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えーと、あのね、ヘンリー・キャベンディッシュがロンドンで実験してた頃、なんと650キロ離れたエディンバラでは、ジェームズ・ハットンの死が近づいてたんですよ。まあ、ハットンにとっては残念なニュースだけど、科学界にとっては朗報でね。なぜかって言うと、ジョン・プレイフェアっていう人が、ハットンの作品を書き直す道が開かれたから。
ハットンはね、確かに観察眼が鋭くて、おしゃべり好きで、一緒にいると楽しい人だったらしいんだけど、地球の神秘的な、こうゆっくりとした形成過程についての洞察を、誰にでも理解できる形で文章にするのが苦手だったんだよね。ある伝記作家が嘆いてたんだけど、「彼は言葉の使い方をほとんど理解していなかった」って。もう一行書くたびに眠たくなっちゃう、みたいな。彼の1795年の大作、『地球論』っていう本の中でね、ある問題についてこんな風に語ってるんですよ。
「我々が住む世界は、当時の地球を構成していた物質から直接作られたものではなく、現代から遡って、我々が第三世代と考える地球の物質から作られたものである。その地球は、陸地が海面に現れる前に存在し、現在の陸地はまだ海水の下にあった。」
うーん、わかりにくい!でもね、彼はほぼ一人で、すごく賢く地質学を創始して、地球に対する私たちの認識を変えたんだからすごいよね。ハットンは1726年に裕福なスコットランドの家庭に生まれて、経済的に恵まれたから、研究に没頭できたんだよね。医学を学んだけど、好きになれなくて、農業に転向したんだって。ずっとベリックシャーにある自分の農場で、のんびりと科学的な方法で農業をしてたんだ。で、1768年に土地と羊に飽きて、エディンバラに移住したんだって。そこで、コールタールから塩化アンモニウムを生産するビジネスを始めて、成功させたみたい。同時に、色々な科学研究にも取り組んでたんだよね。当時、エディンバラは知識人が集まる活気のある中心地だったから、ハットンは水を得た魚みたいに、生き生きとしてたんだって。牡蠣クラブっていう学会の主要メンバーになって、アダム・スミスとか、ジョセフ・ブラックとか、デイヴィッド・ヒュームとか、ベンジャミン・フランクリンとか、ジェームズ・ワットとか、色んな人と夜な夜な語り明かしたんだって。
当時の慣習で、ハットンは何にでも興味を持ってたみたいで、鉱物学から形而上学までね。薬品を使って実験したり、炭鉱の採掘方法とか、運河の建設方法を調べたり、塩鉱を調べたり、遺伝のメカニズムを推測したり、化石を集めたり、雨とか空気の組成とか運動法則についての理論を立てたり。でも、やっぱり一番興味があったのは地質学だったんだね。
でね、色んな人が興味を持ってた問題の中に、山頂で古代の貝殻とか、海の生物の化石がよく見つかるのはなぜかっていうのがあったんだよね。どうしてそんな場所に?
多くの人が、もう答えを見つけたと思っててね。二つの対立する陣営に分かれてたんだ。水成論者は、地球上のあらゆるもの、高い場所にある海の貝殻も、海面の昇降で説明できるって考えてたんだ。山とか丘とか、地形は地球そのものと同じくらい古くて、地球規模の洪水で水に浸食されただけだってね。
で、反対が火成論者。火山とか地震とか、活発な力が地球の表面を絶えず変化させてるって考えてたんだ。でも、海とは関係ないってね。洪水がない時に、水はどこへ行くんだっていう、答えにくい質問を投げかけたりね。アルプス山脈を飲み込むくらいの水が存在したなら、落ち着いた後、その水はどこにあるんだ、みたいな。地球は内部の力と表面の力の影響を受けてるって考えてたんだ。でも、どうして貝殻が山頂にあるのか、説得力のある説明はできなかったんだよね。
