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えーっと、今回ね、お話するのは、えー、何を変えるかで、すべてが変わっちゃう、みたいな、そういうお話なんですけど。なんかね、個人主義の妄想っていうか、絡み合った存在の中でのね。
木村資生さんっていう方が、原爆から奇跡的に生き延びた、みたいなドラマチックな話があるんだけど、まあ、誰でもね、振り返ってみると、あれがなければ人生変わってたな、みたいな、そういう偶然の出来事ってあるじゃないですか。例えば、将来の配偶者との偶然の出会いとか、高校の授業で受けた科目が、きっかけでキャリアプランが変わったとか。あるいは、危うく事故に遭いそうになったとか、家とかアパートの購入で、最初は断られたけど、結果的にもっと良い物件が見つかったとか。
こういう瞬間って、やっぱり特別だよね。結果的に重大な影響を与えたから、ああ、あの時こうだったら、どうなってたかな、とか考えちゃうし。明らかに別の道もあったわけじゃないですか。でも、ほんのちょっとした変化で、配偶者と出会わなかったり、情熱を発見できなかったり、ニアミスが命取りになったりとかね。
でも、こういうのって、なんか、珍しい例外的ケースみたいな感じがするじゃないですか。だからこそ、驚くっていうか。普段は、偶然じゃなくて、大きな、できれば賢明な選択の積み重ねで、人生を構築してる、みたいな気がするんですよね。自分でコントロールできる、みたいな。
もちろん、どの道を選ぶべきか、アドバイスを求めることはあるかもしれないけど、コントロールできないことについて、アドバイスを求めたりはしないじゃないですか。誰も、隕石の衝突から生き残る方法、みたいな自己啓発本なんて買わないし。人生を大きく変える決断をするときって、自分の軌道を変えてるんだ、っていう自覚があるよね。
正しい大学を選んだり、最初の仕事で頑張って、キャリアを順調に進めたり、人生を共に歩む相手を選んだり。大きなことを正しく選べば、すべてうまくいく、みたいな。よくある、インスピレーションを高めるTEDトークとか、自己啓発本とか読むと、結局、自分自身が解決策なんだ、みたいなことを言われるじゃないですか。
そういうメッセージが人気なのは、多くの人が個人主義的な視点で人生を見ているからだと思うんですよね。人生の物語は、クラウドソーシングじゃないし。主要な決定が、自分の進む道を決定する、つまり、自分の道をコントロールできるんだ、って思いたい。だから、自分のことを一番大事にする、みたいな。
でも、たまに、自分の進む道が、誰か他の人の道とぶつかってる、みたいな、コントロールできないような瞬間を目撃することがあるんですよね。それを、運とか、偶然とか、運命とか呼んだりするけど。そういうのを、例外的な出来事として片付けてしまう。普段は、人生には予測可能で、整然とした規則性がある、みたいに思ってて、それを自分でコントロールできる、みたいな自信を持ってる。
で、奇妙な偶然とか、予想外の出来事に直面すると、ちょっとだけ、その自信が揺らぐけど、まあ、そういうのもあるよね、みたいな感じで、すぐに次に向けて気持ちを切り替えて、未来を形作る、次の大きな決断に備える。そういう考え方が、一般的すぎて、誰も疑わない。それが、普通の考え方だ、みたいな。
でも、実はそれって、嘘なんですよね。現代社会を定義する嘘。個人主義の妄想って言えるかもしれない。まるで、海に投げ出された人が、浮遊物に必死にしがみつくように、この妄想にしがみついてる。でも、時々、自分が、他の誰かや何かから、切り離せない存在なんだ、っていうことを思い知らせてくれる物語が出てくるんですよね。
2022年の夏、ギリシャの沖合で、悲劇的な事故が起こったんです。北マケドニアから来たイヴァンっていう観光客が、海に流されちゃった。友達がすぐに沿岸警備隊に連絡したんだけど、捜索は空振りに終わって、イヴァンは行方不明、死亡したと判断された。
ところが、18時間後、イヴァンは発見された。奇跡的に生きていた。信じられないような話なんだけど、溺れそうになったイヴァンが、遠くにサッカーボールが浮いているのを見つけたんです。最後の力を振り絞って、ボールまで泳いで行って、一晩中、それにしがみついて、救助された。ボールが彼の命を救った。
