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えー、皆さーん、こんにちは。今日はね、フランク・ロイド・ライトについて、ちょっとお話してみたいなー、なんて思ってます。ライトって、ほら、アメリカの偉大な建築家の一人ですよね。
ウィスコンシン州のヘレナ・バレーにある、ちっちゃなユニティ・チャペル。そこからね、北の方を見ると、丘の上に3つの建物が見えるんですよ。なんかモダンなんだけど、周りの風景にすごく合ってるっていうか。東にはミシガン湖の灯台、谷には背の高い木々があるんだけど、「ロミオとジュリエットの風車」っていうのが、とにかく目立つんですよね。周りの杉材で覆われてて。その隣には、ミッドウェイ・バーンっていう納屋があるんだけど、これはね、ウィスコンシン州によくある、あの赤い納屋を低く平らにしたみたいな感じ。で、一番奥にあるのが、丘の頂上を包み込むように建てられたタリアセンっていう家。オークとかレッドシダーの木々に囲まれてて、丘の土の色とか、石の色とか、木の皮の色を再現してるんだよね。谷の上空には、ほら、トルコハゲタカとか、ハクトウワシが、旋回してるんですよ。
で、この3つの建物全部、フランク・ロイド・ライトが設計したんですね。ライトは1867年から1959年まで生きて、今ではアメリカの偉大な建築家の一人として認められてますよね。彼の家族は19世紀にこの谷に移住してきて、ユニティ・チャペルを建てたんだって。ライトは11歳の頃から、夏になるとマディソンから叔父の農場に遊びに来てたらしいんですよ。若い頃はシカゴに行って建築家を目指して、ルイス・サリバンっていう人に師事して、形と機能が一体になるべきだって教わったんだって。で、20年後、スキャンダラスで、独創的で、捉えどころのない人物になって、この谷に戻ってきたんですよね。ライトは自分のことを「生まれながらの、そして根っからのウィスコンシン州の急進派だ」って言ってたらしいですよ。急進派っていうのは、「根っこ」っていう意味のいい言葉だって。急進派であるからには、どこかに根を張らなきゃいけない。ウィスコンシン州は俺の場所だって、みたいなね。ここから、中年になって、20世紀で最も独創的な建築家の一人として生まれ変わったんですよね。もしライトが遅咲きじゃなかったら、あるいは、二度咲きじゃなかったら、彼の最も有名な作品の多くは生まれなかったかもしれない。ライトは、自分が並外れていると信じて疑わなかったから、二度咲きすることができたんだと思うんですよね。まあ、中年クライシスもあったみたいだけど。
ライトの強烈な自己信念っていうのは、若い頃から育まれたものなんだけど、それが彼の低迷期を乗り越えて、第二の黄金期を迎える原動力になったんですよね。でも、彼の創造性の源であると同時に、そのエゴが彼を支配的で暴力的にしたっていう側面もあるんですよね。この本に出てくる他の遅咲きの人たちよりも、ライトの性格の暗い部分が、彼の成功を後押ししてるっていうところが、ちょっと異質なんですよね。彼は自分の周りに熱心な崇拝者を集めて、感情的にも、心理的にも、肉体的にも、彼らを支配できたんですよね。キャサリン・グラハムは、支配的な夫から解放されることで成功できたけど、ライトは彼女とは正反対のタイプだったんですよね。
ライトは、天才、生まれながらの建築家であるべきだったんですね。彼の母親は、彼がまだお腹の中にいる時から、偉大な建物を設計するだろうと決めていたらしいんですよ。それで、彼にフレーベルの積み木を買ってあげたんだって。子供の頃から、ライトはこの積み木を並べたり、組み立てたりしてたんだけど、それが後の作品に大きな影響を与えたっていうのは、よく言われてることですよね。彼は幼い頃から、幾何学的な構造を見抜くことを学んだっていうか。アンソニー・アロフシンが言うところの「幾何学的形態の認識」ですね。彼のプレーリーハウスから初期の寺院、そして晩年の作品に至るまで、この幾何学的な抽象化っていうのが、何度も何度も見られるんですよね。彼の母親は、他にも土台を作ってあげてて、ジョン・ラスキンの美術や建築に関する批評を彼に読んで聞かせたり、偉大なゴシック様式の大聖堂の版画を、彼のベッドの上に飾ったりしてたんだって。彼の父親は、ライトを文学や音楽に浸らせたんだよね。ライトはよく、建物を楽曲に例えてたらしいんですよ。(タリアセンでは、彼はバッハやベートーヴェンを大音量でスピーカーから流して、音楽が谷全体に響き渡るようにして、見習い職人たちが畑仕事や建物の修理をしてる場所にまで聞こえるようにしてたんだって。)14歳の時に、ヴィクトル・ユーゴーの「ノートルダムのせむし男」を読んで、グーテンベルクの活版印刷の発明以来、本が文化表現の主要な形態として建築に取って代わったっていう悲劇的な教訓を学んだんだって。ライトは、その置き換えを逆転させて、建築を芸術の母としての正しい位置に戻そうと決意したんですよね。この考えは、彼が80代でニューヨークのグッゲンハイム美術館を設計した時にも、まだ彼を動かしていたんですよね。
