近くで、捨てちゃったんでしょうね?
「この問題は、私を長い間悩ませてきました」って、キャンベラのオーストラリア国立大学のアラン・ソーンさんは、回想してました。「現代人類学は、人類が二つのグループに分かれてアフリカを出て行った、っていう考え方の上に成り立ってるんです。最初のグループは、ホモ・エレクトゥス。彼らは、後で、ジャワ原人とか、北京原人とかになった。もう一つのグループは、もっと後に出てきた、進化したホモ・サピエンスで、彼らが、ホモ・エレクトゥスを置き換えた。でも、この考え方を受け入れるためには、ホモ・サピエンスが、近代的な道具を、こんなに長い距離、運んだのに、どういうわけか、それを捨ててしまった、って信じなきゃいけない。まあ、どう考えても、納得できないよね」って。
その後の発見で、さらに理解できないことが、たくさんあることがわかったんです。その中でも、一番、不思議な発見の一つは、アラン・ソーンさんの故郷、オーストラリア内陸部での発見です。1968年に、ジム・バウラーっていう地質学者が、ニューサウスウェールズ州の、何もない場所に行って、マンゴーっていう、干上がった湖の底を探してたんです。そしたら、突然、予想外のものが、目に飛び込んできたんです。三日月形の砂丘の中に、人間の化石が出てきたんです。当時、オーストラリアには、8000年以上前から人が住んでる、って考えられてたんですけど、マンゴー湖は、もう12000年も前に干上がってたんです。そんな寂しい場所に、誰が来たんでしょうね?
放射性炭素年代測定の結果、その化石の持ち主が生きていた頃、マンゴー湖は、人が住むのに、すごくいい場所だったってわかったんです。湖は20キロもあって、水もたっぷりあったし、魚もたくさんいた。周りには、モクマオウの木がいっぱい生えてた。で、驚いたことに、その化石は、なんと2万3000年も前のものだったんです。近くで発見された別の化石は、もっと古くて、6万年も前のものだった。これは、もう、予想外すぎました。ありえない、みたいな感じでしたね。ホモ属が、最初に地球に現れてから、オーストラリアはずっと孤立した陸地だったんです。誰かがここに来るためには、海を渡らなきゃいけないし、繁殖するためには、かなりの人数が必要だった。しかも、100キロ以上の海を渡って、目の前に陸地があるかどうかもわからない。オーストラリア北部の海岸、多分、ここが上陸地点だったと思うんですけど、そこから、3000キロ以上も内陸に入って、マンゴーまで来たんです。オーストラリア科学協会の議事録には、「人類が最初に到達したのは、6万年以上前だったことを示している」って書かれてます。
どうやってそこまで行ったのか?なぜそこに行ったのか?これらの疑問は、今でも謎のままなんです。ほとんどの人類学の文献には、6万年前には、人間が話せなかった、ましてや、協力して、海を渡って、新しい土地を開拓するための船を作る能力なんてなかった、って書いてあります。
「先史時代の人類の移動については、わからないことが多すぎるんです」って、キャンベラでアラン・ソーンさんに会った時、彼はそう言ってました。「知ってる?19世紀に、人類学者が、初めてパプアニューギニアに行った時、そこの内陸部の高地、地球上で一番行きにくい場所で、人々がサツマイモを育ててたのを発見したんだ。サツマイモは、南米原産なのに、どうやってパプアニューギニアに伝わったんだろう?わからない。全然、わからない。でも、確かなことは、人々は、昔考えられてたよりも、もっとずっと長い間、自信を持って移動してたってこと。そして、彼らは、遺伝子を共有するだけでなく、情報も共有してたってことは、ほぼ間違いないよ」って。
いつものことだけど、問題は、化石記録なんです。「人間の遺体を長期的に保存するのに、適した場所なんて、世界にほとんどないんですよ」って、ソーンさんは言います。鋭い目をしてて、白い顎髭を生やしていて、真剣だけど、優しい表情をしてる人です。「東アフリカのハダールやオルドバイで、たくさんの化石が見つからなかったら、私たちは、ほとんど何も知らなかっただろうね。他の場所を見てごらん。本当に少ししか知らないんだ。インド全体で、30万年前の、古代の人間の化石が一つしか見つかってない。イラクとベトナムの間、5000キロも離れてるのに、化石は二つしかない。一つはインド、もう一つはウズベキスタンで見つかったネアンデルタール人の化石」彼は笑って、「調べるものがほとんどないんだ。結局、東アフリカの大地溝帯とか、ここのオーストラリアのマンゴーとか、人間の化石が多い場所がいくつかあるだけ。その二つの地域の間の化石は、ほとんど何もないから、古生物学者が、それらを繋ぎ合わせるのは、難しいのも無理はないよね」って。