イヴァンの生存の話がギリシャのニュースになると、2人の子供を持つ母親が、衝撃を受けたんです。イヴァンが持っているボールに見覚えがあった。そのボールは、10日前に自分の息子たちが遊んでいたもので、そのうちの1人が誤って海に蹴り込んでしまったものだったんです。
ボールは80マイルも漂流して、溺れている人に、まさにその瞬間に、出会った。子供たちは、ボールをなくしたことを、特に気にしていなかった。新しいボールを買ったから。でも、後になって、自分たちの蹴ったボールがなければ、イヴァンは死んでいたかもしれない、って気づいたんです。
人生の本当の物語は、往々にして、そういう些細な出来事の中に隠されている。小さなことが重要で、会ったこともない人の、一見、取るに足らない選択が、自分の運命を左右することもある。イヴァンのように、はっきりとそれを認識できる人は少ないけど。
重要なのは、イヴァンを例外的なケースとして捉えないこと。彼は、たまたま、絡み合った存在の中で、常に起こっていること、つまり、自分は独立した存在で、自分の人生を自分でコントロールしている、という妄想に囚われているせいで、普段は見過ごしていることに、たまたま気づいただけなんです。
人生というタペストリーは、魔法のような糸で織られている。その糸は、解けば解くほど長くなる。現在の瞬間は、一見、無関係な糸が、遠い過去から伸びてきて作られている。一本の糸を引っ張ると、必ず予期せぬ抵抗に遭う。なぜなら、すべての糸は、タペストリーの他のすべての部分と繋がっているから。
キング牧師がバーミングハム刑務所からの手紙に書いたように、「私たちは、逃れられない相互依存のネットワークに捕らえられており、運命という一枚の衣服で繋がっている」。
1814年、フランスの科学者、ピエール=シモン・ラプラスは、このような絡み合った存在の謎に取り組んでいた。なぜ、未来の予測がこんなに難しいのか?なぜ、出来事はこんなにも私たちを驚かせるのか?世界の変化を理解して、より良くコントロールすることは可能なのか?
ラプラスの数学の才能は、アイザック・ニュートンの肩の上に立っていた。ニュートンは、同時代の人々にとって、超人的な存在に見えたに違いない。ニュートン以前の世界は、解読不可能な謎に包まれていて、秘密を固く守っていた。ニュートンは、その暗号を解き明かし、運動する物体の規則的で予測可能な振る舞いを説明する「法則」として書き記した。
ニュートンの法則は、宇宙に対する理解だけでなく、哲学的な視点にも大きな変化をもたらした。古代では、変化や災厄は、神々の仕業とされていた。船が難破したり、塔が崩れたりしたのは、人間が神々の怒りを買ったか、十分な貢ぎ物をしなかったからだと考えられていた。
ニュートンは、そのような介入主義的な神々を引退させた。もはや、私たちの人生や自然界のちょっとした変化を説明するために、神は必要なくなった。宇宙を支配する法則がどこから来たのかを説明できる、超自然的な力が必要になっただけ。神は時計を作ったかもしれないけど、ニュートンの法則が、それを動かし続けた。
そこから、ラプラスは、あるアイデアを思いついた。もし、私たちが、厳格な法則に支配された時計のような宇宙に住んでいるとしたら、時計の仕組みを理解することで、未来を完全に正確に予測できるはずだ、と。曖昧な世界が、鮮明に捉えられるようになる。未来を、現在と同じように、はっきりと見ることができるようになる。必要なのは、適切な道具だけだ。
科学革命以前は、ビリヤードのボールの動きを正確に予測することなんて、魔法のように思えただろう。でも、ニュートンの法則、数学と物理学の公式を使えば、魔法のような力、未来を見る力を持つことができる。宇宙全体を、完全に予測可能なものに変えることは可能だろうか?
ラプラスは、すべての出来事、すべての風、すべての分子は、厳格な科学的ルール、つまり、ニュートンの不変の自然法則に支配されている、と推測した。だから、誰かがビリヤードで、ボールをコーナーポケットに入れるかどうかを予測したければ、ニュートン物理学の原理、ボールの重さ、ボールを打つ力と角度を理解する必要があるだけでなく、部屋の温度とか、ドアから入ってくる風とか、キューについたチョークの跡とか、一見、取るに足らない詳細も知る必要があった。
もし、ボールの中の原子や、部屋に漂う空気分子レベルまで、必要な情報をすべて持っていれば、ボールが最終的にどこに転がるかを完璧に予測できる、とラプラスは考えた。そして、彼は、大胆な考えを提案した。もし、人間もビリヤードのボールと同じように、自然の法則に従って生きているとしたら?