ライトのキャリアは1880年代に始まり、1930年代には終わったと思われていたんですよね。その頃には、モダニズムの学者や建築界からは拒絶されてたけど、おそらくアメリカで最も有名な建築家だったと思うんですよね。ただ、彼が晩年に手がけたアヌンチアション・ギリシャ正教会とか、グッゲンハイム美術館の依頼主の中には、最初、彼がもう亡くなってると思ってた人もいたみたいだけどね。1909年以前には、シカゴ郊外に住宅や宗教施設を設計してたんだって。彼の革新的なプレーリーハウスは、広く称賛されてたみたい。彼と妻のキャサリンは、普通の、中流階級の人々で、その地域社会にも受け入れられてたんだって。
1909年、42歳で、プレーリー様式の家の建築家として成功していたライトは、家族を捨てて、事務所を共同経営者に任せて、既婚者の顧客であるママ・ボールウィックと一緒にヨーロッパに行ったんですよね。彼の事務所は1907年に経営不振に陥ってて、彼は1908年にキャサリンに最初に離婚を申し出てたみたい。二人は心が離れてしまってて、ライトは、アーツ・アンド・クラフツ運動の世代がそうであったように、仕事と家庭を一体化させることを信じていたんだよね。家を出るっていうのは、大胆な行動だったと思う。彼はもはやブルジョワではなく、エキセントリックで、立派だけど革新的な建築家っていう位置付けだったんだよね。スキャンダルですよ。自分の息子に殴られて、倒されたりもしたらしい。
ヨーロッパから帰国すると、ウィスコンシン州のヘレナ・バレーに戻って、タリアセンを建てたんだって。これが転換点になったんですよね。タリアセンは、彼の初期のアイデアを拡張し、新たな方向性を確立した、アイデアと実験の建物なんですよね。この谷から、ライトは停滞していたキャリアを再び活性化させたんだよね。これは、彼の人生の中で、個人的にも職業的にも、長く困難な時期の始まりだったんですよね。1911年から1925年の間に、タリアセンは2度焼失し、彼の恋人だったママ・ボールウィックは、奇妙で、残酷で、悲劇的な状況で殺害され、その後の結婚も、夫婦間で暴力沙汰があったとされて、破綻したんですよね。ライトは建築界では主流ではなくて、時代遅れだとか、無視されたり、ミース・ファン・デル・ローエとか、インターナショナル・スタイルの提唱者たちからは、嘲笑されたりしてたみたい。トム・ウルフが言ったように、1932年までに、ライトはヨーロッパのモダニストと比較して「半現代的」だと考えられていたんだって。「それはつまり、彼は終わった、忘れられても良い存在だ」ってことですよね。彼はまた、しばしば金銭的に困窮していたみたい。
この時期、ライトはアメリカではほとんど仕事の依頼を受けられなかったみたい。依頼を受けても、うまくいかないことが多かったみたい。でも、ただ怠けていたわけじゃなくて、1923年には、日本の帝国ホテルを完成させてるんですよね。これは、彼がこれまで手がけたことのない、物理的にも想像的にも、より大きな規模の驚くべき業績なんですよね。そのホテルは、建設された翌年の地震でその実力を証明したんですよね。10年後、彼は誇らしげにこう書いたんだって。「東京の帝国ホテルが建てられる以前のように、地震地帯に建物を建てることは二度とないだろう」と。国内では、彼の成功は控えめだったみたい。手頃な価格の住宅を建てようとした試みは、経済的に失敗したみたい。ライトはこの中間の時期に、野心がなかったわけじゃないんだけど、お金を稼ぐために、執筆や講演に軸足を移したり、見習いプログラムを運営したりしなければならなかったみたい。世界恐慌の時代には、建築家としての彼のキャリアは、ついに終わったように見えたんだって。ある歴史家は、「ライトは世間の記憶から消え去った」って言ってるんですよね。
