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えーっと、今回は第47章についてお話していこうかな。今回のタイトルは「曖昧さこそが機能、バグではない」っていう、ちょっと面白いタイトルですよね。
冒頭で、アダム・スミス(実際はジョージ・グッドマンっていう金融ジャーナリストなんだけど)の言葉が引用されてるんですね。「懐疑の街から道を行くと、曖昧さの谷を通らなければならなかった」と。うーん、深い。
そして、ディケンズの『二都物語』の有名な書き出し。「それは最高の時代であり、最悪の時代であった。それは知恵の時代であり、愚かさの時代であった…」っていう、あの部分ですね。あれって本当に、言葉の力強さみたいなものを感じさせますよね。時代背景としては、フランス革命とアメリカ革命、そして産業革命の時代。トーマス・ペインが『人間の権利』を書いて、アダム・スミスが『国富論』を書いた時代。若いワーズワースにとっては、「生きていて至福、若くして天国」みたいな時代だったと。
19世紀の作家、特にカール・マルクスが、その後のビジネス環境を分析したんだけど、実はチャールズ・ダーウィンの進化論が、もっと深い洞察を与えてるんじゃないかっていう話が出てくるんですね。設計者なき設計とか、調整者なき調整っていう概念は、アダム・スミスの時代のスコットランド啓蒙主義にもすでにあったみたいで。アダム・ファーガソンが「国家は人間の行動の結果として成立するが、人間の設計の実行ではない」って書いてるし、スミスの「見えざる手」も、そういう意味で解釈されることが多いですよね。適応と選択、つまり進化の基本的なメカニズムこそが、集合知を発達させ、企業が顧客のニーズに合った製品やビジネスプロセスを見つける手段なんだ、と。実験の自由を認めつつ、失敗した実験はすぐに終わらせるっていう「規律ある多元主義」が、経済発展には不可欠だって言うんです。
この規律ある多元主義って、宗教改革にも見られるんですよね。カトリックの厳格な階層構造じゃなくて、プロテスタントでは地方分権的な権威が重視された。長老派教会では、地域の賢明な人々が牧師を選んだり、信徒は自分で聖書を読むことが奨励されて、識字率が向上した。結果として、教育水準が上がり、ビジネスや科学の発展に貢献する人材が育った。クエーカー教徒みたいな宗派も、教義に対して懐疑的だったし。多元主義、つまり思考の自由と失敗の機会が奨励されたんですね。ガリレオみたいな人が、異端審問を恐れる必要がなくなったっていう。そこから科学革命と啓蒙思想が始まったと。
そして、科学革命から生まれた集合知と集合的知性が、産業革命を可能にした。規律ある多元主義を通じて、経済と社会は発展していったんです。多元主義っていうのは、新しいアイデアを試したり、古いやり方を新しい方法で試したり、新しい製品を宣伝したりする自由のこと。言論の自由と活発な研究コミュニティがある社会では、新しい知識に対する主張が溢れる。競争的なビジネス環境も、新しいビジネスプロセスや製品・サービスの提供を促進する。規律ある多元主義を特徴とする経済は、これらの斬新なアイデアを歓迎するけど、追求する価値のないものは淘汰する。こうして、人間は根本的な不確実性の中を航海し、そこから繁栄していくって言うんですね。
経済の発展は、自然淘汰に似た進化のプロセスだって。ダーウィンの進化論は、誰の設計能力も超える複雑なシステムが構築される可能性があるっていう、現代企業の本質に対する深い洞察を与えてくれる。ただ、経済発展の歴史を見ると、突然変異と選択の両方において、より慎重な考慮がなされている。遺伝子組み換えはランダムだけど、ビジネスパーソンは新しい製品を発売したり、新しいビジネスプロセスを導入したりするとき、成功すると信じているからそうする。(必ずしも正しくないかもしれないけど)。重要なのは、きちんと運営されているビジネスや経済システムでは、失敗した突然変異は自然死を待つのではなく、殺されるってこと。遺伝的、文化的、商業的な複数の進化メカニズムが、現代社会の発展に不可欠だったんですね。