その論理に基づいて、ラプラスは、興味深い思考実験を考え出した。もし、全知全能の知性を持つ超自然的な存在、現在ラプラスの悪魔と呼ばれている存在がいると想像してみよう。その存在は、何も変える力はないけど、ボンディビーチの砂粒を構成する分子から、パラグアイのアルマジロの腸の奥に生息するバクテリアの化学組成まで、宇宙のすべての原子に関するあらゆる詳細を、絶対的な精度で知ることができる。
もし、そのような存在がいるとしたら、「そのような知性にとって、不確かなものは何もなく、未来は過去と同じように、目の前に存在するだろう」とラプラスは言った。つまり、完璧な情報があれば、悪魔は、時間と空間を超えて、現実を解かれたジグソーパズルのように見ることができ、なぜ、すべてのことが起こっているのかを理解し、次に何が起こるのかを知ることができる。
漂流するサッカーボールはイヴァンを驚かせたけど、過去、現在、未来のすべてがどのように繋がっているのかを明確に見ることができるラプラスの悪魔は、イヴァンがパニックになり始めたときに、ボールが来ることを知っていた。悪魔にとって、世界に謎はない。
ラプラスの悪魔のような時計仕掛けの世界を拒否する科学者や哲学者はいる。彼らは、時計仕掛けの宇宙を測定するための理解や適切な道具が不足しているのではなく、宇宙の謎は知り得ないものだと主張する。私たちの人生は、違ったものになる可能性がある。未来は、どんなテクノロジーを使っても、どんな全知全能の悪魔を想像しても、常に謎に包まれている。知らないのではなく、知り得ないのだ。
で、どっちなんだろう?私たちは、時計仕掛けの宇宙に住んでいるのか、不確かな宇宙に住んでいるのか?
60年前、エドワード・ノートン・ローレンツという人物が、その答えに近づけてくれた。ローレンツは、子供の頃から天気に関心を持っていた。でも、ダートマス大学で数学を学び、後にハーバード大学で博士号を取得するうちに、その関心を脇に置いていた。
そんな時、第二次世界大戦が勃発した。数学を学んでいたローレンツも、アメリカ軍に徴兵された。偶然、ローレンツは、陸軍の天気予報部隊の募集チラシを目にした。子供の頃の興味を思い出し、ローレンツは志願した。MITで気象システムに関する高度な訓練を受け、サイパンと沖縄に派遣され、対日本爆撃作戦のための雲量の予測を担当した。(おそらく、小倉が予想外の雲に覆われて幸運だった時の天気予報で、重要な役割を果たしただろう。)
最高の頭脳と最高の設備があったにもかかわらず、1940年代の気象学は、当て推量だった。戦後、ローレンツは、太平洋での予測不可能な気象システムから学んだ教訓を生かして、なぜ物事が起こるのかという、より大きな真実を検証することにした。
1960年代、コンピュータはまだ初期段階だったので、現実世界の気象システムをシミュレーションすることは不可能だった。それでも、ローレンツは、自分のLGP-30コンピュータ上に、簡略化されたミニチュア世界を作り出した。現実世界の気象システムに影響を与える、何百万もの変数の代わりに、彼のコンピュータモデルには、温度や風速など、わずか12の単純な変数しかなかった。
その原始的なデジタル世界で、ローレンツはラプラスの悪魔の役割を演じた。彼は常に、自分の仮想世界のすべてのものを正確に測定することができた。悪魔のように、その正確な知識を使って、未来を見ることができるだろうか?