しかし、その後、1930年代初頭に、落水荘、ジョンソン・ワックス、ハーバートとキャサリン・ジェイコブスの最初の家(ジェイコブスI)っていう、3つの象徴的な建物の依頼を受けて、第二幕が始まったんですよね。1935年から1959年までのこの第二のキャリアは、ライトの最も革新的な時期だったみたいで、ユソニアン、ヘリオセントリック、テキスタイル・ブロック・ホーム、アメリカ西部の風景に基づいた新しい独創的なデザイン、そしてグッゲンハイム美術館やジョンソン・ワックス社のような記念碑的な建物を創作したんですよね。まるで人生をやり直しているかのようだったっていうか。彼は子供の頃に学んだパターンを絶えず再考するように、自分のキャリアを再構築したんですよね。
そう、フランク・ロイド・ライトは、早咲きでもあり、遅咲きでもあったんですよね。彼は人生の最後の四半期、68歳を過ぎてから、生涯の仕事の半分以上をこなしたんだって。彼の最後の10年は、最も生産的な時期だったんですよね。ライトが晩年に最も実験的な建物を創造したのは、彼自身の能力と、自分の仕事の重要性に対する強い信念があったからなんですよね。60歳の時、彼のキャリアは衰退していたけど、80歳になると、上昇していたんですよね。確率均等則が予測するように、ライトは驚異的な働きをしたんですよね。彼が91歳で亡くなる前年には、バグダッドに建設予定の文化センターのために、100枚の図面を作成したんだって。
この二峰性のキャリアの形状は、彼のキャリアの毎年のデザインに基づいて完成した建物の数のグラフで見ることができるんですよね。これは完全に正確な表現ではないかもしれないけど。建物の建設には設計よりも時間がかかるし、多くの外部要因が設計の完了時期や完了するかどうかに影響するからね。でも、ライトのキャリアにおける2つのピークは、はっきりと見ることができるんですよね。第一次世界大戦が始まった頃のスランプの後、ライトの事務所は、1935年に落水荘の依頼を受けるまで、ほとんど休眠状態だったんですよね。ライトの指導者であるルイス・サリバンや、彼の製図技師であるラッセル・バー・ウィリアムソンなどの多くの建築家は、1911年から19年の仕事の減少の後、ライトが経験したようなスランプから回復することはなかったんですよね。
ライトのキャリアには、図で見ることができない質的な側面があるんですよね。ライトが第二のピークを生み出すことができたのは、革新的であり続け、自分のアイデアを新しい文脈で再構築し、人生を絶えず再検討する能力があったからなんですよね。1911年から1917年の間に、ライトはシステムビルトホームズプログラムのために100以上のデザインを作成したんだけど、これは彼の建築原則に基づいて手頃な価格の住宅を作ろうとする試みだったんですよね。システムビルトホームズは、彼の総生産量の約10%を占めてるんだけど、そのほとんどは建設されなかったんですよね。第一次世界大戦の勃発、ライトが日本で働いていたこと、そしてそのアイデアを経済的に実現することが困難だったことなどが重なって、このプロジェクトは中止になったみたい。忘れ去られたシステムビルトホームズ、エリザベス・マーフィー邸についての本の著者であるニコラス・ヘイズは、プログラムが中止された1年後でも、ライトが後のプロジェクトでデザイン要素を使用することを考えていたことを示すメモをアーカイブで見つけたみたい。そして彼は1936年に、ユソニアンと呼ばれる建物群の一部であるジェイコブスIで、手頃な価格の建築家が設計した住宅のアイデアに戻ってきたんですよね。失敗はあったものの、この中間の時期は野心的だったんですよね。1916年のボグク邸は、帝国ホテルの影響を受けていて(予備計画は1913年に開始された)、ライトの独特なスタイルを証明するものになっているんですよね。ミルウォーキー郊外の通りで、特異で、一枚岩のような、異質な家として際立っていて、数年前に彼が建てていたプレーリーハウスとは、全く異質なんですよね。記念碑的な建物の美学を小規模で表現する彼の能力は、彼がウィスコンシン州ラシーンのジョンソン・ワックス本社(1936年から1939年に建設)で、偉大なゴシック様式の大聖堂からインスピレーションを得た時にも、再び見られたんですよね。