人類の移動を説明する、従来の理論、今でも、この分野の多くの人に受け入れられている理論は、人類がユーラシア大陸に移動したのは、二つの波に分かれていた、って考えてます。最初は、ホモ・エレクトゥス。彼らは、信じられないスピードでアフリカを出て行った。人種になったら、すぐに始めた、みたいな感じだった。この移動は、200万年くらい前に始まった。彼らは、いろいろな地域に定住して、これらの初期のホモ・エレクトゥスは、それぞれ特徴のあるホモ属に進化していった。アジアでは、ジャワ原人とか北京原人に。ヨーロッパでは、最初はハイデルベルク人、最後はネアンデルタール人に進化した。
で、10万年以上前に、もっと賢い種族、つまり、今、私たちが生きてる、すべての人の祖先が、アフリカの平原に現れて、外に向かって移動を始めた。これが、二回目の波。この理論によると、彼らは、行く先々で、自分たちよりも、愚かで、柔軟性に欠ける祖先を、置き換えていった。でも、どうやってそれをやったのか、学界では、ずっと議論が続いてます。虐殺の跡は何もないから、ほとんどの専門家は、後から来た人たちが、競争で、先にいた人たちを淘汰した、って考えてます。でも、他の要素も、影響した可能性もある。「多分、私たちが、彼らに天然痘を感染させたんだろうね」って、タタソールさんは言ってました。「本当にわからない。確かなことは、今、私たちがここにいて、彼らはもういないってことだ」って。
これらの、最初の現代人については、よくわかってないんです。面白いことに、私たちは、ホモ属の、ほとんどすべてのグループよりも、自分たちのことについて、よく知らないんです。タタソールさんは、「人類の進化の中で、一番最近の、大きな出来事、つまり、私たち自身の種の出現は、多分、一番謎めいてる」って言います。現代人の化石が、最初にどこで発見されたのかさえ、誰も確定できないんです。多くの本では、南アフリカのクラス川河口で発見された、12万年前の化石が、そうだって書かれてますけど、誰もが、彼らが本当に意味のある現代人だって認めているわけじゃないんです。タタソールさんとシュワルツに言わせると、「私たち自身の種を代表するのは、彼らの中の一部なのか、それとも全部なのか、さらに確認する必要がある」ってことらしいです。
ホモ・サピエンスが、最初に地中海の東部、つまり、今のイスラエルがある地域に現れた、ってことは、もう議論の余地がないんです。彼らは、10万年くらい前に現れ始めた。でも、イェリコでも、彼らは、「断片的で、分類が難しく、ほとんど知られていない」って(トリンカウスとシップマンが)書いてます。ネアンデルタール人は、すでにこの地域に定住していて、ムスティエ文化っていう道具を使ってました。この道具は、後で、現代人が参考にする価値がある、って思ったものだったみたいです。アフリカ北部では、ネアンデルタール人の化石は見つかってないんですけど、彼らの道具は、どこにでもあります。誰かがそれらを持って行ったに違いない。現代人が、唯一の候補者ですね。また、中東地域では、ネアンデルタール人と現代人が、何万年も共存していたってこともわかってます。「彼らが、同じ場所に住んでたのか、それとも隣同士だったのかは、わからない」って、タタソールさんは言います。でも、現代人は、ネアンデルタール人の道具を使い続けた。でも、誰が優勢だったのかを証明するのは難しい。同じように不思議なのは、中東地域で見つかったアシュール文化の石器は、100万年も前のものなのに、ヨーロッパで、この道具が現れたのは、30万年前だけだってことです。また、疑問が湧いてくる。なぜ、この道具を作る能力を持っていた人たちは、それを持ち歩かなかったんでしょうね?