ある日、ローレンツは、シミュレーションを再実行することにした。時間を節約するために、途中で再開することにし、以前のスナップショットからデータポイントを入力した。風速と温度を同じレベルに設定すれば、以前と同じように、気象パターンが繰り返されると考えた。同じ条件なら、同じ結果になる。
ところが、奇妙なことが起こった。ローレンツは、すべてを以前と同じように設定したにもかかわらず、再実行されたシミュレーションで発生した天気は、あらゆる点で異なっていた。何か間違いがあったに違いない、と考えた。それ以外の説明は考えられなかった。
でも、データを詳しく調べて、何が起こったのかを理解しようとした結果、ローレンツは、何が起こったのかに気づいた。彼のコンピュータの出力は、データを小数点以下3桁に丸めていた。例えば、正確な風速が3.506127マイル毎時だった場合、出力は3.506マイル毎時と表示される。そのわずかに切り捨てられた値を、出力からシミュレーションに入力すると、常にわずかな量(この場合、わずか0.000127マイル毎時)だけずれていた。そんな、一見、意味のない変更、つまり、ごくわずかな丸め誤差が、大きな変化を生み出していた。
そこから、ローレンツは、私たちが世界を理解する方法の基礎を揺るがす、ある事実に気づいた。管理された条件下にある時計仕掛けの宇宙でも、ごくわずかな変化が、非常に大きな違いを生む可能性がある。温度を100万分の1度上げたり、気圧を1兆分の1バール下げたりするだけで、2か月後の天気は、晴天から豪雨、さらにはハリケーンに変わる可能性がある。
ローレンツの発見は、バタフライ効果という概念を生み出した。ブラジルで蝶が羽ばたくと、テキサスで竜巻が発生する可能性がある、という考え方だ。
ローレンツは、偶然にも、カオス理論を生み出してしまった。教訓は明らかだった。もし、ラプラスの悪魔が存在できたとしても、その測定は完璧でなければならない。もし、その悪魔が、たった1つの原子でも間違えていたら、その予測は、時間が経つにつれて、大きく外れてしまう。
現在では、多くのシステムがカオス的であることがわかっている。初期条件の細部に非常に敏感なので、時計仕掛けの論理に従っていても、予測することは不可能だ。今日でも、最高のスーパーコンピュータを使っても、天気予報は信頼性が低い。気象学者は、1週間か2週間以上先の予測をしようとさえしない。微視的な違いが、大きな変化につながる可能性がある。シャーロック・ホームズは、「些細なことが、無限に重要である、というのが私の長年の公理だ」と語った。カオス理論は、ホームズが正しかったことを証明した。
小さな変化が大きな違いを生む可能性があるため、宇宙は、私たちにとって、常に不確実で、ランダムに見えるだろう。どんな技術的な飛躍を遂げても、人間がラプラスの悪魔になることはない。私たちが目にするものや経験することの背後で、時計仕掛けの宇宙が時を刻んでいるとしても、それを完全に理解することはできないだろう。
カオス理論は、私たちが世界を理解する方法を変えた。でも、ローレンツの発見は、私たち自身の存在について、いくつかの不安な疑問も提起する。もし、風速のほんのわずかな変化が、数か月後に嵐を引き起こす可能性があるとしたら、火曜日の朝に、スヌーズボタンを押さずにベッドから飛び出す、というあなたの決断はどうだろう?私たちの人生は、取るに足らない選択と、一見、ランダムな不運や幸運によって支配されているのだろうか?
そして、不可解なのは、もし、ヘンリー・スティムソンの1926年の休暇の計画が、数十年後、数千マイル離れた場所で、誰が生き残るか、誰が死ぬかに影響を与える可能性があるとしたら、心配しなければならないのは、スヌーズボタンだけではないかもしれない、ということだ。80億人の人々の、スヌーズボタンや、取るに足らない選択も、私たちが認識していなくても、私たちの人生の軌跡に影響を与えている。
現実を少し見つめてみると、私たちは時間と空間を超えて、互いに密接に繋がっていることに気づくだろう。私たちのような絡み合った世界では、私たちが行うすべてのことが重要だ。なぜなら、私たちの行動が、他の人の人生に嵐を引き起こしたり、それを鎮めたりする可能性があるから。つまり、私たちは、地球を揺るがすような出来事が、予測がほとんど不可能な、奇妙で予期せぬ相互作用に基づいて発生する可能性があるため、私たちが思っているよりも、世界をコントロールできていない。反対のことを装う方が、心地良いから、そうしてるだけ。