彼の最後の10年間、ライトはベス・シャローム寺院やグッゲンハイム美術館のような、記念碑的で革新的な空間を建設したんですよね。特にグッゲンハイム美術館は、戦後の最も驚くほど未来的な建物の一つで、70代の人の幾何学的な想像力から生まれたというよりは、宇宙からマンハッタンに落とされたように見えるんですよね。彼は反復ではなく、再配置によって、これらの壮大な新しい形にたどり着いたんですよね。彼は絶えず自分のアイデアを変化させていたっていうか。ジョンソン・ワックス本社のアイデアは、1931年のデザインで最初に見られるんですよね。連続した螺旋状のスロープのアイデアは、1920年代のデザインで最初に見られるんだけど、彼がグッゲンハイム美術館の仕事の依頼を受けた時までには、そのアイデアを実現可能にする新しい種類のコンクリートが入手可能になり、彼には彼の先見の明のある理想を共有するパトロンがいたんですよね。ライトがプラネタリウムのために最初の螺旋状のスロープを設計した時、彼は「時代の技術を限界まで押し上げていた」んですよね。それは、グッゲンハイム美術館のデザインが、過去のデザインの焼き直しで、新しい顧客のために再調整されたものである、っていうことじゃないんですよ。そうではなくて、ライトが単純な形状の中にさえ、広大な可能性を見出し、新しい素材を使いこなすことができた度合いを示しているんですよね。ジョンソン・ワックス本社の木のような柱は、ライトが最新の鉄筋コンクリートで作業していたからこそ可能になったんですよね。ライトの第二の黄金期は、第一の黄金期のアイデアを、新しい驚くべき方法で再検討した結果だったんですよね。彼がキャリアの復活の数年前の1931年に言ったように、「人間にあるこの創造的な能力は、彼がすることすべてに自分自身を生まれ込ませ、新たな問題が発生するにつれて、新鮮なパターンで何度も生まれ変わらせる質または能力である」と。1934年以降、落水荘、ジョンソン・ワックス本社、ジェイコブスIによって、ライトのキャリアは新たな問題が発生するにつれて、新鮮なパターンで何度も生まれ変わったんですよね。
彼がこれをどのように行ったのかを理解するために、ミケランジェロの製図の実践を見てみましょう。
えーっと、建築の歴史の中で、ミケランジェロ以前のデザイン図面はほとんど残ってないんですよね。これにはいくつかの理由があって。印刷機のおかげで紙が豊富になり、レオナルド・ダ・ヴィンチのような芸術家が、創造的な創意工夫に製図やスケッチを活用し始めたんですよね。そしてルネサンス期は、ゼネラリストの時代だったんですよね。その時代の偉大な建築家の多く、例えばドナト・ブラマンテ、ジョルジョ・ヴァザーリ、バルダッサーレ・ペルッツィなどは、もともと画家や彫刻家だったんですよね。それは遅咲きの時代だったっていうか。ブルネレスキは金細工師で、中年になってから建築家になり、フィレンツェ大聖堂のドームを設計して、古代の偉大なドームを再現する方法という、建築家を何千年も悩ませてきた問題を解決したんですよね。建築は、絵画や彫刻と製図の技術を共有してたっていうか。3つの芸術すべてが、アイデアを生み出す方法として製図に頼るようになってたんですよね。作家が自分の考えを書き留めるのではなく、書くことによって考えていると言うのをよく聞くけど、製図はルネサンス期の画家、彫刻家、建築家、中でもミケランジェロにとって、同じような役割を果たしたんですよね。
ミケランジェロは、キャリアの中盤になって初めて建築に興味を持つようになり、教皇からサン・ピエトロ大聖堂の建設を依頼された時は、すでに高齢だったんですよね。引退する代わりに、70代の芸術家は、ルネサンス最大の建築家になったんですよね。他の芸術家と同様に、ミケランジェロは製図によって建築を学んだんですよね。
ブルネレスキとは違って、ミケランジェロはローマに旅行して古代の建物を調べることによって建築を学んだわけじゃないんですよね。彼は古典的なスタイル、形、規則からインスピレーションを受けたんだけど、それは本を通してだったんですよね。彼は古典的な建築様式が書かれた写本を研究したんですよね。体系的なアプローチを取るのではなく、必要なものを取り入れたんですよね。彼は、絵画の準備のために裸の人物を描くことを学んだのと同じように、これらの写本の形や形状を描くことによって学んだんですよね。これはミケランジェロの発明ではなかったっていうか。それは芸術家の間で一般的な慣行になりつつあったんですよね。彼は、彼らと同じように、製図が思考の方法であり、芸術における新しいものを発見する手段であることを学んだんですよね。このセクションの基盤となっている、ミケランジェロ、製図、そして建築の発明に関する優れた研究である、美術史家カミー・ブラザーズが書いているように、「レオナルド・ダ・ヴィンチは、研究の形式として、そして新しいアイデアを生み出す媒体としての製図の可能性を示した」んですよね。