長い間、ヨーロッパの現代人って呼ばれてるクロマニョン人が、ヨーロッパ大陸に進出する過程で、それ以前にいたネアンデルタール人を、西海岸に追いやって、ネアンデルタール人は、海に飛び込むか、絶滅するか、その二つしか選択肢がなかった、って考えられてました。実際には、クロマニョン人が、東からヨーロッパ内陸部に進出した時、遠い西部にもクロマニョン人がいたってことがわかってるんです。「その時、ヨーロッパは、人がほとんどいない場所だった」って、タタソールさんは言います。「彼らが、行き来してた時でも、めったに出会うことはなかっただろうね。クロマニョン人が、ヨーロッパに来た理由の一つとして考えられるのは、当時、ヨーロッパは、古気象学で言うところの、ポートリエル間氷期っていう時期で、ヨーロッパの気候が、比較的温暖な状態から、別の長い寒冷期に移行した時期だったんです。クロマニョン人をヨーロッパに駆り立てた理由が何であれ、氷河気候ではなかったのは確かだ」って。
とにかく、ネアンデルタール人が、新しく来た競争相手、クロマニョン人の前に、完全に崩れ去った、って考えるのは、少なくとも、考古学的発見が提供している証拠とは、ちょっと矛盾してるんです。ネアンデルタール人は、とても忍耐強く、何万年もの間、現代人の中では、ほんのわずかな極地科学者とか探検家しか経験したことのない環境で、生活していたんです。氷河期の気候が一番厳しかった時、吹雪とハリケーンのような強風が日常茶飯事だった。気温は、よくマイナス45度まで下がって、イングランド南部の氷河谷には、ホッキョクグマが歩き回ってた。ネアンデルタール人は、気候が一番厳しい時期に、自然と後退した。それでも、彼らは、少なくとも、今日のシベリアの冬と同じくらい恐ろしい気候を経験しなければならなかった。間違いなく、彼らは苦労した。ネアンデルタール人が、30歳まで生きられたら、それはとても幸運だった。でも、一つの種としては、彼らは、適応力が高く、不屈の精神を持っていた。彼らは、少なくとも10万年、多分20万年は生き延びた。その範囲は、ジブラルタルからウズベキスタンまで。どんな種にとっても、これはとても成功したことだ。
彼らは一体誰だったのか、どんな姿をしていたのか、今でも意見が一致してない。謎だらけなんです。20世紀の中頃まで、人類学界で、一般的に信じられていた考え方は、ネアンデルタール人は、動きが鈍くて、体が曲がってて、足を引きずって歩いてて、猿人とは、ほとんど変わらない、まあ、洞窟に住む人の中では、一番良かった、みたいな感じだった。ただ、ある、つらい偶然の出来事が、科学者に、この考え方を再検討させたんです。1947年に、カール・アラームカルっていう、フランス系アルジェリア人の古生物学者が、サハラで野外調査をしてた時、真昼の強い日差しを避けるために、自分の小型飛行機の翼の下で休んでたんです。そこに座ってたら、タイヤが暑さで破裂して、飛行機が突然傾いて、彼の体の上の方が、強く打たれた。後で、パリに行って、首のX線検査をしたら、背骨の配列が、体が少し曲がって、動きが鈍いネアンデルタール人、と、全く同じだったんです。生理学的に原始人と似てるか、ネアンデルタール人の見た目に対する認識にズレがあるか、どっちかだった。答えは、もちろん後者です。ネアンデルタール人の背骨は、類人猿とは全く違っていた。これで、ネアンデルタール人に対する私たちの見方が、完全に変わった。でも、この認識は、一瞬で終わってしまったみたいですね。
今日でも、ネアンデルタール人は、知能が低くて、もっと賢くて、脳が大きい、後から来たホモ・サピエンスには、及ばないって考えてる人が、少なくないんです。最近出版された本の中には、「現代人は、もっと快適な服装、もっと進んだ火の起こし方、もっと良い住居で、この優位性(ネアンデルタール人の強靭な体格)を克服した。一方、ネアンデルタール人は、大きな体を維持するために、もっと多くの食料が必要で、困った立場に置かれた」っていう、典型的な論点があります。つまり、10万年以上も、彼らを成功させた優位性が、突然、克服できない不利な条件になったってことなんです。
