Chapter Content
えー、皆さん、こんにちは。今回も、あの、生命の物質について、ちょっとお話してみようかな、なんて思ってるんですけどね。
えー、まずね、自分の両親が、その、ぴったりのタイミングで結ばれなかったら、うん、多分、秒単位、いや、ナノ秒単位かもしれないけど、まあ、そこに、あなたはいなかったわけですよ。で、その、また、両親の両親も、そう、同じように、タイミングとか、やり方とか、全部、バッチリ合わないと、やっぱり、ここにいなかった。で、ずーっと、ずーっと、遡って、ご先祖様たちも、みんな、ちゃんと結ばれなかったら、まあ、当然、あなたもいなかったっていう、そういうことですよね。
いやー、時間っていうのはね、本当にすごいですよね。遡れば遡るほど、その、あなたを生み出した人の数って、どんどん増えていくんですよ。たった8世代前、チャールズ・ダーウィンとか、エイブラハム・リンカーンが生まれた頃でさえ、もう、250人以上のご先祖様がいたわけですよ。その人たちが、こう、組み合わさって、今のあなたが存在するっていうね。で、さらに、昔、シェイクスピアとか、メイフラワー号の時代まで遡ると、なんと、16384人ものご先祖様がいるんですって!いやー、信じられない。その人たちの遺伝子が、こう、組み合わさって、奇跡的に、今のあなたを作り上げたっていうね。
さらにね、20世代前になると、ご先祖様の数は、もう100万人以上!104万8576人ですよ。で、さらに5世代遡ると、3355万4432人。で、30世代前になると、なんと、10億人超え!10億7374万1824人!これ、いとことか、はとことか、もっと遠い親戚は含んでないんですよ?直系のご先祖様だけですよ。で、64世代前、古代ローマの時代になると、もう、100京人ですよ!えーっと、地球上に存在した人の総数の何千倍だって!
まあね、これ、ちょっと計算おかしいですよね。でもね、それにはちゃんと理由があって、あのね、あなたの血筋っていうのは、別に、そんなに、あの、純粋じゃないんですよ。つまりね、ある程度の、親戚同士の結婚がなかったら、あなたはここにいなかった。まあ、実際ね、そういうことって、結構、あるんですよ。何世代か、こう、遺伝的に、ちょっと間を空けたりするんだけど。あなたの家系にはね、何百万人ものご先祖様がいるんだけど、その中に、母親の側の遠い親戚と、父親の側の遠い親戚が、夫婦になったっていうケースが、結構あるんですよ。実際ね、もし、今のパートナーが、同じ民族とか、同じ国の人だったら、あなたたち、何らかの血縁関係がある可能性、大ですよ。でね、バスの中とか、公園とか、カフェとか、どこでもいいんだけど、人がたくさんいる場所を見渡すとね、そこにいる人たちって、結構、あなたの親戚だったりするかもしれないんですよ。もしね、誰かが、シェイクスピアとか、ウィリアム征服王の子孫だって自慢してきたら、「あ、私も!」って言っても、別に、嘘じゃないんですよ。文字通り、というか、本質的に、私たちはみんな、家族なんです。
あとね、私たちって、驚くほど、似てるんですよ。あなたの遺伝子と、他の誰かの遺伝子を比べるとね、平均して、約99.9%が同じなんですって!その、たった0.1%の違いが、私たちを人間たらしめてるっていうね。イギリスの遺伝学者、ジョン・サルストンさんっていう人がいるんだけど、その人が言うには、「1000個のヌクレオチド塩基のうち、約1個」が、私たちの個性を与えてくれるんだって。最近ね、人間の遺伝子構造の研究が、すごく重要視されてるんだけど、実はね、単一の人間の遺伝子構造なんて、存在しないんですよ。一人ひとりの遺伝子構造は、みんな違うんです。そうでなければ、私たちは、みんな同じになっちゃう。私たちの遺伝子構造が、こう、常に組み換えられて、それぞれが、ほぼ同じで、でも、完全に同じじゃないから、私たちは、たくさんの個人でありながら、一つの種として存在できるっていうね。