ミケランジェロの図面は、反復に満ち溢れているんですよね。彼は同じ人物を何度も何度も描き、姿勢、ポーズ、角度にわずかな変化をつけてるんですよね。それは、彼が基本的な形を記憶に刻み込み、独創的な方法を発見する方法だったんですよね。製図を通して、彼は形の深い理解を達成したんですよね。だからこそ彼は、彼の生徒の一人に「アントニオ、描きなさい、アントニオ、描きなさい、アントニオ、描きなさい、そして時間を無駄にしないで」と呼びかけたんだよね。アイデアは、この反復、この再構築の中で偶然見つかるんですよね。それは、ミケランジェロが解釈し直し、再形成して、何か新しいものを見つけることができる形状を頭に詰め込んで、各プロジェクトに取り組んだことを意味するんですよね。建築に必要なスキルは、彼が絵画から学んだものであり、解剖学への関心から得たものだったんですよね。ヴァザーリが言ったように、「解剖学的な事柄を理解するために死体を剥製することで、彼は後に習得した優れたデザインのセンスを完成させ始めた」んですよね。(ミケランジェロは子供の頃、秘密裏に絵を描く習慣があったために、叩かれたんだって。遅咲きになるためには、非常に若い頃から始める必要がある場合もあるんですよね。)
写本から、彼は彼の様々な建築プロジェクトで再構成し、再加工することができる新しい一連の形を学んだんですよね。最初は、彼は建築を彫刻をフレーミングする方法として見ていたんですよね。絵画が建築によって残された空間に収まらなければならなかったシスティーナ礼拝堂で作業しているうちに、彼は建築をそれ自体興味深いものであり、全体的な効果の重要な部分であると見なすようになったんですよね。建築的なフレームと彫刻的または絵画的な人物像が、彼の想像力の中で統一されたんですよね。台座、柱頭、ペディメント、コーニスの製図技術を習得する手段として始まったものが、大理石の塊の中に人間の姿を想像する彼の能力に似た、新しい見方になったんですよね。このスクロールと柱の製図の基礎から、彼は古典建築を再発明した人物になったんですよね。
これは、ミケランジェロの建築を記述し説明するために必要なすべてではないんですよね。「ある意味で」とブラザーズは書いているけど、「彼の建築は、依然としてどこからも生まれていないように見える」んですよね。しかし、彼の発展にとっての反復の中心的な重要性を見ることができるんですよね。彼は抽象的ではなかったんですよね。彼は彼の芸術的なアイデアと同じように、建築的なアイデアにたどり着いたんですよね。繰り返し、わずかな変化を加えながら、適切な答えを見つけるまで、製図を通してね。彼は人間の解剖学や建築構造のような形を取り、それらに修道士の瞑想のようなものを適用したんですよね。修道士が聖書の章について瞑想するように、それらを噛み砕いたんですよね。創造性は、このような忙しくて反復的な作業の結果なんですよね。それこそが、フランク・ロイド・ライトが、非常に長く、創意に富んだキャリアを維持することができた方法なんですよね。彼はミケランジェロが腕や柱をスケッチするように、70年、80年後に、子供の頃の形を想像力の中で回転させ、配置し直し、再構築していたんですよね。これが、グッゲンハイム美術館が設計された方法なんですよね。ライトは、生涯を通して形を回転させていたんですよね。
製図がミケランジェロにとってそうであったように、想像力はライトにとってそうだったんですよね。昔の巨匠は、自分の形を見つけるために紙に連続して下書きを描いたんですよね。新しい巨匠は、鉛筆を手に取る前に、頭の中で慎重に考え抜いたんですよね。ライトの記憶力は、彼が実際に描かなくても、この作業を可能にしたんですよね。有名な話だけど、エドガー・J・カウフマンがライトに電話して、落水荘のデザインの進捗状況を見に来ると言った時、ライトは何も紙に書いてなかったんですよね。彼は慌てることなく、製図スタジオに歩いて行き、家の計画の3つの完全で詳細な図面を、躊躇することなく、紙に直接描き下ろしたんですよね。2時間かかったみたい。カウフマンが到着した時、彼は信じられないほど感銘を受けたらしいですよ。ライトは、前の数週間で、建物全体を頭の中で想像していたので、まるで純粋なインスピレーションから生まれたかのように、それを生み出すことができたんですよね。