この規律ある多元主義こそが、市場経済の天才的なところ。多元主義と規律、両方が重要。国家主導の経済では、どちらも達成するのが難しい。既存の組織構造は、実験に抵抗する。イギリスは30年後に国立公文書館を開放するけど、筆者が1970年代に執筆を支援した税制に関する報告書について、内国歳入庁(当時)が内部評価した文書を見つけたらしい。「実用的なものは新しくなく、新しいものは実用的ではない」。官僚的な考え方をこれほど雄弁に表現した言葉はない。ジェームズ・ワット、トーマス・エジソン、ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブズに、このメッセージを伝える権限を持つ人がいなかったのは幸運だった、と。
中央集権的な組織が新しいアプローチを採用するとき、大規模に展開しすぎる傾向がある。政府機関は失敗をなかなか認めず、隠蔽したり、失敗を成功だと宣言したりすることさえある。それは大企業にも当てはまるから、破壊的なイノベーションは外部から生まれることが多いんですね。
で、この本は、アリストテレスの徳倫理の精神で書かれていて、その中で「エウダイモニア」、つまり繁栄が、人間の存在の目標だとされている。エウダイモニアは、よく生きられた人生の結果であり、富だけでなく、他者との関係、つまり尊敬、友情、愛情の産物。古代アテネのポリスの期待に応えるように、コミュニティの生活に貢献することも必要。エウダイモニアには多くの要素があり、その達成には、すべての要素間のバランスを維持する必要がある。アリストテレスとその現代の支持者たちの解説では、このバランスの必要性は、しばしば「中庸の教え」と呼ばれていると。
ビジネス組織も同じように見なすのが適切というか、必要だって筆者は考えてる。企業の活動の適切な目標は、従業員、投資家、サプライヤー、顧客、事業を展開するコミュニティ、そして企業自体を含む、企業の複数のステークホルダーの繁栄。企業が繁栄するためには、それが活動する社会の繁栄に貢献しなければならない。「中庸の教え」は、個人にとってと同じくらい、ビジネス組織にとっても重要なのだと。繁栄している企業の取締役や幹部は、すべてのステークホルダーのニーズを満たし、発言の機会を与え、ステークホルダーの離脱による悪影響からビジネスを保護する、仲介的な階層構造の中で活動する。
ただ、アリストテレスは、ビジネスに対して同じような見方をしていなかった。「最もよく統治された国家では、市民は機械工や商人の生活を送ってはならない。そのような生活は卑劣で、美徳に敵対的だから」って書いてる。アリストテレスの世界では、複雑な製品でも、熟練した職人が一人で作ることができた。アリストテレスは、現代の分業やサプライチェーンの複雑さ、つまり産業化を想像できなかった。しかし、人間の本質は、技術や法的な形式ほどには変化していないのかもしれないし、アリストテレスは現代の商業生活を送る人々の軽蔑すべき倫理や行動を容易に想像できたかもしれない、と。
そして、ディケンズの言葉は、フランス革命の複雑な曖昧さと、それに対するイギリスとアメリカの反応を捉えていた。ディケンズもワーズワースも、重大な出来事を取り巻く不確実性が生み出す興奮と不安を表現した。ワーズワースはさらにこう続けている。「柔和で気高い人々は、心の望みを叶える助け手と、望むように加工できる素材をすぐに見つけ、彼らのスキルを行使するように求められた」と。
曖昧さを許容できないとか、不確実性がもたらす洞察や機会を理解できない、几帳面な編集者の姿を想像すると、誰もが笑ってしまうだろう、と。
筆者は、ソリテスのパラドックスを知るまでに、経済学を勉強しすぎていた。「砂の山からいくつの砂粒を取り除けば、それは砂の山ではなくなるのか?」って古代ギリシャの哲学者が問いかけた問題ですね。2000年経っても、まだ答えは出ていない。987,216粒が砂山の最小サイズだっていう結論は出ないだろう。仮に「山」を正確に定義したとしても、987,215粒しか含まれていない砂の山のことを記述するために、別の言葉が必要になるだろうし、ソリテスのパラドックスは、今度は「山」の定義をめぐる問題になるだろう、と。全米経済研究所は、「景気後退」を定義する権限を主張し、米国経済が景気後退にあるかどうかを判断する委員会を維持している。一部の経済学者は、「景気後退」を2四半期連続のGDPマイナス成長だと宣言している。そして、筆者がこの本を書いている時点では、経済界では景気後退があるかどうか、または今後あるかどうかについて、憶測が絶えない。