こういうことを考えてるうちに、ハットンは色々な素晴らしいアイデアを思いついたんだ。自分の農地を見て、岩が風化して土になり、土の粒子が小川とか川の水に流されて、別の場所に堆積するのを見たんだって。この過程が地球の自然な終焉まで続いたら、地球は最終的にすごく平らになるってことに気づいたんだね。でも、周りには丘がたくさんある。明らかに、何か別の過程、何かの更新とか隆起が、新しい丘とか山を作ってるんだって。山頂にある海洋生物の化石は、洪水で堆積したんじゃなくて、山自体と一緒に隆起したんだって考えたんだね。地球内部の地熱が新しい岩石と大陸を作って、新しい山を押し上げてるんだって。控えめに言っても、地質学者はこの考え方の意味をなかなか理解しなかったんだけど、200年後に、プレートテクトニクス理論を採用したんだよね。ハットンの理論は特に、地球が形成される過程には、誰が想像するよりも長い時間がかかるってことを示唆してたんだ。これはもう、地球に対する認識を根本から変えるような、深い洞察だったんだよね。
で、1785年にハットンは自分の考えを長い論文にして、エディンバラ王立学会の会議で発表したんだけど、ほとんど誰にも注目されなかったんだって。まあ、理由も簡単でね。彼はこんな風に論文を読んでたんだもん。
「ある場合において、形成の力は、独立して存在する物体の内部に存在する。なぜなら、この物体が熱によって活性化された後、物体の特有の物質の反応を通じて、脈を構成する裂け目を形成するからである。別の場合において、それでもなお、その内部に脈を形成する物体に対して、原因は外的である。最も激しい断裂と引き裂きが発生した。しかし、その原因はまだ努力している。それは、脈には現れない。なぜなら、それは我々の地球の強固な物体の内部には存在しないからである。そこでは、鉱物または鉱脈の特定の物質が、すべての隙間とすべての断層に見出すことができる。」
そりゃあ、聞いてる人も何を言ってるのか、ほとんどわかんないよね。友達は彼に、もっと詳しく理論を展開するように勧めたんだけど、もっと大きなスペースがあれば、ひょっとしたらわかりやすく説明できるかもしれないって期待してね。優しいよね。ハットンはその後10年間かけて大著を準備して、1795年に二巻本で出版したんだ。
その二冊の本は合わせて1000ページ近くあってね、彼の悲観的な友人たちが心配してたよりも、ずっとひどい出来だったんだって。信じられないくらいにね。しかも、作品の半分近くはフランスの資料から引用されてて、フランス語のままだったんだ。第三巻は全然魅力がなくて、ハットンが死んでから一世紀以上経った1899年まで出版されなかったんだって。第四巻、つまり最後の巻は、結局出版されなかったんだよね。ハットンの『地球論』は、読者が最も少ない重要な科学書に選ばれてもおかしくないくらい、難解だったんだね。19世紀最大の地質学者で、何でも読んでたチャールズ・ライエルも、この本は読めなかったって言ってるくらいだからね。
幸運なことに、ハットンはジョン・プレイフェアっていう、ボズウェルみたいな人物を見つけたんだ。プレイフェアはエディンバラ大学の数学教授で、ハットンの親友だったんだね。彼は美しい散文を書けるだけじゃなくて、ハットンのそばに長年いたから、ハットンが本当に言いたかったことを、ほとんどの場合理解してたんだ。1802年にハットンが亡くなって5年後、プレイフェアはハットンの原理を要約した本、『ハットン地球論に関する説明』っていう本を出したんだ。この本は、地質学に興味のある人に歓迎されたんだって。1802年当時は、そういう人はまだ少なかったんだけどね。でも、状況は変わろうとしてたんだ。どう変わったかって言うと…
1807年、ロンドンのコヴェント・ガーデンにあるロング・エーカー通りのフリーメイソンズ・タバーンに、志を同じくする13人が集まって、ある飲食クラブを設立したんだ。それが後に地質学会と呼ばれるようになるんだけど。学会は月に一度集まって、マデイラワインを一杯か二杯飲みながら、地質学について意見交換したんだって。会費はわざと高めの15シリングに設定して、頭の悪い人を寄せ付けないようにしてたんだって。でも、すぐに、恒久的な本部がある、きちんとした組織が必要だってことがはっきりしたんだよね。新しい発見を共有したり、議論したりできる場所がね。10年も経たないうちに、会員数は400人に増えたんだ。もちろん、みんな紳士だけどね。地質学会は王立学会に匹敵するくらい、国の主要な科学団体になりそうだったんだ。