えーっと、フランク・ロイド・ライトが1909年に人生から抜け出した方法を、いくつかの方法で説明できるんですよね。それはまるで、中年クライシスみたいに見えるんですよね。彼は自分の仕事に飽きていて、不満を持っていて、彼の結婚生活は、興味が異なるために冷え切っていて、彼は何か、何でもいいから変えたくてたまらなかったんですよね。ウォルト・ホイットマンとラルフ・ウォルドー・エマーソン、彼のヒーロー、アメリカの個人主義の偉大な予言者について語り、ライトをサマセット・モームの小説「月と六ペンス」のチャールズ・ストリックランドのように、ブルジョワ的な生活に閉じ込められたボヘミアンと見ることができるんですよね。あるいは、私たちは、全体をもっと現代的な言葉で表現することもできるんですよね。彼は幸福曲線の底(次の章で議論される)に達していた。それはすべて、人生の自然な段階であり、ほとんどの人に起こるものだったんですよね。それを乗り越えるのではなく、彼は逃げ出したんですよね。おそらく、これらの要因のそれぞれが、役割を果たしたんですよね。確かに彼は、閉じ込められていると感じていて、落ち込んでいたんですよね。これ以上推測したところで、何の役に立つんだろう?もし彼が最初の妻キャサリンと一緒にいたら、彼の作品は同じように発展していたかもしれない。そうじゃないかもしれない。そのようなロマンチックな個人主義者が、人生に不誠実さを感じながら、発展できるとは考えにくいんですよね。しかし、もし彼が単に避けられない生物学的な幸福曲線を滑り落ちていただけなら、すべて同じ結果になっていたかもしれない。私たちにはわからないんですよね。1909年のその決裂の原因や結果がどうであれ、ライトは今や「制限と想像上の線から解放された」んですよね。
ヨーロッパの建築の直接的な経験は、機能とは異なる装飾があってはならないというライトの考えを強化し、これは彼の後の作品と布教に影響を与えたんですよね。彼はヨーロッパの建物の計画を研究し、民俗の伝統と普通の建物との間のつながり(タリアセンに影響を与えた)を見て、他の国からの古い形を再現するのではなく、オリジナルのアメリカ建築を創造するという彼の使命に、より確固たるものを持って帰ってきたんですよね。1909年から10年にかけてイタリアを訪れた彼は、古典建築がその環境と有機的であることを知り、それらのスタイルを他の時代や場所に押し付けることは不連続であると信じるようになったんですよね。古典的な形を現代のアメリカで再現することは現実的ではなかったんですよね。「私たちは、生きていても死んでいても、独自の建築を持たない唯一の力強い国だ」と彼は言ったんですよね。エマーソンとホイットマンは常にライトにとって重要だったんだけど、彼は今や、建築家の知的な側面だけを訓練するのではなく、精神的な側面も訓練することは、模倣的な建物につながるだけで、独創的な建物にはつながらないと信じていたんですよね。アンソニー・アロフシンが言ったように、「ライトは十字軍としてヨーロッパから帰ってきた」んですよね。
次の20年間は、彼の晩年のキャリアの大きな転換点につながるんですよね。故郷に孤立し、職業でも孤独だったこの危機は、出発点だったんですよね。ライトの苦難の時代、およそ1909年から1930年までは、彼が最終的に自分のビジョンを実現した時期だったんですよね。1910年以降、ライトはもはや同じ建築家ではないんですよね。彼が若い頃に師であるルイス・サリバンから学んだ形と機能が一体となるモデルは、「拡張され、再加工された」んですよね。サリバンは彼の装飾に全体感を与えていたんですよね。ライトは、全体性が建物全体の特長になることを望んでいたんですよね。これからは、ライトは建物ではなく、空間を作るようになったんですよね。形に対してそうしたように、アイデアに対してもそうしたんですよね。新しい可能性を見つけるために、頭の中でそれらをひっくり返していたっていうか。