特に重要なのは、ほとんど誰も解決しようとしない問題があるんです。それは、ネアンデルタール人の脳が、現代人よりも、明らかに大きかったってことなんです。推定によると、ネアンデルタール人の脳の容量は1.8リットル、現代人は1.4リットル。この差は、現代のホモ・サピエンスと、後期のホモ・エレクトゥス、私たちは、彼らを人間だと思ってない、との差よりも大きいんです。提起された理由は、私たちの脳は、小さいけど、どういうわけか、もっと役に立つ、ってことなんです。人類の進化に関する議論で、こんなに驚くような論点は、他にないってことに気づきました。私は、本当のことを言ってると思いますよ。
だから、あなたは、多分、こう思うでしょう。ネアンデルタール人は、こんなに強くて、適応力も高くて、脳も大きかったのに、なぜ、今も生きてないんだろう?一つの答えは(でも、これは、すごく議論があるんですけど)、彼らは、多分、まだ生きている、っていうことです。アラン・ソーンは、「多地域進化」仮説っていう説を唱える、一番有力な人たちの一人です。この説は、人類の進化は、継続的なプロセスだって主張してます。つまり、アウストラロピテクスから、ホモ・ハビリス、ハイデルベルク人、そしてネアンデルタール人に進化して、現代のホモ・サピエンスは、もっと古いホモ属から進化した、って考えてます。この考え方によると、ホモ・エレクトゥスは、独立した種ではなく、ただの過渡期なんです。だから、現代の中国人は、遠い昔の、中国のホモ・エレクトゥスの子孫、現代のヨーロッパ人は、遠い昔の、ヨーロッパのホモ・エレクトゥスの後裔、ってことになるんです。「私に言わせれば、ホモ・エレクトゥスなんて存在しないんです」って、ソーンさんは言います。「私は、この概念は、もう時代遅れだと思う。ホモ・エレクトゥスは、ただの人類の初期段階に過ぎない。アフリカを出て行った人類は、ホモ・サピエンスだけだと思う」って。
「多地域進化」仮説に反対する人は、すぐにこの理論を拒否します。その理由は、この学説は、遠い昔の世界、アフリカ、中国、ヨーロッパ、それに、すごく離れたインドネシアの群島で、彼らが現れた場所で、ホモ属が、並行して進化していった、っていう考え方に基づいているから。そんなことは、ありえない、って言うんです。一部の人は、この学説が、人種差別的な議論を助長している、って考えてます。人類学界が、長い間、排除しようと努力してきたことですね。
1960年代初頭に、カールトン・クーンっていう、ペンシルベニア大学の有名な人類学者は、一部の現代民族は、起源が異なっていて、つまり、私たちの中には、他の人よりも優れた種族から生まれた人がいる、っていう考え方を提示しました。これは、昔の考え方の繰り返しで、ちょっと不快な感じがします。その考え方っていうのは、アフリカの「ブッシュマン」(正確にはサン人)、オーストラリアの先住民とか、そういう少数民族は、他の民族よりも原始的だ、っていう考え方です。
カールトン・クーン自身が、どう思ってたのかはわからないけど、多くの人にとって、彼の言い方は、一部の民族は生まれつき優れていて、全く違う人種を構成する可能性がある、ってことを意味してるように聞こえました。こんな、今日では、とても不快に聞こえる考え方が、つい最近まで、多くのまともな場所で、広められていたんです。手元には、タイムライフ社が1961年に出版した、すごく人気のある本『人類の叙事詩』っていうのがあって、これは、『ライフ』っていう雑誌の記事をまとめたものなんです。この本には、「ローデシア人は……約2万5000年前に生きていて、多分、アフリカ黒人の祖先。彼の脳の容量は、ホモ・サピエンスに近い」って書かれてます。言い換えると、アフリカ黒人の祖先は、ホモ・サピエンスと「近い」だけなんです。