でもね、そもそも、遺伝子構造って何?遺伝子って何?って話ですよね。ええと、また、細胞の話から始めましょうか。細胞の中には、細胞核があって、その中に、染色体があるんです。染色体は、46本の複雑な物質で、そのうち23本は、お母さんから、23本はお父さんからもらったもの。あなたの体の中の、ほとんどすべての細胞、99.9999%が、同じ数の染色体を持ってるんですよ。まあ、例外もあって、赤血球とか、免疫系の細胞とか、卵子とか、精子とか、そういうのは、完全な遺伝子構造を持ってないんだけどね。で、染色体には、あなたの生命を生成して維持するために必要な、すべての命令が書かれてるんです。それは、デオキシリボ核酸、いわゆるDNAっていう、小さくて不思議な化学物質の、長ーい、長ーい鎖でできてるんですよ。DNAはね、「地球上で最も並外れた分子」って言われてるんです。
DNAが存在する理由は、ただ一つ。それは、より多くのDNAを生成すること。あなたの体の中には、ものすごい量のDNAがあるんですよ。約2メートルものDNAが、ほとんどすべての細胞に詰め込まれてるんですから。DNAの単位長さあたりには、32億個もの暗号文字が含まれてて、10の34億乗通りもの組み合わせを作り出せるんだって!クリスチャン・ド・デューブさんっていう人が言うには、「何があっても、唯一無二の存在を保証できる」んだって。いやー、すごい確率ですよね。1の後に、30億個以上のゼロが並ぶっていうんだから。それを印刷するだけで、普通の大きさの本が5000冊も必要になるんですって。鏡の中の自分を、じっくり見てください。そして、自分の中に、1兆個もの細胞があって、ほぼすべての細胞に、約2メートルものDNAが詰め込まれているっていうことを考えてみてください。そうすると、あなたの体の中に、どれだけのDNAがあるかっていうのが、わかると思いますよ。もし、あなたの体の中のすべてのDNAを繋げて一本の線にしたら、それは、地球から月までの距離を、1往復とか2往復とかじゃなくて、何往復もするくらいの長さになるんですって!ある統計によると、あなたの体の中のDNAの総延長は、なんと2000万キロメートルにもなるんだって!
つまりね、あなたの体は、DNAを作るのが大好きなんです。DNAがないと、あなたは生きられない。でもね、DNA自体には、生命はないんですよ。分子にも生命はないんだけど、DNAは、特に生命がないって言えるんです。遺伝学者のリチャード・レウォンティンさんっていう人が言うには、DNAは「生命の世界で最も反発性のない、化学的に不活性な分子」なんだって。だから、殺人事件の捜査で、干からびた血痕とか精液とか、古代のネアンデルタール人の骨とかから、DNAを抽出できるんですよ。そして、科学者たちが、こんなにも長い間、一見、取るに足らない、つまり、生命のない謎めいた物質を解読するのに苦労した理由も、そこにあるんです。生命そのものの中で、非常に重要な役割を果たしているのにね。
DNAはね、私たちが知ってる以上に、昔から存在していたんですよ。でも、1869年になって初めて、ドイツのテュービンゲン大学に勤めていた、スイス人科学者のヨハン・フリードリヒ・ミーシャーっていう人が、DNAを発見したんです。ミーシャーさんは、手術用包帯から出てきた膿を顕微鏡で調べている時に、見慣れない物質を見つけたんです。それを、核の中に存在するものだから、核素って名付けたんです。当時、ミーシャーさんは、その存在に気づいただけだったんだけど、核素は、明らかに、彼の心に強い印象を残したんです。23年後、ミーシャーさんは、叔父に宛てた手紙の中で、この分子が、遺伝の背後にある原動力かもしれない、って書いたんですって。いやー、すごい洞察力ですよね。でもね、この考えは、当時の科学の水準を超えていたから、全然、注目されなかったんです。
その後、半世紀にわたって、この物質、今では、デオキシリボ核酸、つまり、DNAとして知られているんだけど、これが、遺伝において果たしている役割は、せいぜい、取るに足らないものだと考えられていたんです。だって、単純すぎるんですよ。4種類しかない、核酸塩基っていう基本的な物質で構成されているだけなんです。まるで、4文字しかないアルファベットみたいじゃないですか。そんな、たった4つの文字で、生命の物語をどうやって書けるんだ?って話ですよ。(まあ、答えとしては、モールス信号の点と線を使って、複雑な電報を送るのと、似たようなものなんですけどね。)みんなが知る限りでは、DNAは、何もしていなかったんです。ただ、細胞核の中で、静かに待機しているだけ。染色体を何らかの形で拘束しているとか、指示に従って、ちょっと酸度を上げるとか、まあ、その他、知られていない、取るに足らない任務をこなしているとか、そんな感じに思われてたんですね。複雑なものは、タンパク質の中に存在すると考えられていたんです。