暖炉は1909年以前の彼のプレーリーホームの中心であり、家庭空間の焦点だったんですよね。ニューヨーク州バッファローにある、その時代のラーキン・ビルディングは、巨大で明るい中央アトリウムを持ち、機能的な空間を強調していたんですよね。彼は建物の角を、レンガのスパンドレルを含むガラスのチャンネルで壁から分離したんですよね。これらや他の方法で、彼は壁を引き離し、建物を壁の箱ではなく、周りに一連のスクリーンがある空間にしたんですよね。ドナルド・ホフマンが書いているように、壁の通常の箱型のパターンを破壊することによって、「内部空間はあらゆる方向に解放された」んですよね。同様に、ユニティ寺院(1905年から1908年)では、彼は礼拝空間を「デザインの魂」にしたんですよね。彼はこのようにデザインしていたけど、まだ空間の理論を持っていなかったんですよね。ヨーロッパと日本を経て、空間のアイデアは彼の意図の中心となることがますます多くなっていったんですよね。
連続した空間のアイデアは、アヌンチアション・ギリシャ正教会やグッゲンハイム美術館のような、彼の晩年の円形のプロジェクトで新たな高みに達しているんですよね。それらの形状と構造は、壁ではなく、内部の絶え間ない流れを強調してるんですよね。ラーキン・ビルディングのガラスの亀裂は、落水荘でより強く再発し、連続した壁を壊して内部空間を強調してるんですよね。グッゲンハイム美術館では、床は常に傾斜していて、ガラスの亀裂はドームの屋根になっているんですよね。ジョンソン・ワックス本社では、壁と天井の間にガラス管の明かり窓があり、光をオフィスに落としているんですよね。同様に、アヌンチアション・ギリシャ正教会では、屋根が円形の窓の明かり窓の上に載っているんですよね。夕方の光はこれらの窓から差し込み、祭壇の周りの金のスクリーンに反射し、黄金の輝きが教会の内部全体に広がっているんですよね。「無制限の頭上」のアイデアは、1908年にユニティ寺院で初めて使用されたんですよね。50年後、ライトはこのコンセプトを進化させ、再構成し続けていたんですよね。このようにして、彼は「新たな問題が発生するにつれて、新鮮なパターンで何度も生まれ変わった」んですよね。
建物を空間として捉えるコンセプトにとって最も重要なのはタリアセンであり、それは並外れた革新だったんですよね。彼は1935年の落水荘まで、再びそのようなものを建てることはなかったんですよね。1950年代後半でさえ、アヌンチアション・ギリシャ正教会の依頼人たちがタリアセンを訪れた時、彼らは建物が1911年に最初に建てられたとは信じられなかったんですよね。「まるで昨日建てられたばかりのように感じざるを得なかった」と、彼らのうちの一人は言ったんですよね。ル・コルビュジエが製図技師で、ミース・ファン・デル・ローエが見習いだった第一次世界大戦の前に、タリアセンが設計されたことを思い出すのは、常に難しいんですよね。タリアセンでは、40代半ばの危機のさなかにあった彼は、新しいアメリカ建築を創造するために、空間のコンセプトを実験したんですよね。それはニール・レヴァインによれば、「彼が建築であるべきだと信じていたもののマニフェスト」だったんですよね。
タリアセンは丘の上に建てられたのではなく、丘の周りに建てられているんですよね。丘の頂上は家の三辺の真ん中にあり、後に落水荘に突き出た岩棚が滝の上に建てられたのと同じようにね。彼はヨーロッパからタリアセンを建てる準備をして帰ってきたんですよね。ヨーロッパの邸宅のアイデアを、非公式で不規則で有機的な方法で再発明し、それをウィスコンシンの風景に統合したんですよね。彼の初期のブレークスルーの一つであるロビー邸の「完全な移動の自由と無限の空間の広がり」は、タリアセンで新たなレベルに引き上げられたんですよね。そこでは「ほとんどすべての部屋が互いに接続され、その角から入ることができる」んですよね。すべての部屋で、景色が広がり、変化するんですよね。景色は周囲の環境とともに流れ、内部と外部の区別を薄めているんですよね。タリアセンでは、決して閉じ込められていると感じることはないんですよね。空間は常にあなたの周りで開いたり閉じたりしているんですよね。それは、入り江や支流があらゆる場所に分岐する川のように、廊下、部屋、くぼみ、割れ目、そして居心地の良い場所が連続した通路なんですよね。ほぼ50年後に建てられたグッゲンハイム美術館でも同じことが言えるんですよね。