私たちが、世界の全体的な統一性を無視して、代わりに、すべてをきちんとした箱に分類する理由はともあれ、相互接続性こそが現実だ。それが、すべてを動かしている。私たちの世界は、絡み合っている。その絡み合った存在を受け入れると、偶然、混沌、そして恣意的な事故が、物事が起こる理由において、大きな役割を果たしていることが明らかになる。絡み合った世界では、偶然が重要だ。「シグナル」と「ノイズ」を、真に分離することはできない。ノイズはない。誰かの人生のノイズが、他の誰かのシグナルになる。たとえ、それを検知できなくても。
それは、精神疾患を患った殺人犯の夫を先祖に持つ私にとっても、そして、あなたにとっても同じことが言える。人生のあらゆる展開は、些細な、偶発的な詳細を軸に展開される。永遠に。そうではないと信じたいけど、現実なんて、私たちがどう思おうと気にしない。私たちは、常に他者のさざ波に乗ってサーフィンしている。ギリシャの沖合で、イヴァンは、その真実を文字通り体験した。私たちは、ほとんどの場合、それを無視しているだけ。
個人に当てはまることは、社会にも当てはまる。ナシム・ニコラス・タレブが言うところのブラックスワン、つまり、私たちの自己満足を打ち砕く、大きな、予想外の、重大な出来事を説明するのは何か?近年、世界は、ますます絡み合っている。これは、目新しいことではないけど、小さな変化、事故、そして偶然が、これまで以上に、ブラックスワンで終わる可能性がある、ということを意味する。
アイスランドで火山が噴火すると、何百万人もの人々が足止めされる可能性がある。スエズ運河で船が座礁すると、数十か国でサプライチェーンが寸断される可能性がある。中国の都市で、ある人が未知のウイルスに感染すると、すべてがあっという間に停止する可能性がある。私たちの世界は、高度に接続されている。
私たちの世界は、絡み合っているだけでなく、常に変化している。たとえ、それを感じられなくても。あなたが、これを読んでいる間にも、あなたは変化している。年を取っている(幸い、ごくわずかだけど)。そして、脳のニューラルネットワークも、それぞれの単語を認識するにつれて、知覚できないほど変化している。重要なのは、私たちが何もしていないように見えても、私たちの身の回りで、将来の人生を変える出来事が起こっている、ということだ。まだ気づいていないだけで。古代ギリシャの哲学者、ヘラクレイトスは、「人は、同じ川に二度入ることはできない。それは同じ川ではなく、彼も同じ人ではないからだ」と指摘した。
ヘラクレイトスの弟子、クラテュロスは、私たちは単なる傍観者ではない、と付け加えた。川に入ると、あなたは川を変える。静的なものはない。たとえ、微細な変化でも、時間が経つにつれて積み重なる。
科学者、特に複雑なシステムを研究している科学者は、この真実を昔から知っている。ローレンツが発見したような、カオス的なシステムでは、システムの任意の部分における小さな変化が、他のすべてに予測不可能な影響を与える。科学者たちが、何一つとして本当に独立したものはない、という明らかな点を見逃すことはあり得ない。すべては、統一された全体の一部だ。
ごく少数の人間が、私たちよりも本能的に、この真実を経験している。宇宙の漆黒の闇を背景に、地球全体を一目見た人たちだ。その光景は、人々の心を動かし、瞬く間に世界観をリセットする。でも、地球全体を見た幸運な宇宙飛行士たちは、感情や美しさに簡単に動かされる、感傷的な自由人だったわけではない。アメリカの宇宙計画が始まった時、NASAは、感情や畏敬の念に圧倒されて、重要な瞬間に航空機を墜落させる可能性が最も低い、合理的で機械的な実用主義者を、候補者として探した。
宇宙飛行士たちは、比較的冷静で感情を持たない気質に基づいて選ばれたにもかかわらず、青緑色の地球全体を見た人は、視点を覆すような啓示に圧倒された。「それは、私の人生で最も美しく、心を奪われる光景だった」と、アポロ8号のミッションを指揮したフランク・ボーマンは語った。
アポロ14号のパイロット、エドガー・ミッチェルも同意し、その経験は彼に「一体感の陶酔」を与え、存在の壊れることのない繋がりを認識させた、と指摘した。その小さな窓から外を眺めていると、自分の体の分子と、宇宙船自体の分子は、ずっと昔に、空で燃えていた古代の星の炉の中で作られたものだと気づいた。この一体感の自覚は、地球を外から見る人にとって、非常に一般的で深遠なものなので、オーバービュー効果という名前までついている。
