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Calculating...

ええと、自然史博物館のいろんな場所、薄暗い廊下とか、鉱物とかダチョウの卵とか、昔ながらのガラクタが並んだガラスケースの間とか、そういう奥の方にね、秘密の扉があるんですよ。まあ、秘密って言っても、少なくとも見学者があんまり気に留めないような感じなんですけどね。たまに、学者の人みたいな、ちょっと髪の毛ボサボサの人が、何か考え事してるみたいな顔で、その扉から出てくるんですよ。で、ささっと廊下を歩いて行って、また別の扉に消えていく、みたいな。でも、そういうことって、ほんとに稀なんですけどね。ほとんどの場合、扉は閉まってて、その奥にも、また別の、同じくらい大きくて、ある意味、一般の人が知ってる博物館よりもっとすごい自然史博物館が広がってるなんて、想像もつかないんですよね。

自然史博物館には、なんと約7000万点もの標本が収蔵されてるんですって。生命のあらゆるカテゴリー、地球のあらゆる場所を網羅してて、毎年10万点くらいずつ増えてるらしいんですよ。でもね、実際、一般公開されてないものを見てみないと、その凄さって、わかんないんですよ。大きい棚とか小さい棚とか、ずらーっと棚が並んだ長い部屋に、動物の標本がアルコール漬けになってたり、何百万匹もの昆虫が標本箱にピンで留められてたり、引き出しの中には、キラキラ光る貝殻とか、恐竜の骨とか、初期の人類の頭蓋骨とか、それに、プレスされた植物標本がぎっしり詰まってるんですよ。まるで、ダーウィンの頭の中を歩き回ってるみたいな気分になるんです。標本保管室だけでも、20キロメートル以上の棚があって、そこに動物の瓶詰めがずらーっと並んでるんですって。ホルマリン漬けで。

ここには、ジョゼフ・バンクスがオーストラリアで採集した標本とか、アレクサンダー・フォン・フンボルトがアマゾンで採集した標本とか、ダーウィンがビーグル号航海で採集した標本とか、とにかく、珍しいものとか、歴史的に重要なものとか、その両方を兼ね備えた標本がたくさんあるんですよ。多くの人が、ちょっと触ってみたいって思うだろうし、実際に触っちゃう人もいるんですって。1954年には、リチャード・マイナツハーゲンっていう熱心な収集家から、素晴らしい鳥類の標本が寄贈されたんですって。マイナツハーゲンは、『アラビア半島の鳥類』っていう本の著者で、他にもたくさんの学術書を書いてる人なんですけどね。長年、博物館の熱心な利用者で、自分の本を書くために、ほぼ毎日、博物館に来てメモを取ってたらしいんですよ。で、標本が届いた時、博物館の人が箱を開けてみたら、なんと、博物館自身のラベルが貼られた標本がたくさん入ってたんですって。マイナツハーゲンは、長年、博物館から標本を「収集」してたってことなんです。そりゃあ、暖かい夏でもオーバーを着てたわけですよね。

それから数年後には、軟体動物部門の常連のおじいさん、まあ「立派な紳士」だったらしいんですけど、高価な貝殻を歩行器のパイプの中に詰め込んでるのが見つかったんですって。

「いつも誰かが、ここのものを狙ってるんだと思いますよ。」って、リチャード・フォルティが、博物館の非公開エリアを案内しながら、しみじみと語ってました。僕らは、いろんな部門を歩き回ったんですけど、大きなテーブルで、節足動物とか、ヤシの葉っぱとか、箱に入った古い骨とかを、じっくり調べてる人たちがたくさんいました。みんな、すごくゆっくりと、壮大なプロジェクトに取り組んでて、永遠に終わらない仕事だから、急ぐ必要もない、みたいな雰囲気なんですよね。1967年には、ジョン・マレー探検隊の報告書が出版されたんですけど、それは、インド洋の探検で、なんと探検が終わってから44年も経ってからだったんです。そういう場所なんですよ、ここは。時間の流れが違うっていうか。フォルティと僕が乗ったエレベーターもそうでした。学者っぽいおじいさんが乗ってて、エレベーターは、堆積物が沈むくらいの速さでゆっくり上がって行くんです。フォルティとおじいさんは、楽しそうに話してましたね。