カールトン・クーンは、自分の理論に、人種差別的な意図はない、って強く否定しました(これは、間違いないと思います)。彼は、異なる文化や地域の間で、何度も繰り返される交流が、人類の進化の同源性を示している、って考えていたんです。「人類は、一つの方向にしか進化しないと決めつける理由はない」って、彼は言ってます。「人類は、世界中を移動して、ほぼ間違いなく、出会った場所で、異種交配を通じて、遺伝子を共有した。新しく来た人たちは、先住民を置き換えるのではなく、彼らの中に溶け込んで、最後には一体になった」って。彼は、冒険家クックとかマゼランが、初めて遠隔地の住民に出会った時を例えにして、「彼らは、異なる人種に出会ったのではなく、身体的な特徴が少し異なる、同じ仲間に出会っただけだ」って言ってます。
ソーンさんは、人類の化石で観察できるのは、均衡のとれた、絶え間ない変化だけだって主張します。ギリシャのペトラロナで発見された、有名な骸骨があります。約30万年前に生きていた人で、これは、伝統主義者の間で、ずっと議論の的になってきた人です。なぜなら、彼が、ホモ・エレクトゥスとホモ・サピエンスの両方の特徴を、同時に持っているように見えるからなんです。「どう言えばいいかな?これは、まさに、あなたが種に期待する姿なんだ。彼らは進化してるんだ。置き換わってるんじゃない」って。
問題を解決するのに役立つものがあるとすれば、それは、異種交配の証拠です。でも、化石からは、それを証明することも否定することも、全く難しいんです。1999年に、ポルトガルの考古学者が、2万4500年前に死亡した、4歳の子供の骸骨を発見しました。この骸骨は、全体的には、現代人なんだけど、遠い昔の人類、多分、ネアンデルタール人の特徴も持っている。太ももの骨がとても強くて、歯が明らかに突き出ていて、しかも、(誰もがそれに賛成しているわけではないんだけど)頭蓋骨の後ろに、外後頭隆起っていう、ギザギザの凹みがある。これは、ネアンデルタール人だけの特徴なんです。セントルイスのワシントン大学のエリック・トリンカウスは、ネアンデルタール人の研究で、一番権威のある学者の一人だけど、この子供は、雑種で、現代人とネアンデルタール人の異種交配の証拠だ、って言ってます。でも、他の人たちは、子供の体にあるネアンデルタール人と現代人の特徴の混ざり具合が足りないことに、困惑しています。ある評論家が指摘したように、「もし、あなたがラバを見たら、正面から見るとロバに見えて、後ろから見ると馬に見える、なんてことはないはずだ」って。
イアン・タタソールは、この男の子は、「比較的頑丈な現代人の子供」に過ぎないと考えています。彼は、ネアンデルタール人と現代人の間に、いわゆる「雑種」が確かに存在したかもしれないことを認めていますが、彼らが子孫を成功裡に生み出すことができたとは考えていません。(注:ネアンデルタール人とクロマニョン人は、染色体の数が異なっていた可能性があります。これは、近縁であっても、同種ではない動物が交配した場合によく見られる複雑な状況です。たとえば、家畜では、馬は64対の染色体を持っていますが、ロバは62対しか持っていません。この2種類の動物を交配させると、63対の生殖不能な染色体を持つ子孫が生まれます。簡単に言うと、繁殖能力のないラバですね。)
「生物学の範囲内で、私は、異なる生物が、同じ種に属している例を聞いたことがありません」って、彼は言ってます。
化石記録からの助けが少ないため、科学者たちは、ますます遺伝子研究、特に、ミトコンドリアDNAって呼ばれる部分に目を向けています。ミトコンドリアDNAは、1964年に発見されたんだけど、20世紀の80年代になって、カリフォルニア大学バークレー校の科学者が、ミトコンドリアDNAには、分子時計として便利に使える2つの大きな特徴があることを発見したんです。まず、それは、母系のみで遺伝するため、新世代の父系DNA螺旋には付着しません。次に、それは、普通のDNA核酸よりも、突然変異率が20倍も速いため、その遺伝子パターンを、より簡単に測定し、追跡することができる。突然変異の出来事を追跡することで、人の遺伝子の歴史と、それぞれの遺伝子組の関係を知ることができるんです。