でもね、DNAの役割を無視すると、2つの問題が出てくるんですよ。まず、DNAの量が、ものすごく多いんですよ。ほとんどすべての細胞核の中に、約2メートルものDNAがあるんですから。明らかに、細胞の中で、何らかの重要な役割を果たしているはずなんです。一番重要なのは、実験で、DNAが頻繁に姿を現すんですよ。まるで、謎の殺人事件の容疑者のようにね。特に、肺炎球菌とか、バクテリオファージ(感染性細菌ウイルス)に関する2つの研究で、DNAが重要な役割を果たしていることが示されたんです。DNAは、生命にとって不可欠な物質であるタンパク質を作る上で、何らかの役割を果たしていることがわかったんだけど、タンパク質は、細胞核の外で作られていて、DNAとは、すごく離れた場所にあるから、DNAが、どうやって、タンパク質の重合に影響を与えているのか、全然わからなかったんです。
昔はね、誰も、DNAが、どうやってタンパク質に情報を伝えているのか、わからなかったんですよ。今では、RNA、つまり、リボ核酸が、その間を取り持つ、翻訳の役割を果たしていることがわかっています。DNAとタンパク質は、同じ言語を話さないんです。これは、生物学における、注目すべき奇妙な出来事なんですよ。約40億年の間、DNAとタンパク質は、生命の世界で、非常に重要な役割を演じてきたんだけど、それぞれが、互いに相容れない暗号を話しているんです。まるで、一人がスペイン語を話して、もう一人がヒンディー語を話しているみたい。意思疎通をするためには、通訳が必要なんです。その通訳が、RNAなんです。リボソームっていう化学物質の助けを借りて、RNAは、細胞の中のDNAの情報を、タンパク質が理解できる形に翻訳し、タンパク質に指令を送るんです。
でもね、20世紀初頭、私たちが、この話に戻ってきた時、私たちは、まだ、長い道のりを歩まなければならなかったんです。遺伝の不可解な現象に関連すること、ほとんどすべてのことを理解するためにはね。
明らかに、何か、すごく斬新な実験が必要だったんです。幸運なことに、そこに、その任務を遂行できる、勤勉で才能にあふれた若者が現れたんです。彼の名前は、トーマス・ハント・モーガン。1904年、メンデルのエンドウ豆の実験が再発見されてから、わずか4年後、モーガンは、染色体の研究に取り組み始めたんです。遺伝子っていう言葉が初めて登場するまで、まだ10年近くも先のことでした。
染色体はね、1888年に偶然発見されたんです。染色体って名前が付けられたのは、染色しやすいから。顕微鏡で簡単に見えるんですよ。世紀の変わり目には、染色体が、何らかの特性を伝える上で、一定の役割を果たしていることは明らかになってきたんだけど、それが、どうやって作用するのか、誰も知らなかったんです。それどころか、本当に作用するのかどうか疑っている人もいたくらいなんです。
モーガンはね、ショウジョウバエっていう小さな昆虫を、実験対象に選びました。ショウジョウバエはね、小さくて、無色で、どこにでもいる、いつも私たちの飲み物に飛び込んでくる、ちょっと迷惑なやつですよね。実験サンプルとして、ショウジョウバエは、比類なき利点を持っていました。スペースを取らないし、ほとんど食べ物を消費しないし、牛乳瓶の中で、簡単に何百万匹も育てられるし、卵から成虫になるまで、わずか10日程度だし、染色体は4対しかないので、実験に非常に便利なんです。