その人が降りた後で、フォルティが「彼は、ノーマンっていう、すごく愛すべき人物で、42年間、オトギリソウっていう植物を研究してるんだ。1989年に退職したけど、今でも毎週ここに来てるんだよ。」って教えてくれました。

「たった一つの植物を研究するのに42年もかかるんですか?」って、僕が聞いたら、

「ちょっと信じられないでしょ?」って、フォルティが同意して、少し考えてから、「彼は、明らかに、ものすごく詳しく研究してるんだよ。」って言ってました。エレベーターのドアが開いて、レンガ造りの出口が見えたんですけど、フォルティは、ちょっと戸惑った様子で、「おかしいな、ここは、昔は植物部だったはずなんだけど。」って言って、もう一度ボタンを押して、上の階へ。バックヤードの階段を登って、別の部署をいくつか慎重に通り抜けて、研究者たちがひたすら過去の生命を研究してる様子を見ながら、ようやく植物部にたどり着いたんです。そこで、僕は、レイン・エリスっていう人と、静かなコケの世界を紹介されたんです。

エマソンは、コケが木の北側に生えるのが好きだって、詩的に語ったんですけど(「漆黒の夜には、幹の上のコケが北極星だ」)、あれは、実は地衣のことだったんですって。コケと地衣は、19世紀には区別されてなかったから。本物のコケは、実は、どこに生えるか、あんまり気にしないから、天然のコンパスにはならないんですって。実際、コケは、ほとんど役に立たないんだそうです。「おそらく、商業的にも経済的にも、コケほど役に立たない植物群はないだろう」って、ヘンリー・S・コナードが書いてます。まあ、『コケと葉状コケの識別方法』っていう本の中なんですけどね。ちょっと切ない感じですよね。その本は1956年に出版されたんですけど、今でも多くの図書館の棚で見つけられるんですよ。このテーマを普及させようとした、ほぼ唯一の試みらしいです。

でも、コケは繁殖力がすごい植物なんです。地衣を入れなくても、コケは繁栄してる王国で、約700属、1万種以上もあるんですって。A.J.E.スミスの分厚い本『イギリスとアイルランドのコケ類』は、700ページもあるんですけど、イギリスとアイルランドは、決してコケが多い場所じゃないんです。「熱帯に行けば、コケの多さがわかるよ。」って、レイン・エリスが言ってました。彼は、物静かで口数が少ない人で、自然史博物館で27年間働いていて、1990年から、この部門の責任者を務めてるんです。「例えば、マレーシアの熱帯雨林に行くと、簡単に新しい種を見つけられる。僕も少し前に、行ったんだけど、下を見ただけで、今まで記録されたことのない種を見つけたよ。」って。

「じゃあ、まだどれくらいの種が発見されてないかわからないんですね?」って、僕が聞くと、

「ああ、そう。誰も見当もつかないんだ。」って言ってました。

あなたは、そんな目立たないものを研究するために、人生を捧げたいと思う人は、世界にそんなにいないだろう、って思うかもしれないけど、実際には、コケを研究してる人は何百人もいて、自分の研究テーマに強い情熱を持ってるんですって。「ええ、そうなんです。」ってエリスが言ってました。「会議は、いつも活発ですよ。」って。

それで、僕は、議論になった例を一つ教えてくれるように頼みました。

「ああ、ここに一つありますよ。あなたの同胞が始めたんです。」って、彼は微笑んで、コケのイラストがたくさん載ってる分厚い参考書を開きました。素人目には、これらのコケの最も顕著な特徴は、お互いにほとんど同じように見えることなんですけどね。「これです。」って、彼は、あるコケを指して言いました。「これらは、もともとは一つの属、カマゴケ属だったんです。今は、カマゴケ属、Warnstorfia属、Hamatacoulis属の3つの属に分けられました。」

「それで、殴り合いになったりしましたか?」って、ちょっと期待しながら聞いてみました。

「ああ、それは筋が通ってるんですよ。完全に理にかなってる。でも、それは、コレクションを整理し直すのに時間がかかるし、本も古くなってしまうってことだから、みんな、ちょっと不満に思ってるんです。知ってるでしょ?」って言ってました。