でも、ビジネスパーソンや政策立案者が知りたいのは、その答えではなく、彼らの意思決定にもっと適切だけど、より具体的な質問。「一体何が起こっているのか?」っていうこと。陳腐に聞こえるかもしれないけど、私たちは根本的な不確実性の世界に生きていて、あらゆる状況、あらゆる意思決定の瞬間は、唯一無二のもの。だからこそ、「一体何が起こっているのか?」という問いを、何度も何度も提起する必要があるんですね。
今日では、「曖昧さ」っていうテーマに関する哲学的な文献が多数存在する。曖昧さっていうのは、物語の描写には役立つけど、正確な定義には適さない言葉を、どうしても使わざるを得ないこと。今日のデジタル化された世界で言うと、曖昧さっていうのは、バグではなくて機能。現実の避けられない複雑さを反映しているのであって、現実を記述する私たちの能力の欠如を反映しているのではない。ディケンズを無能だと非難できるのは、漫画のキャラクターくらいだろう。彼は19世紀のイギリス社会の最高の記録者なのだから。
現代デジタル世界の設計者たちは、すぐにファジー論理に遭遇した。デジタル化には本質的に二元的な側面がある。スイッチはオンかオフかのどちらか。でも、真理値が0と1の間にある場合は、「ファジー論理」が必要になる。たとえば、コンピューターが「これは山か?」って判断したり、乾燥機のセンサーが「洗濯物は乾いているか?」って尋ねたりする場合。「乾いた」タオルを誰もが欲しいけど、電子乾燥機のメーカーを含め、誰もが「乾きすぎた」タオルは使い心地が悪いことを知っている。
この本を書いているうちに、議論が明確化されるどころか、明確な区別が存在しないところに、誤った二項対立を押し付けることで、議論が曇らされることが多いことに、何度も気づかされた。山とそうでないもの、乾いているものと濡れているものとの間に明確な区別がないように、市場と階層、公共部門と民間部門、営利組織と非営利組織の間にも明確な区別はない。資本と労働の間にも、決定的な区別はない。所有権の概念は複雑で、「所有権の証」は複数の主体に分割されている場合があるので、「所有者」を特定するのが難しい場合もある。
二項対立は、弁護士と経済学者の両方にとって自然な通貨。なぜなら、それぞれ異なる理由だけど、法律と数学はどちらも正確さを要求するから。スチュワート・マコーリーは、関係契約の概念を共同で作成したイアン・マクニールに、次のような比喩を当てはめた。「古典的な契約法は、電気のスイッチを想定している。ライトはオンかオフのどちらか。当事者は契約に合意したか、そうでないかのどちらか。しかし、長期的な継続的な関係では、状況は調光器に似ていることが多い。電球に送られる電力が大きくなるにつれて、光が増えていく。いつライトが点灯したかを言うのは難しい。オンとオフは役に立たない言葉だ」と。
現実は、オンとオフのような正確さを提供してくれるとは限らない。ノーベル賞受賞者で、新古典派内生的成長理論のポール・ローマーは、経済学者が記号表記を多用して、厳密さの誤った印象を与えていることを批判して、「数学性」っていう言葉を作った。「それは、自然言語の記述と形式言語の記述の間、理論的な内容と経験的な内容の間で、多くの抜け穴を残している」って彼は言った。
二項分類は、別の問題も提起する。経済学者は、証券市場における「市場効率」や、商品・サービス市場における「競争可能性」のような概念を採用してきたけど、「ほぼ効率的」とか「非常に競争的」が、「完全に効率的」とか「完全に競争的」とは、その意味合いが大きく異なることを十分に認識していなかった。
市場、階層、公共、民間、資本、労働、所有権といった概念は、正確な定義が難しいとしても、有用であり、不可欠だ。ディケンズの仮説的な編集者のように、私たちが観察するものをどちらかのカテゴリーに分類することを主張するのは、理解を深めるどころか、損なう。ディケンズがそうしたように、豊かで曖昧な現実を記述する方が良い。1859年に執筆したディケンズは、フランス革命から70年後、小説の舞台となった時代は、二極化、混乱、根本的な不確実性において、決して唯一無二のものではなかった、と結論づけた。「要するに、その時代は現代と非常によく似ていて、騒々しい権威者の中には、良くも悪くも、最高級の比較で受け入れられることを主張する者がいた」と彼は書いた。私たちも今日、同じことを言えるかもしれないですね。ふう、ちょっと長くなっちゃったけど、今回はこの辺で終わりにしようかな。