ニューヨークのコロンビア大学、シャーマーホン・ホールにある小さな実験室(後に「ショウジョウバエ室」と呼ばれるようになったんだけどね)、モーガンと彼の仲間たちは、注意深く、何百万匹ものショウジョウバエを育てて、交配させました(ある生物学者は、数十億匹って言ってたけど、それはちょっと誇張かもしれない)。彼らは、その一匹一匹をピンセットでつまんで、宝石商のルーペを使って、遺伝的な、ほんのわずかな変化を観察したんです。突然変異体を作るために、6年間もの間、彼らは、あらゆる手を尽くしました。ショウジョウバエにX線を照射したり、明るい光の中で育てたり、暗闇の中で育てたり、オーブンで軽く焼いたり、遠心分離機で激しく揺さぶったり。でも、すべて、うまくいかなかったんです。モーガンはね、ほとんど、すべての努力を諦めようとしていました。そんな時、突然、奇妙な変異体が、繰り返し現れたんです。それは、目が白いショウジョウバエ。普通のショウジョウバエの目は、赤いんです。この突破口を開いて、モーガンと彼の助手たちは、その後、特定の特性を子孫の中で追跡できる、有用な突然変異体を育て上げたんです。こうして、彼らは、特定の特性と、特定の染色体との相互関係を研究し、染色体が遺伝の過程で、重要な役割を果たしていることを、ある程度、満足のいく形で証明することができたんです。
でもね、生物学の次の複雑なレベルでは、問題は依然として残っていたんです。それは、謎めいた遺伝子と、それを構成するDNAが、非常に分解しにくく、研究しにくいっていうこと。1933年末、モーガンがノーベル賞を受賞した時でさえ、多くの研究者は、遺伝子の存在を疑っていたんです。モーガンが当時指摘したように、「遺伝子とは何か?それは本当に存在するものなのか、それとも単なる想像上の産物なのか」について、意見の一致を見るのは難しかったんです。細胞活動において、非常に重要な役割を果たしているものが、科学者たちに、その真実性をなかなか認められなかったっていうのは、驚くべきことかもしれませんね。華莱士、金、桑德っていう人たちが書いた『生物学:生命科学』っていう、とても読みやすい、貴重な大学の教科書があるんだけど、その中で、彼らは、思考とか、記憶とか、そういう精神活動について、私たちは今日、大体、同じ状況にあるって指摘してるんです。間違いなく、私たちは、それらを持っていることは知っているんだけど、それが、どんな具体的な形で存在しているのか、もし存在するとすれば、全然わからない。長い間、遺伝子も、そうだったんです。モーガンの同時代の人々にとって、遺伝子を体から取り出して、研究に使うなんていう考えは、まるで、科学者が思考の束を手に入れて、顕微鏡で検査できると考えるのと同じくらい、馬鹿げたことだったんです。
当時、確実に言えることは、染色体に関連した何かが、細胞の繁殖を支配しているということ。1944年、マンハッタンにあるロックフェラー研究所で、才能にあふれ、内気なカナダ人科学者のオズワルド・エイブリーが率いる研究チームが、15年間の努力の末、非常に困難な実験に成功したんです。彼らは、病原性のない細菌と、異なる性質のDNAを混合培養し、その細菌に、永続的な感染能力を持たせることに成功したんです。そして、DNAが単なる不活性な分子ではなく、遺伝の過程で、非常に活発な情報の担体である可能性が高いことを証明したんです。オーストリア生まれの生化学者、エルビン・チャーガフは、後に、エイブリーの発見は、2つのノーベル賞に値すると、厳粛に指摘したんです。
残念なことに、エイブリーは、研究所の同僚に反対されたんです。その人は、アルフレッド・ミルスキーっていう名前で、頑固で嫌みな、熱狂的なタンパク質研究者だったんです。彼は、自分の権力を利用して、エイブリーの研究を貶めようと、あらゆる手を尽くしたんです。伝えられるところによると、彼は、ストックホルムのカロリンスカ研究所当局に、エイブリーにノーベル賞を授与しないように、強く勧めたんですって。当時、66歳で、心身ともに疲れていたエイブリーは、仕事のプレッシャーと、絶え間ない議論に耐えられず、仕事を辞めて、それ以来、研究をすることはなかったんです。しかし、別の場所での研究が、エイブリーの結論を完全に証明したんです。間もなく、DNA構造を解明する競争が始まったんです。
もし、あなたが1950年代初頭に、DNA構造を解明する競争で、誰が最初に勝利するかを賭けたとしたら、ほぼ間違いなく、アメリカ屈指の化学者、カリフォルニア工科大学のライナス・ポーリングに賭けたでしょうね。分子構造の研究において、ポーリングは比類なき天才だったし、X線結晶学の分野の先駆者でもあったんです。X線結晶学っていうのは、DNAの核心を解明する上で、非常に重要な役割を果たした技術なんです。ポーリングは、生涯で数々の功績を挙げ、ノーベル賞を2回も受賞しているんですよ(1954年に化学賞、1962年に平和賞)。でもね、DNAの研究に関しては、その構造が、二重らせん構造ではなく、三重らせん構造であると誤って認識してしまったために、研究は決して軌道に乗ることがなく、最終的に、4人のイギリス人科学者に勝利の栄冠が輝いたんです。その4人の科学者は、一つのグループではなく、お互いを無視することも多く、そして、この分野の初心者と言っても過言ではなかったんです。