コケには、たくさんの謎もあるんだそうです。有名な例があって、少なくともコケを研究してる人にとっては有名なんですけど、カリフォルニア州のスタンフォード大学のキャンパスで発見された、スタンフォード湿地コケっていう、世間から隔絶されたコケがあって、その後、イギリスのコーンウォール半島の道端でも見つかったんだけど、その間には、どこにも生えてないんですって。どうして、そんな遠く離れた2つの場所に存在してるのか、謎なんです。「今は、スタンフォード茶色コケって呼ばれてます。」って、エリスが言ってました。「また修正されたんです。」って。

僕らは、深くうなずきました。

新しいコケを発見したら、それを他のすべてのコケと比較して、すでに記録されてないかどうかを調べるんです。それから、正しい説明を書いて、イラストを用意して、ちゃんとした雑誌に結果を発表するんです。コケの分類学にとって、20世紀は、豊かな時代とは言えなかったんですって。その世紀の多くの時間は、19世紀に残された混乱と重複の片付けに費やされたんです。

19世紀は、コケ採集の黄金時代だったんです。(チャールズ・ライエルの父親がコケ研究者だったことは覚えているかもしれませんね。)ジョージ・ハントっていうイギリス人がいて、イギリスのコケを熱心に探してたんですけど、彼は、いくつかのコケの絶滅に貢献した可能性があるんですって。でも、そういう努力のおかげで、レイン・エリスのコレクションは、世界で最も完全なコレクションの一つになったんです。彼は、全部で78万点の標本を持ってて、それは、分厚い台紙に挟まれてるんです。すごく古いものもあって、ビクトリア朝時代の人たちが、蜘蛛の糸のように細い字で説明を書き込んでて、知ってる限りでは、ロバート・ブラウンの手書きのものもあるそうです。ブラウンは、ビクトリア朝時代の偉大な植物学者で、ブラウン運動とか、細胞核を発見した人です。彼は、この博物館の植物部門を創設して、1858年に亡くなるまでの31年間、その部門を率いてたんです。すべての標本は、古いマホガニーのキャビネットに保管されてます。そのキャビネットは、すごく綺麗で、僕は、ちょっと感想を言ったんです。

「ああ、それは、ジョゼフ・バンクス卿のものだよ。ソーホー広場の彼の家から運ばれてきたんだ。」って、エリスが、イケアで買ってきた家具を鑑定するみたいに、何気なく言ってました。「彼は、『エンデバー』号航海で集めた標本を保管するために、これらのキャビネットを作らせたんだ。」って。彼は、しばらくそのキャビネットを眺めてて、まるで、長い間見てなかったみたいに、「どうして、それがコケ学の分野にたどり着いたのか、わからないな。」って言ってました。

その言葉には、豊かな歴史が込められてるんですよ。ジョゼフ・バンクスは、イギリスで最も偉大な植物学者で、『エンデバー』号航海は、クック船長が1769年の金星の太陽面通過を観測して、オーストラリアを王室植民地として宣言した航海で、歴史上最も偉大な植物探検だったんです。バンクスは、1万ポンド、今の価値で60万ポンド相当を支払って、自分と他に9人、博物学者1人、秘書1人、画家3人、召使い4人を、3年間の世界探検に参加させたんです。無骨な性格のクック船長が、どうやって、こんな文弱で甘やかされた連中と付き合ってたのか、想像もつかないけど、彼は、バンクスのことを気に入ってたみたいで、彼の植物学の才能に感心してたんです。それは、後世の人々も同じ気持ちだったんです。

あんなに多くの成果を上げた植物調査隊は、過去にも未来にもないんです。それは、ある程度、この航海が、あまり知られてなかった新しい場所、ティエラ・デル・フエゴ、タヒチ、ニュージーランド、オーストラリア、ニューギニアなどを植民地にしたからなんだけど、主に、バンクスが鋭くて才能のある採集家だったからなんです。検疫のためにリオデジャネイロに上陸できなかった時でさえ、彼は、船の家畜のために、こっそり飼料の包みを持ち込んで、新しい発見をしてるんです。何一つ彼の目から逃れるものはなかったみたいです。彼は、全部で3万点の植物標本を持ち帰り、そのうち1400点は、以前には見たことのないものだったんです。世界の既知の植物の総数を約4分の1も増やしたことになるんです。