私たちは、限られた視野にとらわれたままだ。宇宙船から外を眺める宇宙飛行士のように、その視野を広げると、個人主義が幻想であることがすぐに明らかになる。私たちを定義しているのは、繋がりだ。
最初、絡み合った世界は恐ろしく思えるかもしれない。誰も、自分がコントロールできていない、とか、半世界離れた見知らぬ人の決断や、何十年も前に忘れ去られた決断が、自分を殺したり、経済を不況に陥れたりする可能性がある、と言われたくない。好むと好まざるとに関わらず、それが世界の仕組みだ。すでに亡くなった人の決断でさえ、影響を与え続けている。もし、1905年にウィスコンシン州で4人の子供たちが殺されていなかったら、あなたはこれを読んでいないだろう。
良くも悪くも、その現実は、恐ろしいものではなく、驚くべきものであり、人生のあらゆる瞬間に、隠された意味を与える可能性がある。個人主義的な世界観を覆す。大きな決断をする際に、個人の運命をコントロールするのではなく、私たちの最も小さな決断でさえ重要であり、世界を永遠に変える。ウィリアム・ブレイクの詩「無垢の予兆」の冒頭の行には、科学的な真実がある。「一粒の砂に世界を見、一輪の野花に天国を見、手のひらに無限を握り、一時間に永遠を握る」。
世界における自分の姿をどのように捉えるか、レンズを調整する時が来た。私たちの混沌とした、絡み合った存在は、力強い、驚くべき事実を明らかにする。
私たちは、何もコントロールできないが、あらゆることに影響を与える。
この驚くべき事実に気づく人はほとんどいない。なぜなら、私たちは、その反対のことを伝えるメッセージ、つまり、絡み合っているのではなく、個人主義的である、というメッセージを浴びせられているから。私たちが飼い慣らすことができる、コントロール可能な世界という神話は、特に現代の西洋社会において、至る所に存在する。現代文化のあらゆるものが、私たちに主人公であるかのように感じさせ、世界を自分の気まぐれに合わせようとする。
権利ばかり主張する大人が、ささいな不満をライブ配信する。宇宙飛行士よりも、ユーチューバーになることを夢見る子供が3倍もいる。アメリカンドリームは、ステロイドを使った個人主義の妄想だ。すべては自分次第だ!それが本当なら、他の人の決断が、時間と空間を超えて生み出す、変動やさざ波を無視することができる。でも、時々、人生に隠された繋がりが、イヴァンとサッカーボールの物語のように、私たちを打ちのめす。一瞬、個人主義の神話に、不協和音が生じる。でも、私たちは肩をすくめて、立ち去り、嘘をつき続ける。
西洋の近代性は、私たちの世界における思考と信念の支配的なシステムであり、私たちの人生や社会で変化がどのように起こるかを説明するために、単純化された神話を生み出してきた。分離された個人が、目的を持って、独立して行動するという従来の知恵は、あまりにも浸透しているため、「実は、私たちはすべて、存在の統一された因果関係の網の中で完全に絡み合っている」と言うと、観察可能な経験的事実を宣言しているというよりも、自己啓発本を持ったニューエイジの教祖のように聞こえてしまう。
現代の誤解は、現実の広大な複雑さを切り詰め、その狂ったような混乱を、より扱いやすく感じるきちんとした小さな箱に詰め込むことを可能にする。それらの箱は、不確実性を確実性に、混沌を秩序に、無秩序な複雑さをエレガントな単純さに、そして、絡み合った偶発的な世界を、独立した選択をする(ほとんど)合理的な個人によって支配された世界に置き換える。
その箱は、私たちを安心させる。人間は、XがYを引き起こす、という単純な物語が好きだ。何千もの異なる要因が組み合わさってYを引き起こす、という物語は好まない。私たちは、大きな出来事を説明するために、大きな、単一の変化に焦点を当て、雪崩を引き起こす砂粒の蓄積を無視する。私たちは、自然の広大ささえも、それ自身の小さな別々の箱に入れ、自分たちと自然を、統一された全体として捉えるのではなく、ハイキングに行く場所として扱う。
私たちの言葉は、これらの誤解を反映している。作家で哲学者のアラン・ワッツが指摘したように、私たちは自分の誕生について話すとき、あたかも自分が宇宙に入ってきたかのように言うが、実際には、宇宙から出てきたのであり、たまたま幸福にも一時的に人間に再配置された原子の集合体なのだ。どこを見ても、この欺瞞的なパラダイムから流れ出す、欠陥のある仮定が溢れている。特に、人生のささいな変動は、安全に無視できる、という嘘が。個人主義を歴史上の他のすべての人間社会よりも優先する西洋文化は、私たちを結びつける驚くべき繋がりを無視することを容易にしてきた。