その4人の中で、最も普通のデザイナーと言えるのは、モーリス・ウィルキンス。彼は、第二次世界大戦中に、密室にこもって、原子爆弾の設計を手伝っていたんです。同じ頃、彼らのうちの2人、ロザリンド・フランクリンと、フランシス・クリックは、イギリス政府に勤務し、クリックは爆破、フランクリンは採炭の研究をしていたんです。
その4人の科学者の中で、最も異例なのは、ジェームズ・ワトソン。彼は、天才と呼ぶにふさわしいアメリカ人でした。子供の頃は、人気ラジオ番組「子供クイズ番組」のメンバーだったんですよ(少なくとも、ある程度、J.D.サリンジャーの『フラニーとズーイー』に登場するグラス家のメンバーとか、他のいくつかの作品から影響を受けたと言えるでしょう)。15歳でシカゴ大学に入学し、22歳で博士号を取得。当時、ケンブリッジ大学の有名なキャベンディッシュ研究所で働いていました。1951年、彼は、まだ23歳になったばかりで、髪の毛はボサボサで、写真に写っている姿は、まるで、フレームの外にある、強力な磁石に引っ張られているかのようでした。
クリックは、ワトソンより12歳年上で、当時、まだ博士号を取得していませんでした。彼の髪の毛は、それほどボサボサではなかったけど、少し硬かった。ワトソンの記述によると、クリックは、大口を叩き、騒がしく、議論好きで、他人に自分の意見を賛成させたがり、しょっちゅう、あれこれ言われる人だったそうです。彼らの2人は、どちらも、生化学の正式な訓練を受けていませんでした。
彼らの考えは、DNAの分子の形を特定できれば、DNAが、なぜ、そういう働きをするのか、わかるはずだ、っていうことでした。そして、それは、後に証明されたんです。彼らは、できるだけ苦労せずに、絶対にやらなければならない仕事だけをすれば、目的を達成できると、考えていたようです。ワトソンが、自伝『二重らせん』の中で、歓喜に満ちて(もしかしたら、少し自己顕示欲も込めて)、こう述べているように、「化学の知識を全く学ばなくても、遺伝子の問題を解決したい」と思っていたんです。実際、彼らは、DNAの研究をするように、指示されていなかったんです。しばらくの間、自分たちで密かに進めていた研究を、中止するように命じられていたんです。それを隠すために、ワトソンは、結晶学の研究をしていると嘘をつき、クリックは、X線回折を使った巨大分子に関する論文を完成させようとしていると、言ってごまかしていました。
DNAの謎を解き明かした、っていう一般的な話では、クリックとワトソンが、ほとんどすべての功績を勝ち取っているんだけど、彼らの突破口は、彼らのライバルである、他の研究者たちの研究成果に基づいているんです。歴史家のリサ・ジャーディンさんの言葉を借りれば、その成果の獲得は「偶然性」を伴っていたんです。少なくとも、最初はね。ロンドン大学キングス・カレッジのウィルキンスとフランクリンは、彼らよりもはるかに先を進んでいたんです。
ニュージーランド生まれのウィルキンスは、孤立していて、ほとんど姿を現さない人だったんです。1962年、彼は、DNA構造を解明した功績で、クリックとワトソンと共にノーベル賞を受賞しました。しかし、1998年に、アメリカ公共放送(PBS)が制作した、DNA構造の解明に関するドキュメンタリー番組では、彼の功績については、一言も触れられなかったんです。