でも、知識を求めることが、ほとんど狂気に達してた時代には、バンクスの偉大な収穫は、総収穫の一部に過ぎなかったんです。植物採集は、18世紀に国際的な熱狂になったんです。新しい種を発見した人には、名誉と富が待ってたんです。植物学者と冒険家たちは、世間の新しい植物への渇望を満たすために、信じられないほどの努力をしたんです。トーマス・ナトールは、カスパール・ウィスターの名前をとってウィステリアと名付けた人なんですけど、アメリカに来た時は、教育を受けてない印刷工だったんだけど、植物に興味を持つようになって、アメリカを徒歩で往復して、何百種類もの、今まで見たことのない植物を採集したんです。ジョン・フレーザー、フレーザーモミは、彼の名前が由来なんですけど、数年間、エカチェリーナ大帝のために荒野で標本を集めてたんだけど、結局、ロシアは新しい皇帝に変わってしまって、新しい皇帝は、フレーザーが気が狂ったと思って、彼の契約を履行するのを拒否したんです。フレーザーは、すべてのものをチェルシーに持ち帰って、そこで苗床を作って、イギリスの地主に、シャクナゲ、モクレン、バージニアヅタ、アスター、その他の植民地から来た珍しい植物を販売して、彼らを喜ばせ、自分自身もたくさんのお金を稼いだんです。

適切な発見さえあれば、大金が稼げたんです。アマチュア植物学者のジョン・ライアンは、困難で危険な2年間をかけて標本を集めて、今の価値で125,000ポンドに相当する報酬を受け取りました。でも、こういうことをする人の多くは、完全に植物学への愛からだったんです。ナトールは、見つけた標本のほとんどをリバプール植物園に寄贈しました。結局、彼はハーバード植物園のディレクターになって、百科事典的な『北アメリカ植物誌』の著者になったんです。(その本は、彼が書いただけでなく、ほとんど彼が活字を組んだんです。)

それは、ただ植物部門の話です。新世界の動物相全体、カンガルー、ヒクイドリ、アライグマ、ボブキャット、蚊、その他の想像を絶する奇妙なものがたくさんあるんです。地球上の生命量は、無限にあるように思える、って、ジョナサン・スウィフトが有名な詩で指摘したように、

「博物学者は、ノミが、より小さなノミを捕食することに気づいた。

より小さなノミには、さらに小さなノミが噛み付くことができる。

どこが終わりか、誰が知っているだろうか。」

これらの新しい情報はすべて、記録して、整理して、既知の情報と比較する必要があるんです。世界は、実行可能な分類体系を切実に必要としていました。幸いなことに、スウェーデンに、準備万端の人がいたんです。

彼の名前は、カール・リンネ(後に、許可を得て、より貴族的なフォン・リンネに改名したんです。)ですが、今では、ラテン語化した名前Carolus Linnaeusとしてしか覚えられていません。彼は、スウェーデン南部のラシュルト村で、貧しいけど野心的なルター派の助祭の息子として生まれました。彼は学業に熱心ではなかったので、父親は怒って、彼を靴屋に(そう言われてますが、ほとんどそうなりかけました。)見習いに出したんです。一生、革に釘を打ち込むことを考えると、リンネ少年は震え上がり、もう一度チャンスをくれるように懇願しました。彼の要求は満たされました。その後、彼は常に学業で成果を上げることを決意しました。彼は、スウェーデンとオランダで医学を学びましたが、徐々に自然に興味を持つようになりました。18世紀30年代、彼は、自分で考案した体系を使って、世界の植物と動物の種の目録を作り始めたんです。彼の名声は、徐々に高まってきました。

彼ほど、自分の名声に安堵してた人はいないでしょう。彼は、自分の肖像画を描いて美化することに多くの時間を使って、「自分よりも偉大な植物学者や動物学者はいない」とか、自分の分類体系は「科学分野で最大の成果だ」とか宣言してたんです。彼は、自分の墓石に「植物の王子」っていう墓碑銘を書くべきだと控えめに提案してたんです。彼の自画自賛に異議を唱えるのは賢明なことではありませんでした。そうした人は、自分の名前が雑草の名前に使われたりしたんです。