1987年に、アラン・ウィルソンが率いるバークレー校の科学者グループは、147人のミトコンドリアDNAの研究を通じて、最終的に、「解剖学的な観点から見て、現代人類は、過去14万年間にアフリカで出現し、今日の人類はすべて、そのグループの子孫だ」っていう結論に達しました。「多地域起源」論者にとっては、これは大きな打撃でした。でも、次に、研究から得られたデータが、さらに詳しく調べられました。人々が一番驚いたのは、ほぼ信じられないくらい驚いたのは、通常、研究で「アフリカ人」って呼ばれてるのは、実際にはアフリカ系アメリカ人だったってことなんです。彼らの遺伝子は、過去数百年で、明らかに大きく融合してしまっている。しかも、仮定された突然変異率にも、すぐに疑念が抱かれるようになりました。
1992年までには、この研究は、ほとんど否定されてしまいましたが、遺伝子分析技術は、進化し続けました。1997年に、ミュンヘン大学の科学者が、原始的なネアンデルタール人の腕の骨からDNAを抽出し、研究しました。今回は、説得力のある証拠が出てきました。ミュンヘンの研究者たちは、ネアンデルタール人のDNAが、地球上で現在発見されている、どんなDNAとも異なっていて、これは、ネアンデルタール人と現代人類の遺伝子が、全く繋がっていないことを、明らかに示すものだって結論付けたんです。これは、「多地域起源」仮説にとって、本当に大きな打撃でした。
そして、2000年末に、『ネイチャー』誌や、他のいくつかの新聞が、スウェーデンの科学者グループによる、53人のミトコンドリアDNAの研究について報道しました。彼らは、すべての現代人類は、過去10万年間にアフリカで出現し、1万人以下の集団から生まれた、って結論付けました。その後、ホワイトヘッド研究所とマサチューセッツ工科大学の遺伝子研究センターの所長、エリック・ランダーが、現代のヨーロッパ人、多分、もっと遠い場所にいる人々も、「遅くとも2万5000年前には、故郷を離れた、ほんの数百人のアフリカ人の子孫だ」って発表しました。
この本の中で、他の場所で触れたように、現代人類の遺伝子の多様性は極めて小さく、顕著な違いはないんです。ある権威者が指摘したように、「55匹のチンパンジーの集団は、人類全体の遺伝子よりも、多様性を持っている」ということから、その理由が説明されます。私たちが、最近、少人数の祖先から繁殖してきたため、遺伝的多様性を形成するための時間も、個体数も十分になかったからです。これは、またしても、「多地域起源」仮説への猛攻撃のように思えました。「今後」ペンシルベニア州立大学の研究者は、『ワシントンポスト』紙に語りました。「人々は、それほど「多地域起源」理論を気にしなくなるだろう。それを支持する証拠は、ほとんどないから」って。
でも、このすべての過程で、人々は、ニューサウスウェールズ州西部の、古代マンゴー人が、予想外の情報を無限に提供する能力を持っていることを、思いつきませんでした。2001年初め、オーストラリア国立大学のソーンさんと、彼の同僚たちは、一番古いマンゴー人の標本、6万2000年前に生きていた人からDNAを抽出したことを発表しました。研究の結果、このDNAは、「独特の遺伝子的特徴を持っている」ことが示されました。
これらの発見によると、マンゴー人は、解剖学的には現代人、つまり、あなたや私と同じだったけど、絶滅した遺伝子系列を持っていたんです。彼のミトコンドリアDNAは、生きている人の中には、もう見つからない。もし、彼が、他のすべての現代人と同じように、それほど遠くない過去にアフリカを離れた人類の子孫だったら、それは見つかるはずなんです。
「これで、また、すべてがひっくり返った」って、ソーンさんは、明らかに嬉しそうでした。
そして、他の、もっと奇妙な異常が、現れてきました。オックスフォード大学生物人類学研究所の人類遺伝学者、ロザリンド・ハーディングは、現代人類のグロビン遺伝子を研究している時に、2つの変異体を発見しました。この変異体は、アジア人とオーストラリアの先住民には、よく見られるんだけど、アフリカ人には、ほとんど存在しないんです。彼女は、この異なる遺伝子は、20万年前に発生した、って確信してます。でも、アフリカではなく、東アジアで、現代のホモ・サピエンスが、この地域に到達するずっと前に発生した。これに対して、唯一合理的な説明は、現在のアジア人の祖先には、古代のホモ属、つまり、ジャワ原人などが含まれていたってことなんです。面白いことに、同じ変異遺伝子、仮にジャワ人遺伝子と呼びましょうか、それが、オックスフォードシャーの現代人の中にも現れたんです。