11月から翌年の6月まで、会員は月に二回集まったんだ。なぜかって言うと、この時期になると、ほとんどの人が出かけて、夏の間は野外調査をしてたから。鉱石を探しに出かけるのは、お金のためじゃなくて、学者ですらない人が多かったんだよね。お金と時間がある紳士が、アマチュアとして趣味でやってたんだ。1830年までに会員数は745人に増えたんだって。こんなことは、もう二度とないだろうね。
今では考えられないけど、地質学は19世紀の人々を夢中にさせたんだよね。他の科学ではありえなかった、すごいことだよ。1839年にロデリック・マーチソンが『シルル紀系』っていう、分厚くて重い本を出版したんだけど、その本はすぐにベストセラーになって、4版まで出たんだって。一冊8ギニーもしたのにね。しかも、ハットンのスタイルで、全然読みやすくなかったらしいんだけど。
マーチシンの支持者も認めてたんだけど、「文学的な魅力は全然ない」んだって。でも、偉大なチャールズ・ライエルが1841年にアメリカに行って、ボストンで一連の講演会を開いた時には、毎回3000人もの聴衆がローウェル研究所に押し寄せて、海の沸石とか、カンパニア地方の地震について、静かに聞き入ってたんだって。
近代思想界全体で、特にイギリスでは、教養のある人は田舎に行って、「石を叩く」って言って、地質調査みたいなことをしてたんだよね。しかも、真面目にやっててね。シルクハットに黒いスーツを着て、おしゃれしてたんだ。例外はオックスフォード大学のウィリアム・バックランド牧師で、彼は野外調査に博士号のガウンを着ていくのが好きだったんだって。
野外調査は、たくさんの傑出した人物を惹きつけたんだ。特に、さっき名前が出てきたマーチソンは、人生の前半の30年近くを、馬に乗ってキツネを追いかけたり、空を飛ぶ鳥を猟銃で撃ち落としたりして過ごしてたんだよね。新聞を読んだり、カードゲームが得意なこと以外、頭を使うようなことは何もしてなかったんだって。ところが、岩石に興味を持ち始めて、あっという間に地質学界の巨人になったんだから、すごいよね。
それから、ジェームズ・パーキンソン博士。彼は初期の社会主義者でもあって、『血なまぐさい革命』とか、過激なパンフレットをたくさん書いてたんだ。1794年には、「玩具の空気銃計画」っていう、ちょっとクレイジーな陰謀があったんだよね。ジョージ3世が劇場で観劇してる時に、毒矢で首を射ようとしたんだって。パーキンソンはこれに関わって、枢密院に連行されて尋問されて、オーストラリアに送られそうになったんだけど、訴追は取り下げられたんだって。で、徐々に、人生に対して保守的な態度をとるようになって、地質学に興味を持ち始めたんだって。最終的には地質学会の創設者の一人になって、『太古の有機遺物』っていう、重要な地質学の著作を書いたんだって。その本は半世紀にわたって何度も再版されたんだって。彼はその後、問題を起こすことはなかったらしいんだけど、今日、私たちが彼を覚えているのは、当時「振戦麻痺」と呼ばれていた病気についての画期的な研究のおかげなんだよね。今はパーキンソン病って呼ばれてるけど。あとね、パーキンソンは、1785年に景品付きのセールで自然史博物館を当てた、歴史上唯一の人になったかもしれないんだって。その博物館は、ロンドンのレスター・スクエアにあって、アシュトン・リーヴァーが作ったんだけど、リーヴァーは自然の宝物を集めすぎて、破産しちゃったんだって。パーキンソンはその博物館を1805年まで維持したんだけど、もう無理になって、コレクションをばら売りしたんだって。
パーキンソンほど注目を集めるような性格じゃなかったけど、当時の地質学界の人々全員の影響力を合わせたよりも大きな影響を与えた人物がいるんだ。それが、チャールズ・ライエル。ライエルは、ハットンが亡くなった年に、ハットンの家から113キロしか離れてない、キノーディ村で生まれたんだって。両親はスコットランド人だけど、スコットランド人は怠け者で酒好きだと思った母親のせいで、遠く離れたイングランドのハンプシャーにあるニュー・フォレストで育ったんだ。まあ、彼は典型的な19世紀の紳士科学者で、裕福で教養のある家庭の出身だったんだよね。父親もチャールズって名前で、有名な人物だったんだって。詩人のダンテの研究とか、蘚苔類(コケみたいなやつね)の権威だったんだ。(ライエル蘚っていう、イギリスの田舎に行った人がよく座るコケは、彼の名前から取られたんだって。)ライエルは父親の影響で、博物学に興味を持ったんだけど、地質学に生涯を捧げるようになったのは、オックスフォード大学でウィリアム・バックランドの影響を受けたからなんだ。