リンネのもう一つの際立った特徴は、彼が、一貫して、時には熱狂的に、性に関心を持っていたことでした。二枚貝動物と女性の外陰部の類似性は、彼に特に強い印象を与えたようです。彼は、ある種の貝のいくつかの部分を「外陰部」、「陰唇」、「陰毛」、「肛門」、そして「処女膜」と名付けました。彼は、生殖器官によって植物を分類し、まるで人間が恋愛してるみたいに描写しました。花とその行動を描写する時に、「乱交」、「不妊の愛人」、「新婚のベッド」などの言葉をよく使いました。春になると、彼は、よく引用される言葉の中で、こう書いてます。

「愛は植物の間にも訪れる。男と女は…結婚式を挙げる…性器を使って、誰が男で誰が女であるかを示す。花の葉は新婚のベッドとして使われる。これらすべてを創造主は完璧に準備し、非常にエレガントな天蓋を掛け、さまざまな淡い香水を振りまき、新郎と新婦はそこでより荘厳に結婚式を祝うことができる。ベッドがこのように準備されたら、新郎が新婦を抱きしめ、身を委ねる時が来る。」

彼は、ある植物を「クリトリス」(チョウマメ属)と名付けました。多くの人が彼を奇妙だと思ったのは不思議ではありません。でも、彼の分類体系は、非常に魅力的だったんです。リンネ以前は、植物の名前は、記述的すぎて、長くて、手に負えなかったんです。普通のホオズキは、Physalis amno ramosissime ramis angulosis glabris foliis dentoserratisと呼ばれていました。リンネは、それをPhysalis anguulata(灯籠草)に短縮しました。この名前は、今でも使われています。名前がバラバラだったため、植物界は、ほとんど混乱状態でした。ある植物学者は、Rosa sylvestris alba cum rubore, folio glabroが、別の植物学者がRosa sylvestris inodora seu caninaと呼ぶ植物と同じものかどうか、わからなかったんです。リンネは、それをRosa canina(イヌバラ)と呼んで、問題を解決しました。このように大胆に植物の名前を短縮することで、これらの名前は、誰にとっても使いやすくなり、受け入れられるようになりました。そのためには、決断力だけでなく、種の顕著な特徴を発見する本能、実際には才能が必要でした。

リンネの分類体系は、すでにしっかりと確立されているので、別の体系がそれに取って代わることなど想像できません。リンネ以前は、分類体系は、非常に恣意的だったんです。動物の分類基準は、野生か家畜か、陸生か水生か、大きいか小さいか、あるいは、美しいとか高貴だとか、重要ではないとみなされてるか、などでした。ビュフォンは、動物が人間にどれだけ役立つかによって分類し、解剖学的な特徴はほとんど考慮しませんでした。リンネは、生理的な特徴によって分類し、上記の欠点を是正することを自分の生涯の仕事としました。分類学、つまり分類の科学は、二度と後戻りすることはありませんでした。

もちろん、これには時間がかかりました。彼の代表作『自然の体系』は、1735年の初版では、わずか14ページでした。でも、それは、ますます長くなり、ますます長くなり、第12版、リンネが生きて見た最後の版では、3巻、2300ページにまで拡大しました。最終的に、彼は、約13,000種類の植物と動物を命名または記録しました。他の著作の方が、広い範囲をカバーしています。ジョン・レイが一世代前に完成させた3巻本のイギリスの『植物通史』には、植物だけで18,625種類も含まれていました。でも、リンネには、誰にも真似できない点がありました。それは、一貫性、秩序、簡潔さ、そしてタイムリーさでした。彼の作品は、18世紀30年代には発表されていたのですが、イギリスで有名になったのは、18世紀60年代になってからで、リンネをイギリスの博物学者の目に、長老のような人物として映し出しました。彼の体系があんなに熱狂的に採用された場所は他にありませんでした。(これが、リンネ協会がストックホルムではなくロンドンにある理由の一つです。)

リンネは完璧ではありませんでした。彼の作品には、怪物や「奇形人」が収集されていて、船乗りや想像力豊かな旅行者の記述を鵜呑みにしていました。その中には、四肢で歩く野人もいました。まだ言語の芸術を習得しておらず、「尻尾のある人間」でした。でも、当時は、騙されやすい時代だったことを忘れてはなりません。18世紀末には、スコットランド沿岸で人魚が目撃されたという噂が相次ぎ、大物ジョゼフ・バンクスでさえ、それに興味を持ち、それを信じていました。でも、一般的に言って、リンネの誤りは、彼の健全で、しばしば賢明な分類方法によって相殺されました。彼は、他にも多くの功績を上げました。その中で、彼は、鯨が、牛、ネズミ、その他の普通の陸生動物と同じ四足獣の哺乳類に属すると考えました。(後に哺乳類に改名されました。)これは、以前には誰もしていなかったことです。

