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ええと、今回はね、資本主義のその後について、ちょっとお話してみようかな。
マルクスって、1883年に亡くなったんだよね。それから100年後、ベルリンの壁が崩壊して、マルクス主義っていう経済的な考え方は、まあ、実際にはもう意味がないものとして終わっちゃった感じだよね。でもね、マルクスの言ってたこと、19世紀に彼を支持する人とか、批判する人たちが発展させた考え方は、今の議論でも結構大きな役割を果たしてるんだよね。
昔は、個人の財産とか、資本の所有とか、ビジネスのコントロールっていうのが、すごくつながってたんだよね。ビジネスを理解する上でも、所得とか富の分配を考える上でも、それが基本だった。でも、今は違うんだよね。つながりはあるんだけど、ビジネスのコントロールから個人の財産へ、っていう流れになってて、資本がサービスとして発展したから、資本の所有っていうのは、経営の権限とはほとんど関係なくなっちゃったんだよね。
昔は、鉄工所とか紡績工場が、産業革命の代表的な職場だった。それが、鉄鋼工場とか自動車の組み立てライン、食肉加工工場に変わっていったんだけど、今はもう、そういう施設が21世紀の経済を引っ張ってるわけじゃないんだよね。AppleとかGoogle、J.P. MorganとかVerizon、PfizerとかPwCが、今の中心的な存在になってる。で、そういう会社で働いてる人たちは、昔みたいに貧しい労働者じゃないんだよね。オフィスに行くんだよ。18世紀、産業革命の前は、ほとんどの人が家で仕事をしてたんだけど、21世紀の今、また多くの人が家で仕事をしたいと思ってるんだよね。
彼らが作ってるのは、スマホとかインターネット検索、銀行口座とか通信回線、薬とか会計サービス。ポケットに入ったり、頭の中に入ったりするものだよね。そういう製品のコストの中で、材料費はほんのわずかな割合でしかない。私たちが払ってるのは、原材料を製品に変えることじゃなくて、製品のデザインに組み込まれた、会社の中にある集団的な知性に対してなんだよね。製品の価値が非物質化してるっていうのは、生産手段の非物質化と関係があるんだよね。21世紀のビジネスは、資本をあまり必要としないし、使ってる資本をほとんど所有してないし、資本を提供してる人たちにコントロールされてないんだよね。現代の企業は、水とか電気、輸送サービスを買うのと同じように、資本のサービスを買ってるんだよね。従業員とか会計士、経営幹部、サプライヤーのサービスを買うのと同じように。
産業革命後のビジネス環境では、生産っていうのは、有形の資本と有形の労働の組み合わせによって生まれてた。所得の分配は、資本の提供者と労働の提供者、つまり資本家と労働者の間の階級闘争の結果だったんだよね。その説明は、20世紀の大部分まで、ビジネスの一部には当てはまってた。でも、21世紀のビジネスでは、労働、特に色々な種類の労働の組み合わせが、生産の鍵となる要素なんだよね。アウトプットは、ソフトウェアエンジニアとかデザイナー、会計士とかマーケター、優秀な営業マンとかディールメーカーの、関連するスキルから生まれるんだよね。
工場は、かつて階級闘争の最前線で、労働組合がより良い賃金とか労働条件を求めて活動してた。マルクスが書いた頃は、イギリスの労働者の40%が製造業で働いてたんだけど、今は10%以下なんだよね。イギリスとかアメリカでは、労働組合主義は、主に公的部門の現象になってる。(ドイツとかスカンジナビアは、組合の幹部が政治とか経営の役割に組み込まれてるから、ちょっと違うんだけどね。)19世紀後半の象徴的なストライキは、1888年のロンドンのマッチ工場で働く女性たちのストライキとか、1894年のプルマンの紛争で、労働者たちは、お金持ちの雇用主に対して、より良い給料とか労働条件を求めてた。20世紀後半の象徴的なストライキは、1982年のアメリカの航空管制官のストライキとか、1984年から85年のイギリスの炭鉱労働者のストライキだった。この最近の出来事を、資本と労働の戦いとして見るのは、せいぜいかなり単純化しすぎてるよね。どちらの場合も、雇用主は国の機関だったんだよね。解雇された管制官とか敗北した炭鉱労働者は、エゴの強い組合指導者の政治的な野心の犠牲者だったんだよね。彼らは、ほぼ全ての民主的に選ばれた政府、ましてやレーガンとかサッチャーの政権が、抵抗せざるを得ないような挑戦を仕掛けたんだよね。
20世紀の終わりまで、政党は、資本とか労働っていう、代表する経済的な利害によって定義されてた。で、資本家は数が少ないから、民主主義国家では、保守的な勢力、つまり宗教団体とか軍部、伝統主義者とかリバタリアンと協力しないと成功できなかったんだよね。彼らは、集団主義とか社会的な激変も恐れてたから。資本と労働の対立が、ビジネスを説明するものとして当てはまらなくなって、ソ連の崩壊で共産主義の国際的な推進が終わったことで、そういう政党の歴史的な根拠が崩壊したんだよね。グローバルノース全体で、これが、ポピュリズムとかアイデンティティ政治、文化戦争への道を開いて、それが21世紀の政治の特徴になってるんだよね。
現代のビジネスは、生産機能じゃなくて、能力の組み合わせによって定義されるんだよね。21世紀の企業の成功は、ほとんど全て、そこで働いてる人たちの多様な能力から生まれてる。労働者こそが生産手段なんだよね。これって、まだ資本主義なのかな?それとも、ついに社会主義が到来したのかな?それは、学生のエッセイには良い質問かもしれないけど、実際のビジネスにはほとんど関係ないんだよね。そういう言葉は、ビジネス組織とか経済システムを分析する上で、あまり説明力を持たなくなっちゃったんだよね。
組織論とか心理学、人類学、その他の社会科学からの洞察なしに、企業理論を構築することは不可能だよね。契約の集合体の中でのプリンシパル=エージェントモデルに重点を置くと、組織論とか経営史、企業戦略によって提起される多くの問題から注意がそらされちゃう。企業を能力の集合体として捉えることに焦点を当てると、ビジネス組織とかビジネスパーソンの、地域を超えて、時代を超えた並外れた多様性を理解するための、違った、より啓発的な視点が生まれるんだよね。
この本の中核となる考え方、つまり集団的知性とか、ラジカルな不確実性、規律ある多元主義、関係的契約、仲介的なヒエラルキーは、以前の著者によって広範囲に発展し議論されてきたんだけど、その研究の多くは、ビジネス組織の文脈の外にあったんだよね。この本の議論との関連性は、現代の世界では、商業的な関係は単に手段的で取引的なものではなく、社会的であり、より広いコミュニティとかチームの枠組みの中に組み込まれてると信じてるからなんだよね。その取引的な見方は、間違ってるし、魅力的でもなかった。この本は、ビジネスとかその関係者がどのように繁栄するかについて、より良い説明ができれば、ビジネスのより良い理解だけでなく、ビジネスのより良い行動への道も示せるんじゃないかっていう希望を持って書かれてるんだよね。次の本では、その理解がビジネス政策とか公共政策に与える影響について説明したいと思ってる。
ディケンズの言葉を借りれば、「別れの痛みは再会の喜びに比べれば何でもない」ってことだよね。