バックランドは、多少なりとも魅力的な変人だったんだって。彼は本当に素晴らしい業績も残したけど、少なくとも彼の奇妙な性格のせいで、記憶に残ってるんだよね。特に、たくさんの野生動物を飼っていたことで有名で、中には大きくて危険な動物もいたんだって。それから、天地創造以来、存在したあらゆる動物を食べることで知られてたんだ。モルモットのローストとか、ネズミのフライとか、ハリネズミの丸焼きとか、ナマコの煮物とかで、お客さんをもてなしてたんだって。気分と在庫次第でね。バックランドはどれも美味しいと思ってたんだけど、庭にいる普通のモグラだけは、気持ち悪いって言ってたんだって。彼は糞の化石の権威になる運命だったみたいで、家には収集した標本でできたテーブルが、ほぼ完全にあったんだって。
真面目な科学活動をしてる時でさえ、彼のやり方は、普通じゃなかったらしいんだ。ある時、バックランドは夜中に興奮して奥さんを叩き起こして、「大変だ!化石の足跡は、カメのものに違いない!」って叫んだんだって。夫婦はパジャマ姿で急いで台所に行ったんだ。奥さんが小麦粉を練ってテーブルに広げると、バックランド牧師は家で飼ってるカメを持ってきたんだって。カメを小麦粉の上に置いて、歩かせたんだ。すると、カメの足跡は、バックランドが研究してた化石の足跡と、そっくりだったんだって。チャールズ・ダーウィンはバックランドのことをピエロだと思ってたんだけど、ライエルは彼から刺激を受けたと感じてて、好きだったみたい。1824年には、一緒にスコットランドに行ったんだ。そのスコットランド旅行の後、ライエルは弁護士の仕事を辞めて、地質学に専念することを決めたんだって。
ライエルはひどい近眼で、人生のほとんどを、目を細めて苦しそうにして過ごしてたんだって。(最終的には完全に視力を失ったんだけど。)ちょっと変わったところがあって、考え込んでいる時には、家具の上に想像もできないようなポーズをとってたんだ。椅子二つに体を横たえたり、(友達のダーウィンの言葉を借りると)「頭を椅子の座面に当てて、体を真っ直ぐに伸ばしたり」してたんだって。考え込むと、ゆっくりと椅子から滑り落ちて、お尻が床にほとんど触れるくらいになることもあったんだって。ライエルが生涯で唯一した仕事は、1831年から1833年の間、ロンドン大学キングス・カレッジの地質学教授だったんだ。この期間に、彼は『地質学原理』を書いて、1831年から1833年の間に3巻で出版したんだ。この本は、ハットンが最初に提唱した考え方を、多くの点で強化して詳しく説明したんだ。(ライエルはハットンの作品の原文を読んだことはなかったけど、プレイフェアの書き直したものを、熱心に研究してたんだって。)
ハットンの時代とライエルの時代の間に、地質学界で新たな論争が起きたんだ。その論争は、過去の水成論と火成論の論争に取って代わったんだけど、混ざり合うこともあったんだ。新しい戦いは、天変地異説と斉一説の争いになったんだ。重要な長期にわたる論争に、こんな名前をつけるのは、ちょっと物足りない気がするけどね。天変地異説者っていうのは、名前の通り、地球は突発的な災害によって形成されたって考えてたんだ。主に洪水ね。だから、天変地異説と水成論が混同されることもよくあったんだ。天変地異説は特に、バックランドみたいな聖職者の心に響いたんだ。ノアの時代の洪水を、真面目な科学的な議論に取り込むことができたからね。それに対して、斉一説者は、地球の変化は徐々に起こるって考えてたんだ。ほとんどの地質学的な変化はゆっくりとしたもので、長い時間をかけて起こるってね。この考え方を最初に提唱したのは、ライエルっていうよりもハットンだったんだけど、多くの人はライエルの作品を読んだから、当時も今も、ライエルが近代地質学の父だって思ってる人が多いんだよね。