私は、少し混乱したので、ハーディングさんに会いに研究所に行きました。研究所は、オックスフォードのバンベリーロードにある、古いレンガ造りの邸宅にあります。ハーディングさんは、背が高くなくて、気さくな人。オーストラリアのブリスベンで生まれました。仕事熱心で、ユーモアのセンスもある。めったにいないタイプの人です。
私は彼女に、オックスフォードシャーの人になぜ、この本来あるはずのないグロビン遺伝子があるのか、って質問しました。「わからないわ」って、彼女は、すぐに笑顔で答えました。「遺伝子の記録は、一般的に、「アフリカから出た」仮説を支持してる」って。彼女は、少し真剣な表情で、「でも、次に、例外的なケースを見つけることがある。これについては、ほとんどの遺伝学者は言及したがらない。たとえ、私たちが、このすべてを理解できたとしても、大量の情報を収集する必要があるけど、まだそこまでできていない。私たちは、まだ始まったばかりなのよ」って続けました。彼女は、状況は明らかに複雑で、アジアの古代人類の遺伝子が、オックスフォードシャーに現れたことについては、意見を述べることをためらっていました。「現段階では、これは、非常に型にはまらないってことしか言えない。でも、なぜそうなのかは、本当にわからないの」って。
私たちが会ったのは、2002年の初め。オックスフォード大学の、もう一人の科学者、ブライアン・サイクスは、少し前に、『イブの七人の娘』っていう、すごく人気のある本を出版したばかりでした。彼は、本の中で、ミトコンドリアDNAの研究成果を借りて、ほとんどすべてのヨーロッパ人の祖先は、7人の女性、つまり、イブの7人の娘まで遡ることができるって主張しました。彼女たちは、4万5000年前から1万年前、つまり、科学的に言うと、旧石器時代に生きていました。サイクスは、この7人の女性に、ウルズラ、ジーニア、ジャスミンなどの名前を付けて、詳細な個人の家系図を作成しました。(「ウルズラは、母親の二番目の子供だった。最初の子供は、2歳の時にヒョウにさらわれた……」)
私が、ハーディングさんに、この本について話した時、彼女は、まず、朗らかで、失礼のないように笑いました。どう答えるか、少し迷っているようでした。「えーっと……彼が、難解な分野をわかりやすくしようとした努力に対しては、多少の評価を与えるべきだと思うわ」って、彼女は言いました。少し考えてから、「1万分の1の確率で、彼は正しいかもしれない」って。彼女は、大声で笑って、次に、考え込みながら言いました。「どんな単一の遺伝子も、実際には、正確なことは何も説明できないのよ。もし、あなたが、ミトコンドリアDNAに沿って上っていくと、ある場所にたどり着くかもしれない。ウルズラ、ジャスミン、または他の誰か。でも、もし、あなたが、別のミトコンドリアDNAを選んで、同じように上っていくと、全く違う場所にたどり着くかもしれない」って。
私は、これは、適当な道を選んで、ロンドンを出たら、最後に、スコットランドの一番北にあるジョン・オグローツにたどり着いた、みたいなものだ、って思いました。それで、あなたは、すべてのロンドン人は、スコットランド北部に由来する、って結論を出す。彼らは、そこから来た可能性もあるけど、何百もの他の場所から来た可能性もある。この意味で、ハーディングさんの言い方によると、それぞれの遺伝子は、異なる道路で、私たちは、まだそのルートマップを描き始めたばかりなんです。「どの遺伝子も、全体像を反映してないの」って、彼女は言いました。
それでは、遺伝子研究は、信用できないのでしょうか?
「ああ、一般的に言って、ある程度は、そういう研究を信じることができるわ。あなたが信じてはいけないのは、人々が、こじつけて導き出した結論ね」って。
彼女は、「「アフリカから出た」説は、多分、95%は正しい」って考えています。でも、彼女は、「双方とも、二者択一の考え方に固執してるけど、これは、科学精神に反するわ。最終的には、物事は、双方