最初は、リンネは、属名と番号を使って、すべての植物を記録しようとしてました。例えば、ヒルガオ1号、ヒルガオ2号など。でも、すぐに、この方法が満足のいくものではないことに気づき、二名法を考え出したんです。今日まで、二名法は、その体系の中心となっています。彼は、二名法を自然界のすべて、岩石、鉱物、病気、風などに使おうと思っていました。でも、誰もが熱心にその体系を支持したわけではありませんでした。多くの人は、その体系があまりにも粗雑だと不安に思っていました。皮肉なことに、リンネ以前には、多くの植物や動物の俗名も下品だったんです。タンポポは利尿作用があると考えられていたため、長い間「おねしょ壺」と呼ばれていました。その他の一般的な名前には、雌馬の屁、裸の女性、痙攣する睾丸、猟犬の尿、尻丸出し、糞布などがありました。そういった下品な名前が、無意識のうちに英語に残ってるのかもしれません。例えば、乙女の髪ゴケの「乙女の髪」は、少女の頭の髪を指してるわけではありません。とにかく、長い間、自然科学には、伝統的な方法で改名して、より厳粛にするべき名前があると思われていました。だから、自称植物の王子が、自分の作品の中で、クリトリス属、性交属、外陰部属のような名前を時々挿入してるのを知ると、みんな、ちょっと不快に思ったんです。

その後、多くの名前は、徐々に使われなくなっていきました。(すべてではありませんが、普通のカサガイは、公式な場では、今でも性交履螺属と呼ばれています。)自然科学のますます専門化していくニーズを満たすために、多くの高雅な名前が導入されました。特に、その体系は、基本的な枠組みとして、階層的な名前を採用しました。「属」と「種」は、博物学者がリンネ以前から100年以上使用していました。18世紀50〜60年代には、生物学的な意味での「目」、「綱」、そして「科」が使用され始めました。そして、「門」は、1876年に(ドイツ人のヘッケルによって)作られました。20世紀初頭まで、「科」と「目」は、交換可能だと考えられていました。植物学者が「目」を使用する場所で、動物学者は一時的に「科」を使用していて、時には、みんなを混乱させていました。(注:例えば、人間は、真核生物ドメイン、動物界、脊索動物門、節肢動物亜門、哺乳綱、霊長目、ヒト科、ヒト属、ホモ・サピエンス種に属します。細かく分類する分類学者は、族、亜目、小目、下目などで細分化します。)

リンネは、動物界を6つの種類に分けました。哺乳類、爬虫類、鳥類、魚類、昆虫類、そして蠕虫類。前の5つの種類に当てはまらないものは、すべて6番目の種類に入れました。最初から、ロブスターとエビを蠕虫類に入れるのは、満足のいくものではないことが明らかだったので、軟体動物や甲殻類のような多くの新しい種類が作られました。残念ながら、この新しい分類は、国によって非常に異なって使用されていました。足並みを揃えるために、イギリス人は1842年に、ストリクランド法則と呼ばれる新しい規則を発表しましたが、フランス人は、それを専横的だと見なし、動物学会はすぐに反撃し、それと矛盾する独自の法則を提案しました。それと並行して、米国鳥類学会は、理由もわからずに、他の場所で使用されてた1766年版ではなく、1758年版の『自然の体系』を、すべての命名の基礎として採用することを決定しました。これは、19世紀に、多くのアメリカの鳥が、ヨーロッパの兄弟の鳥とは異なる属に分類されたことを意味しています。1902年の国際動物学会議の会議で、博物学者たちがようやく妥協の精神を見せ始め、統一された法則を採用しました。