ライエルは、地球の変動は一貫していて、ゆっくりとしたものだって考えてたんだ。過去に起こったことは、今日でも起こってることで説明できるってね。ライエルとその信奉者たちは、天変地異説を軽蔑してたんだ。天変地異説者は、絶滅は一連の過程の一部で、動物は絶えず滅びて、新しい動物に取って代わられるって考えてたんだ。博物学者のT.H.ハクスリーは、この考え方を、「ホイストのゲームで、負けが続くと、プレイヤーがテーブルをひっくり返して、新しいカードを要求する」って皮肉っぽく例えてたんだ。未知のものを、そんな風に説明するのは安易すぎるってライエルは考えてたんだね。「こんな教義ほど、怠け者を助長し、人々の好奇心を弱めるものはない」ってライエルは酷評してたんだ。
ライエルの失敗も少なくはなかったんだ。彼は山の形成過程をうまく説明できなかったし、氷河が変化の原動力であることにも気づかなかったんだ。アガシーの氷河期に関する見解を受け入れようとしなかったし、哺乳類は「最も古い化石のベッドで発見されるだろう」と信じてたんだ。動物や植物が突然死ぬという見解を受け入れなかったし、すべての主要な動物群、哺乳類、爬虫類、魚類などは、古代からずっと同時に存在していたって考えてたんだ。これらの問題については、最終的に完全に間違っていたってことが証明されたんだけどね。
それでも、ライエルの影響は、どれだけ言っても言い過ぎることはないんだ。『地質学原理』は彼の生前に12版も出版されたし、20世紀になっても、その本に含まれてる考え方は、地質学界で尊重されてたんだ。ダーウィンはビーグル号での航海中に『地質学原理』を持って行ったんだ。しかも、第一版をね。彼は後に、「『原理』の最大の利点は、人の思考状態全体を変えてしまうことだ。だから、ライエルが見たことのないものを見ても、ある程度は彼の目を通して見ていることになる」って書いてるんだ。要するに、彼はライエルのことを、ほとんど神のように思ってたんだよね。彼の世代の多くの人がそうだったように。20世紀80年代に、地質学者が絶滅に関する衝突理論に合わせて、彼の理論の一部を放棄しなければならなくなった時には、本当に苦しんだんだって。それは、ライエルの影響がいかに大きかったかっていうことの証だよね。でも、それは後の話。
その一方で、地質学にはたくさんの分類作業があって、必ずしもうまくいってたわけじゃなかったんだ。最初から、地質学者は岩石を形成された時期によって分類しようとしてたんだけど、時期をどう区分するかで、激しい論争が頻繁に起きてたんだ。そして、その論争は長引いて、「デボン紀の大論争」って呼ばれるようになったんだ。ケンブリッジ大学のアダム・セジウィックが、ある岩石層はカンブリア紀のものだと主張し、ロデリック・マーチソンが、それは完全にシルル紀のものだと主張したんだ。それで論争が始まったんだよね。論争は何年も続いて、激しさを増していったんだ。「バッシェは下劣なやつだ」ってマーチソンは友達に宛てた手紙の中で、怒って書いてるんだ。
『デボン紀の大論争』っていう本の中で、マーティン・J.S.ルディックが、この論争を面白く、そして多少うんざりした様子で描写してるんだ。本の各章のタイトルを見ただけでも、その感情の強さがわかると思うよ。最初の数章のタイトルは、『紳士たちの議論の舞台』とか、『砂岩の謎を解き明かす』みたいに、穏やかな調子なんだけど、その後は『砂岩を守り、砂岩を攻撃する』とか、『指摘と反駁』とか、『悪意のある噂を広める』とか、『ウェーバーが異説を撤回する』とか、『田舎者を叩きのめす』(これが戦争じゃないかって疑わないようにね)とか、『マーチソンがラインラント作戦を開始する』とか、すごいタイトルが並んでるんだ。論争は1879年に解決したんだけど、その方法は簡単で、カンブリア紀とシルル紀の間に、オルドビス紀っていう時期を加えたんだ。
この学問の初期には、イギリス人が最も活発だったから、地質学の用語には、イギリスの名前が大部分を占めてるんだ。