過去も現在も、誰もが個人主義の妄想を信じているわけではない。哲学には、根本的な分裂がある。原子論的な世界観と、関係論的な世界観との間だ。原子論的な世界観は、私たちの個々の性質は分離可能であり、宇宙のあらゆる物質を構成する原子に細分化して説明できるのと同じだと考える。相互作用ではなく、構成要素を研究する。哲学者のエリザベス・ウォルガストが述べたように、原子論的な思考では、「社会を構成する個人は、バケツの中の分子のように交換可能であり、社会は単なる個人の集まりに過ぎない」。西洋の哲学的伝統は、原子論を強調する傾向がある。
東洋哲学は、関係論的な思考に支配される傾向がある。システム内の構成要素間の繋がり、つまり、構成要素そのものよりも、最も重要視される。関係論的な世界観は、個人は、より大きなものの一部としてのみ理解することができ、私たちのアイデンティティは、より広い全体の一部として、自然の中で、社会的に、文脈的に定義されると考える。関係論的な考え方では、配偶者、母親、会計士など、他人との関係の中で自分のアイデンティティを定義する。たとえ、私たちが自分自身を原子論的に考えていたとしても、私たちの生活は、関係的に定義されている。個人間の繋がりと関係が、社会を構成する。誰もカクテルパーティーで、自己紹介する時に「人間です」なんて言わない。
この東洋と西洋の思考の違いはどこから来たのだろうか?一部の人々は、それが動物学的な歴史の偶然によるものかもしれない、と主張している。旧約聖書の創世記には、神が「我々の姿に似せて、人を造ろう。そして彼らに海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地を這うすべての生き物を支配させよう」と宣言している。この世界観では、人間は自然界の他のものとは異なっている。それは、キリスト教が誕生した頃の中東とヨーロッパの住民にとっては、真実だった。ラクダ、牛、ヤギ、ネズミ、犬は、私たちとは全く異なる生き物の、生きた動物園を構成していた。
対照的に、多くの東洋文化では、古代の宗教は、私たちと自然界との一体性を強調する傾向があった。ある理論によると、その理由の一部は、人々がサルや類人猿と一緒に暮らしていたからだという。私たちは、彼らの中に自分自身を認識した。生物学者のローランド・エンノスが指摘するように、オランウータンという言葉でさえ、「森の人」を意味する。ヒンドゥー教には、サル神ハヌマンがいる。中国では、楚の国がテナガザルを崇拝した。これらの身近な霊長類の中に、私たちは自然の一部であり、自然は私たちの一部である、ということを無視することは不可能になった、と理論は示唆している。
その起源に関わらず、関係論的な考え方と原子論的な考え方の違いは、宗教にも反映されている。ヒンドゥー教徒は、宇宙に存在するすべてのものの完全な統一性という概念であるブラフマンと、全体からの独立という幻想しか持たない個人の魂であるアートマンとを区別する。ヒンドゥー教の思想であるアドヴァイタ・ヴェーダーンタの伝統では、自己という幻想を認識したときにのみ、真の解放が起こり得る。したがって、ヒンドゥー教徒は、個人主義を妄想として明示的にラベル付けする。
同様に、仏教徒は、個人主義的な世界観の反転である「無我」の感覚を達成しようとする。多くの先住民族の文化も、個人主義ではなく、絡み合っているという感情を反映している。例えば、シエラマドレ山脈の高地に住むララムリ族は、 Iwfgara という概念を使って、「すべての生命の完全な相互接続性と統合」を表している。
かつて、キリスト教徒も、このような考え方を持っていた。初期のヨーロッパのキリスト教徒は、神を自然とは別のものとしてではなく、自然の一部、「すべてのものの中に存在する」ものとして見ていた。神の歴史の著者であるカレン・アームストロングが説明するように、それは、神が単なる存在ではなく、存在そのものであることを意味していた。啓蒙主義の時代までに、神の概念は変化していた。神は、ニュートンが「機械と幾何学に精通した」個人と見ていた、別の主体に変えられていた。