その数人の中で、フランクリンは、最も神秘的な人物の一人でした。ワトソンの『二重らせん』の中で、彼は、フランクリンを、ほとんど辛辣な言葉で、扱いにくく、口が堅く、協力的でなく、わざと女性らしくない、と描写しているんです。特に、女性らしくないっていう点について、ワトソンは、ひどく不快に感じていたようです。彼は、フランクリンは「魅力的ではないわけではない。服装にもう少し気を遣えば、実は、かなり綺麗だ」と考えていたんです。しかし、フランクリンは、その点で、全ての人を失望させたんです。彼女は、口紅さえ使わなかった。ワトソンは、それについて、非常に困惑していました。そして、彼女の服装は「完全にイギリスの若い女性才媛のスタイルだった」そうです。(注:1968年、ハーバード大学出版局は、『二重らせん』の出版を中止しました。その理由は、クリックとウィルキンスが、人物の描写があまりにも辛辣だと不満を述べたためです。科学史家のリサ・ジャーディンさんは、このことについて「不当に感情を傷つけている」と述べています。上記の記述は、ワトソンが、その口調を和らげた引用です。)
しかし、DNA構造を解明する研究において、フランクリンは、X線結晶回折を使って、最高の画像を取得していたんです。この技術は、ライナス・ポーリングによって完成され、結晶原子図の研究に、見事に活用されていました(そのために「結晶学」っていう名前が付けられたんです)。でも、DNA分子は、それよりも、もっと捉えどころのない対象だったんです。フランクリンは、その過程で、良い成果を上げていたんだけど、ワトソンが憤慨していたのは、彼女が、自分の研究成果を、誰とも共有しようとしなかったことなんです。
フランクリンが、自分の成果を、熱心に誰かと共有しなかったのは、完全に彼女のせいだとは言えません。1950年代のキングス・カレッジでは、女性研究者は、先入観に満ちた偏見に押しつぶされそうになっていました。その偏見は、現代の感情を持つ人(実際には、感情を持つすべての人)には耐えられないものでした。彼女たちの地位がどれほど高くても、成果がどれほど顕著であっても、大学の上級休憩室に入ることは許されませんでした。彼女たちは、狭苦しい部屋で食事をしなければならなかった。ワトソンさえ、「暗くて狭い」場所だったと認めています。特に、彼女は、自分の研究成果を3人の男性と共有するように、大きなプレッシャーを、しばしば、絶え間なく嫌がらせを受けていたんです。その3人の男性は、彼女の成果を知りたがっていたけど、敬意を払うっていうような、好ましい資質をほとんど示さなかった。クリックでさえ、後になって「私たちは、彼女に対して、いつも、なんて言うか、横柄だった」と認めています。彼らのうちの2人は、キングス・カレッジの互いに競合する研究所から来ていて、もう一人は、ある程度、公然と彼らの味方をしていたんです。そのため、フランクリンが、自分の成果を、引き出しにしまっておいたとしても、不思議ではありません。
ウィルキンスとフランクリンは、お互いに仲が悪く、ワトソンとクリックは、そのことを利用して、自分たちの利益のために役立てていたようです。クリックとワトソンが、恥ずかしげもなく、ウィルキンスの領域を侵犯した一方で、ウィルキンスは、ますます、彼らの味方になっていった。それも、完全に不思議なことではありませんでした。なぜなら、フランクリン自身の行動が、奇妙になっていたからです。フランクリンの研究が、DNA構造が、間違いなく、らせん構造であることを示しているにもかかわらず、彼女は、そうではないと言い張っていたんです。ウィルキンスが、衝撃を受け、困惑したのは、1952年の夏、フランクリンが、キングス・カレッジの物理学科の近くに、掲示を張り出し、嘲笑的な口調で、「D.N.A.らせんは、1952年7月18日、金曜日に死亡しました……M.H.F.ウィルキンス博士が故二重らせんに弔いの言葉を述べることを望みます」と書いたことです。
その結果、1953年1月、ウィルキンスは、フランクリンのDNA構造のX線回折写真を、ワトソンに見せたんです。彼は、そうすることについて「明らかにフランクリンに挨拶もしていなければ、彼女の許可も得ていませんでした」。それを、彼にとって非常に役立つことだった、と表現するには、十分ではありません。何年も経ってから、ワトソンは、それが「決定的に重要なことだった……それは私たちを大いに励ました」と認めています。DNA分子の基本的な形状と、他のいくつかの重要なデータを把握したことで、ワトソンとクリックは、自分たちの仕事のペースを上げ、すべてが、うまくいきそうに思えました。ある時、ポーリングが会議に出席するために、イギリスへ向かったんです。彼は、会議中