デボン紀は、もちろんイングランドのデボン州に由来するんだ。カンブリア紀は、ローマ人がウェールズを呼んだ名前に由来するし、オルドビス紀とシルル紀は、古代ウェールズ人の部族を思い起こさせるよね。でも、地質学が他の場所で発展するにつれて、世界中の名前が徐々に現れるようになったんだ。ジュラ紀は、フランスとスイスの国境にあるジュラ山脈に関連してるし、ペルム紀は、ロシアのウラル山脈にあるペルムを思い起こさせるよね。白亜紀は、ラテン語の白亜に由来してて、ベルギーの地質学者、J.J.ド・オマリウス・ド・ハロイが名付けたんだ。かっこいい名前だよね。
元々、地質史は、第一紀、第二紀、第三紀、第四紀の4つの時期に分けられてたんだ。この体系は単純すぎたから、長持ちしなかったんだ。地質学者はすぐに、この区分方法を新しい区分方法に置き換えたんだよね。第一紀と第二紀はもう完全に使われてなくて、第四紀は使わない人もいるんだけど、使ってる人もまだいるんだ。今日、広く使われてるのは第三紀だけで、第三紀はもはや何も意味してないんだけど。
ライエルは『原理』の中で、「世」または「段」と呼ばれる新しい単位を使って、恐竜がいなくなった後の時代を網羅したんだ。その中には、更新世(「最近」)、鮮新世(「やや最近」)、中新世(「かなり最近」)、そして意味が曖昧な漸新世(「ちょっと最近」)があったんだ。
現在、一般的に、地質時代は、前カンブリア時代、古生代(ギリシャ語で「古代の生命」を意味する)、中生代(「中期の生命」)、新生代(「新しい生命」)っていう4つの大きな塊に分けられてるんだ。この4つの代は、さらに12から20の部分に分けられてて、通常「紀」と呼ばれてるんだ。白亜紀、ジュラ紀、三畳紀、シルル紀とか、有名なものがたくさんあるよね。で、ライエルが「世」と呼んだ更新世とか中新世っていうのは、最近の(でも古生物学の研究が活発な)6500万年だけを指すんだ。そして、最後に、もっと細かい分類がたくさんあって、「期」または「代」って呼ばれてるんだ。そのほとんどは地名にちなんで名付けられてて、ほとんどの場合、発音しにくいんだよね。イリノイ期、デモイン期、クローイ期、キンメリッジ期とか、全部同じような感じだよね。ジョン・マクフィーによると、こういう名前は全部で「数百個」もあるんだって。幸いなことに、地質学を専門にしない限り、二度と聞くことはないかもしれないね。
さらに混乱するのは、北米の「期」とか「代」っていうのは、ヨーロッパの言い方とは違ってて、時間的にだいたい重なってるだけなんだ。だから、北米のシンシナティ期は、ヨーロッパのアシュギル期にだいたい相当するし、ちょっとだけカラドック期も含まれてるんだって。
しかも、これらすべて、教科書によって、人によって、言い方が違うんだ。だから、7つの代を提案する人もいれば、4つの代で満足する人もいるんだ。本によっては、第三紀と第四紀を使わずに、長さの違う系で代用して、下第三系とか上第三系って呼んでる場合もあるんだって。前カンブリア時代を、非常に古い太古代と、比較的最近の原生代っていう、二つの代に分ける人もいるんだ。「顕生代」っていう言葉を使う場合もあって、新生代、中生代、古生代をまとめて指すんだって。
しかも、これらは全部、時間の単位として使われてるだけなんだ。岩石の単位には別の体系があって、系とか、段とか、期って呼ばれてるんだ。それから、早とか、晩(時間のことを指す)とか、上とか、下(岩層のことを指す)っていう区別もあるんだって。専門家じゃない人にとっては、これはもうめちゃくちゃだけど、地質学者にとっては、感動的なものなんだよね。「私は、大人たちが生命史上の100万分の1秒の問題で、顔を真っ赤にして争うのを見た」って、イギリスのリチャード・フォーティは、20世紀にカンブリア紀とオルドビス紀の境界線で繰り広げられた長年の論争について語ってるんだ。
今日では、少なくとも、年代を特定するために、ある程度の高度な技術を使うことができるんだ。19世紀の大部分の間、地質学者は推測に頼るしかなかったんだよね。時代順に岩石や化石を並べ替えることはできても、その年代がどれくらい長いのかは全然わからなかったんだ。バックランドが魚竜の骨格の古さを推測した時、彼はせいぜい「1万、あるいは1万以上に1万をかけた年数」くらいしか言えなかったんだ。