今日、現代のキリスト教は、個人の道徳的責任と、単独の神からの神の介入を求める祈りの両方において、ユニークな自己の役割を優先する傾向がある。現代のプロテスタントの一部の系統、特に米国では、「繁栄の神学」さえも根付いており、個人の信仰、宗教的活動への寄付、そして積極的な考え方は、神によって直接報われる、と信じられている。富は神のメニューにあるけど、それを注文するのは、あなた自身だ。
啓蒙主義後の多くのキリスト教徒にとって、私たちの人生の脚本は、周囲の拡散的な神の存在を通してではなく、唯一の超自然的な著者によって、私たちの頭上に書かれている。もし、イヴァンが溺死を免れたとしたら、それは、私たちが偶然にも救命の結び目を作り出した絡み合った世界に住んでいるからではなく、神、個人の神が、隠された大きな計画の一部として、彼を救うためにサッカーボールを送ったからだ。
これは、意図的で分離可能な個人的な決断によって形作られた世界観を強化する、解釈と意味の重要な変化だ。「プロテスタントの労働倫理」が、誰でも勤勉さによって神への信仰を示すことができることを示唆しているように、アメリカの文化的アイデンティティは、この見方から特に影響を受けている。永遠の救いの見方は、徹底的に個人主義的だ。
時間が経つにつれて、現代において、自然界との繋がりを失ったため、個人主義は強化されてきた。私たちは今、自分自身を、周囲のすべてやすべての人々よりも上に見ていて、その一部とは見ていない。狩猟採集民は、科学や技術については、私たちよりもはるかに無知だったけど、遠い過去のほとんどの一般の人々は、自然とその秘密との繋がりが、より緊密だった。彼らは、海を越えて話したり、天に旅したりすることはできなかったけど、彼らの生活は、世界に対する一般的な理解に依存していた。対照的に、私たちは深く、しかし狭い専門知識を持っている。何千年ものイノベーションと息を呑むような科学的進歩にもかかわらず、熱帯の島に漂着した場合、現代の専門家のほとんどよりも、古代ローマや中世イングランドの職人や農民と一緒に漂着した方が、生き残る可能性が高い。
現代人は、世界のほんの小さな断片を習得する。しかし、努力を調整し、それらの断片を組み合わせることによって、私たちは、以前には想像もできなかった可能性を解き放ってきた。それが、還元主義の大きな勝利だった。還元主義では、複雑な現象は、個々の部分に分解することによって、最も良く理解できると想定する。パーツを理解すれば、システムを理解できる。しかし、システムを分離可能なパーツとして捉えるほど、絡み合った繋がりを無視しやすくなる。還元主義は、驚くほど有用であることが証明されている。それは、私たちがあっと驚くような科学的進歩を遂げるのに役立ってきた。しかし、私たちは何が真実かではなく、何が役に立つかに焦点を当ててきた。構成要素と同じくらい、あるいはそれ以上に、繋がりが重要だ。現代科学が個人主義を顕微鏡で見るほど、それが精査に耐えられなくなる。
「個人」について語ることが何を意味するのか、という科学的概念さえも、見直されつつある。一部のシステム生物学者は、私たちの存在の相互接続された相互依存的な性質を認識し、人間を個人として言及するのをやめ、各個人を、ホロビオントとして言及し始めた。ホロビオントには、コアホスト(私たちの場合、人間)だけでなく、私たちの中に、あるいは私たちの周りに生息する生物の動物園も含まれる。
奇妙に聞こえるかもしれないけど、私たちは単なる自分自身ではなく、真菌、バクテリア、古細菌、ウイルスを含む、関連する微生物と組み合わされた人間の細胞の集合体だ。最良の推定では、私たちの中には、人間の細胞1つあたり、約1.3個の細菌細胞がいると考えられている。生物学者のマーリン・シェルドレイクが述べたように、「あなたの腸には、私たちの銀河の星よりも多くのバクテリアがいる」。ウイルスが私たちの体内時計に影響を与え、寄生虫が私たちの思考を変化させ、私たちのマイクロバイオームが気分障害を引き起こす可能性があるという、新たな証拠が出てきている。科学的には、ごく最近まで知ることができなかったけど、私たちは決して単独の存在ではなかった。自分たちの思考は、自分たちの内部に住む小さくて目に見えない生物の影響を部分的に受けている、ということを知れば、飼いならすことができる世界を独立して権威を持ってコントロールするという個人主義的な考え方は、意味をなさなくなる。戸惑うけど、それが真実だ。
この考え方は、私たちが持っているあらゆる直感