ライトは、対角線上にタリアセンを建てることによって、この絶え間ない景色の変化と拡大を実現したんですよね。これは今や彼の作品の中心となったもう一つの要素なんですよね。タリアセンからの他のアイデアは、彼の晩年を特徴づける再構成された形の一部になるんですよね。リビングルームの角の窓にはジョイントがないんですよね。これはモダニズムの「箱を壊し」、家を自然と統合する方法なんですよね。彼のキャリアを再開させた1930年代の建物群の一部であるジェイコブスIでは、リビングルームへのドアが角の庭に面して開いているんですよね。タリアセンの数年後に建てられた、失敗したシステムビルトホームズプロジェクトの一部であるエリザベス・マーフィー邸では、玄関から入るとすぐに左側に壁があり、リビングルームの景色を遮り、より開かれた景色が見える家の中心部にあなたを引き込むんですよね。これはタリアセンの玄関がリビングルームにつながるのと同じ原理なんですよね。
タリアセンは個人的な隠れ家であり、ライトが独立して、ママと一緒に暮らす場所だったんですよね。彼らの型破りなパートナーシップは、丘と家の結婚であるタリアセンの主なインスピレーションだったんですよね。しかし、多くの不幸の最初が1914年に起こったんですよね。使用人が火をつけて、逃げようとした7人を斧で殺害し、ママとその子供たちも含まれていたんですよね。建物の居住棟は破壊されたんですよね。さらに多くのことが続いたんですよね。1923年、ライトは2番目の妻であるモード「ミリアム」ノエルと結婚したんですよね(彼の最初の妻キティは1922年に彼に離婚を許可した)。これは気難しくて不幸な結婚だったんですよね。彼女はモルヒネ中毒者で、精神的に不安定だったんですよね。彼らが離婚した時、彼女はライトを暴力で非難したんですよね。離婚はライトに重い借金を残したんですよね。1925年、彼はオルギヴァンナ・ヒンゼンブルク(旧姓ラゾヴィッチ)に出会ったんですよね。彼らは残りの人生を一緒に過ごしたんですよね。彼らは再建されたタリアセンに引っ越したんですよね。しかし、その年、タリアセンは再び火事で焼失したんですよね。電気系統の故障によって火災が発生したんですよね。ライトが1902年から収集していた日本の芸術品のコレクションが破壊されたんですよね。
消滅した芸術品の価値は、最大50万ドル相当であり、ライトは余裕がなかった損失だったんですよね。言うまでもなく、かけがえのない芸術品を失う悲惨さもあったんですよね。彼はタリアセンを再び再建したんですよね。しかし、彼の債権者たちは彼を悩ませたんですよね。ある時点で、家は彼らの所有物だったんですよね。彼の状況は非常に不安定だったので、多額の負債と少ない仕事の中で、彼は投資家が将来の仕事に対して保証付きで資本を投じることができるコンソーシアムを作成したんですよね。彼の抵抗できない、矯正不可能な自己信念は、決して揺るがなかったんですよね。
最初のタリアセンの火災の直前、ライトは1913年から1922年まで日本で仕事を始めたんですよね。タリアセンとヨーロッパのように、これは建築に対する彼の見方を変えたんですよね。アンソニー・アロフシンは次のように書いています。「彼が日本美術で発見した円、正方形、三角形の原型的な幾何学は、それぞれ無限、誠実さ、構造的な統一の精神的な資質と一致していた。」幼い頃に学んだ純粋な幾何学は、彼の心の中で再構成され、ひっくり返され、新しい視点と新しい信念を見つけていたんですよね。日本の影響は、ライトの生涯の残りの作品に深く残っていたんですよね。特に、産業革命以前の日本が、ライトが見ていたように、常に自然と調和して生きていたという考えはね。
1921年、彼が帝国ホテルを完成させる少し前に、彼は娘に次のように書いたんですよね。「昔は、私の肉体的資源の底を打つことはできなかった。しかし今、灰色の髪と53年という歳月が、注意を払わなければならない何かを示していることに気づいた…」彼は日本でもう一つのことに気づいたんですよね。それは、彼が今まで間違ったやり方で仕事をしてきたということだったんですよね。彼が友人であり顧客であるダーウィン・マーティンに書いた手紙を引用します。
「日本の偉大な建物を建てる私の経験は、建築における私の理想を実現することがいかに難しいかを私に教えてくれました。家具を含むすべてのことが、私の職人たちによって「現場で」作られたので、私は現場のあらゆるものと密接に取り組まなければなりませんでした。私は、私の監督が常にいかに不十分であったか、いかに無謀に高い目標を掲げていたか、そして最初に彼らが本当に望んでいなかったものを手に入れるために、クライアントがいかに忍耐と寛容を与えなければならなかったかを痛感しています」
これこそが、ミケランジェロがサン・ピエトロ大聖堂の建築家として