信頼できる年代測定の方法がなかったけど、それを試みようとする人はたくさんいたんだ。1650年、アイルランド教会のジェームズ・アッシャー大司教が、初期の最も有名な試みを行ったんだ。彼は聖書やその他の歴史的な資料を注意深く調べて、最終的に『旧約聖書年代記』っていう大著の中で、地球は紀元前4004年10月23日正午に創造されたって結論づけたんだ。その後、歴史家とか教科書の著者は、この日付をネタにしてきたんだ。(ほとんどすべての本に彼のことが書かれてるんだけど、アッシャーに関する詳細は異なってて、1650年に発表したって言う人もいれば、1654年って言う人も、1664年って言う人もいるんだ。地球の始まりの日を10月26日って書いてる本もたくさんあるんだよね。スティーブン・グールドは、彼の著書『8匹のリトルピッグ』の中で、この問題について面白い調査をしてるんだって。)
ついでに言うと、長い間消えない神話があってね、それは多くの真面目な本にも書かれてるんだけど、アッシャーの考え方が19世紀まで科学界を支配してたって言うんだ。ライエルがそれを正した、みたいな。典型的な例として、スティーブン・ジェイ・グールドは『時間の矢』の中で、20世紀80年代にベストセラーになった本から、「ライエルが本を出版する前は、ほとんどの思想家が地球は若いと考えていた」っていう言葉を引用してるんだけど、実際はそうじゃなかったんだ。マーティン・J.S.ルディックが言ってるように、「どの国の地質学者も、彼の作品が他の地質学者に真剣に受け止められるためには、『創世記』を字義通りに解釈することに時標を制限することを主張することはなかった」んだ。
19世紀の敬虔な人だったバックランド牧師でさえ、聖書のどこにも、神が最初の日に天地を創造したとは書かれていない、書かれてるのは「初めに」ってだけだって考えてたんだ。彼は、その「初めに」は、「何百万年も続いたかもしれない」って考えてたんだね。
みんな地球は古いって思ってたんだ。問題は、どれくらい古いかってことだけだったんだ。
地球の年齢を特定する上で、初期に比較的合理的な考え方があったんだ。それは、常に信頼できるエドモンド・ハレーによって提唱されたんだ。1715年、彼は、世界の海にある塩の総量を、毎年増える量で割れば、海の存在年数がわかる。そこから、地球の年齢をだいたい知ることができるって提案したんだ。この理論は魅力的だったんだけど、残念なことに、海にどれくらいの塩があるのかも、毎年どれくらい増えるのかも、誰にもわからなかったんだよね。だから、この実験は実現しなかったんだ。
初めて科学的と言える試みを行ったのは、フランスの博物学者、ジョルジュ=ルイ・ルクレール・ビュフォン伯爵だった。18世紀70年代のことなんだって。長い間、地球はかなりの熱を放出してるってことは知られてたんだけど、散逸率を推定する方法がなかったんだよね。ビュフォンは実験で、球体を白熱するまで加熱して、冷却する過程で、手で触って(最初は軽くね)熱の損失率を推定したんだって。この実験に基づいて、地球の年齢は7万5千年から16万8千年って推測したんだ。これは、もちろん大幅な過小評価だけど、とても画期的な見解だったんだよね。ビュフォンは、この見解を発表すると、破門される危険があることに気づいたんだって。彼は現実的な人だったから、すぐに自分の軽率な異説を謝罪して、その後も著作で自分の見解を繰り返し述べたんだ。
19世紀半ばになると、ほとんどの学者は地球の年齢を少なくとも数百万年、あるいは数千万年はあると考えてたんだけど、それほどではない可能性もあると思ってたんだよね。だから、1859年にチャールズ・ダーウィンが『種の起源』の中で、彼の計算によると、ケント、サリー、サセックスを含むイングランド南部の地域、ウェルド地方を創造する地質学的過程には、3億666万2400年かかったって宣言した時には、人々はびっくりしたんだ。(ダーウィンは正確な数字が好きだったんだよね。後に、傷について書いた作品の中で、イギリスの田舎のメドウエイカーには5万3767匹のミミズがいるって発表してるくらいだからね。)この結論はすごいんだけど、彼がそんなにはっきりと断言したことと、地球の年齢についての一般的な見解を無視したことが、大きな理由なんだ。その結果、激しい論争を引き起こして、ダーウィンはその本の第三版で、自分の見解を撤回したんだ。でも、問題は残ったままだったんだよね。