分類学は、科学として説明されることもあれば、芸術として説明されることもありますが、実際には、それは戦場なんです。今日でも、その体系は、多くの人が考えてるよりも混乱しています。生物の基本的な横断面を記述する門の区分を例にとってみましょう。いくつかの門は、みんなよく知っています。例えば、軟体動物(アサリやカタツムリなど)、節足動物(昆虫や甲殻類など)、脊索動物(私たちやすべての脊椎骨または原始的な脊椎骨を持つ動物など)。それ以外の場合、状況はすぐに曖昧になります。曖昧な門の中には、顎胃門(海洋蠕虫)、刺胞亜門(クラゲ、ヒドラクラゲ、サンゴ)、鋸棘門(小さな「陰茎蠕虫」とも呼ばれています。)を挙げることができます。馴染みがあろうとなかろうと、これらは基本的な門類なんです。でも、驚くべきことに、どれだけの門があるのか、何が門なのかについては、人々の考えが大きく異なっています。多くの生物学者は、総数は約30個の門だと主張していますが、20個程度の門の方が適切だと考えてる人もいます。エドワード・O・ウィルソンは『生命の多様性』の中で、驚くほど89個の門を提案しています。それは、どんな立場で分類するか、つまり生物学界の人が言うところの、「集約分類学者」か「分離分類学者」かによって決まるんです。

より一般的なレベルでは、種の呼び方が異なる可能性が高まります。あるカモジグサが、Aegilops incurva、Aegilops incurvata、またはAegilops ovataと呼ばれるべきかどうかは、大きな問題ではないかもしれませんし、植物学者以外の多くの人の関心を刺激することはないかもしれませんが、関係者の間では、非常に激しい議論を引き起こす可能性があります。問題は、世界には全部で5000種類の草があって、その多くは、草を知ってる人から見ても、非常によく似てるんです。その結果、少なくとも20回発見されて命名された草もあれば、独立して2回以上発見されていない草はほとんどないようです。2巻本の『米国草誌』は、すべての同義語を整理するために、200ページにもわたるびっしりとした文章を費やしています。それらはすべて、植物学界が漫然とよく使う重複した名前なんです。それは、たった一つの国の草にしか関係してません。

世界的な規模で存在する差異を解決するために、国際植物分類学協会という組織が、順序と重複の問題について裁定を下します。それは、時々命令を下し、今後カリフォルニアダウガメ(一般的なロックガーデンの植物)は、ヤナギバナと呼ばれるべきであるとか、フサゲガヤは、偽フサゲガヤではなく、織糸ヤナギバナの同種とみなされると宣言します。通常、これらは、注目を集めることのない小さな問題です。でも、彼らが時々、人々の愛する庭の植物を侵害した場合、必然的に怒りの叫び声が上がります。1980年代末、普通のキクは、(合理的に見える原則に基づいて)同名の属から追放され、あまり面白みのないシャスターデージー属に入れられました。

キクを栽培してるのは、自尊心の強い人々がたくさんいました。彼らは、種子植物委員会に抗議しました。この委員会は、奇妙に聞こえますが、実際に存在します。(他には、シダ植物委員会、コケ植物委員会、真菌委員会などがあり、すべて「総報告者」の執行官に責任を負っています。このような組織は大切にする価値があります。)命名に関するいくつかの規則は厳守されるべきですが、植物学者は感情に無関心ではなかったため、1995年にその決定を覆しました。同様の状況から、ペチュニア属、ニシキギ属、そして一般的なヒガンバナ属は、降格の運命をたどりませんでした。でも、多くのゲラニウム属植物はそうではなく、数年前に抗議の声の中で、テンジクアオイ属に移されました。これらの議論は、チャールズ・エリオットの『鉢植え小屋文献』の中で興味深く描写されています。

同じ論争、同じ再分類が、他のすべての生物の分野でも起こってるので、合計を出すのは、あなたが想像するほど簡単ではありません。その結果、私たちの惑星にどれだけのものが住んでるのか、私たちは見当もつきません。エドワード・O・ウィルソンの言葉を借りれば、「最も近い概算」さえ知りません。これは、非常に驚くべき事実です。その数字は、300万から2億までだと推定されています。さらに信じられないことに、『エコノミスト』誌の報道によると、世界の植物と動物の種の最大97%がまだ発見されていないんです。

既知の生物のうち、100種のうち99種以上には、簡単な記述しかありません。「科学的な名前、博物館のいくつかのサンプル、科学雑誌の散発的な説明」ウィルソンは、私たちの知識の状態をこのように説明しています。『生命の多様性』の中で、彼は、既知のあらゆる種類の種、植物、昆虫、微生物、藻類、その他すべてを140万種と推定していますが、それは単なる推測にすぎないと言っています。他の権威者は、既知の種数

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