ダーウィンと彼の地質学界の友人たちは、地球が古いことを望んでたんだけど、それを証明する方法を見つけられなかったんだ。
この問題は、ケルビン卿(彼は間違いなく偉大な人物だったんだけど、1892年になって貴族に叙せられたんだよね。その時、彼は68歳で、人生の終わりに近づいていたんだけど、ここでは慣例に従って、さかのぼってこの名前を使いますね)の注意を引いたんだけど、これはダーウィンにとっても、進歩にとっても不幸なことだったんだ。ケルビンは19世紀、いや、どの世紀でも、最も優れた人物の一人だったんだ。ドイツの科学者、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツも、ケルビンのことを、彼が出会った中で最も「理解力があり、洞察力があり、思考が活発」な人だって書いてるんだ。「彼の前では、自分が間抜けに感じることがあった」って、彼は不満そうに言ってるんだよね。
この気持ちは理解できるよね。ケルビンは確かに、ヴィクトリア朝時代の超人だったんだ。彼は1824年にベルファストで生まれて、父親はロイヤル・アカデミーの数学教授で、すぐにグラスゴーに移ったんだ。ケルビンは神童であることを証明して、幼い頃(10歳)にグラスゴー大学に入学したんだ。20歳になる頃には、ロンドンとかパリの大学で学んで、ケンブリッジ大学を卒業したんだ。(彼は大学で、ボート競技と数学の両方で最高の賞を獲得して、音楽クラブを創設する時間もあったんだ)ピーター・ハウスの研究員に選ばれて、(英語とフランス語で)純粋数学と応用数学に関する10本以上の論文を書いたんだ。これらの作品はすべて独創的だったんだけど、先輩たちを困らせないように、匿名で発表しなければならなかったんだって。22歳でグラスゴーに戻って、自然哲学の教授になったんだ。その後53年間、彼はこの地位を保持したんだ。
長い生涯の中で(彼は1907年、83歳で亡くなったんだけど)、661本の論文を書いて、合計69件の特許を取得して、お金持ちになったみたい。そして、物理学のほとんどすべての分野で名声を博したんだって。彼は、後に冷凍技術の発明に直接つながる方法を提案したり、絶対温度目盛を設計したり(今でも彼にちなんで名付けられてるよね)、大西洋を越えて電報を送信することを可能にする過給装置を発明したり、航海や航海術に無数の改善を加えたりしたんだ。人気のある航海用コンパスを発明したり、最初の深度探知機を作ったりしたのも彼なんだって。これらは、彼の実用的な成果のほんの一部なんだ。
電磁気学とか熱力学(特に、熱力学第二法則を説明したんだ。これは、自然条件下では、熱は高温物体から低温物体にしか移動できないって言う法則なんだよね)とか、光の波動などの理論的な分野での成果も、同じくらい革新的なものだったんだ。彼には実質的に一つだけ欠点があって、それは地球の年齢を計算できなかったことなんだ。この問題は、彼の晩年の多くの時間を費やしたんだけど、正確な数字を出すことはできなかったんだ。1862年に、『マクミラン』っていう大衆向けの雑誌に書いた記事の中で、彼は初めて地球の年齢を9800万年だって提案したんだ。でも、用心深く、この数字は最小で2000万年、最大で4億年になる可能性があるって考えてたんだって。彼はまた、自分の計算は間違ってる可能性があることを認めて、「創造主の大きな倉庫に、私たちが現在持っていない資料がある」場合は、そうかもしれないって言ってたんだけど、明らかにそれは不可能だって思ってたんだよね。
時間が経つにつれて、ケルビンの結論はますます正確になって、ますます間違っていったんだ。彼は自分の推定値をどんどん下げ