Chapter Content
ええと、なんだっけ、今回はね、「資本を求めて」っていうテーマでお話ししようかなと思ってます。
まず、ですね、ゼネラルモーターズのCEOだったメアリー・バーラさんが、「企業にとって最も重要な資産は人である」って言ったんですよね。まあ、確かにそうだよなあって思いますよね、うん。
で、ネイティブアメリカンのシアトル酋長の言葉として伝えられてる、「空や大地の温もりをどうやって売買できるのか?そんな考えは私たちには理解できない。もし私たちが空気の新鮮さや水の輝きを所有していないなら、どうしてあなたがそれらを私たちから買うことができるのか?」っていうのがあるんですけど、これ、実はね、シアトル酋長が言ったんじゃなくて、テッド・ペリーっていう人が映画の脚本のために書いたものらしいんですよ。で、アル・ゴアさんが広めたっていうね。なんか、歴史って面白いですよね。
資本主義の言葉って、もう本当に広範囲に浸透してて、最近の社会の変化を表すために、新しいタイプの「資本」がどんどん作られてるんですよね。無形資本とか、人的資本とか、社会資本、自然資本、さらには監視資本とかね。何かを評価して、それを数えるためには、何らかの形で資本としてラベル付けする必要があるみたいになってる。マルクスが生きてたら、これを見てどう思うんだろう?って、ちょっと気になりますよね。
で、無形資産の話なんですけど、アップルとかアマゾンみたいな会社って、市場の時価総額が、有形資産をはるかに超えてるじゃないですか。その理由の一つとして、「無形資産」の規模が大きいっていう説明がよくされるんですけど、具体的にどんな無形資産なのかを説明できないと、結局、何も説明になってないんですよね。
無形資産の代表的なものとしては、研究開発とブランド価値が挙げられますよね。研究開発って聞くと、白衣を着た科学者が研究所で、たまにすごい発見をするイメージがあるけど、製薬とか一部のエレクトロニクス分野以外は、製品やプロセスを少しずつ改良していくっていうのがほとんどなんですよね。
もちろん、研究開発が重要じゃないって言ってるわけじゃなくて、経済史家のブラッド・デロングさんが、研究室を過去2世紀の経済成長を牽引した3つの要因の一つとして挙げてるくらいですから。でも、アップルとかアマゾンみたいな会社は、最先端の技術を持ってるけど、科学的な大発見よりも、既によく知られてるアイデアを組み合わせたり、再構築したりすることに強みがあるんですよね。今の時代、会社のどこからどこまでが研究開発部門で、その製品の開発にいくらかかったのか、明確に線引きするのはほぼ不可能なんですよ。
政府が研究開発費に税制上の優遇措置を与えてるから、企業は専門のコンサルタントを使って、申請の枠組みを作ってもらったりするわけですよね。ゼネラルモーターズの生産ラインへの設備投資と、その後に製造された自動車との間には、直接的で定量化可能なつながりがあったけど、今の時代、開発費と将来の収益とのつながりは、不確かで曖昧になってるんですよ。アマゾンとかアップルの市場価値のうち、過去の開発費にどれだけ起因するのか?って聞かれても、「全部」としか答えられないですよね。
で、次に人的資本の話なんですけど、経営者がよく言う、「人材は最大の資産である」っていう言葉がありますよね。これは、企業内で培われた集団的な知性の商業的価値を指してるんだと思います。個人やチームが問題を解決したり、新しい製品を開発したり、サプライヤーとの信頼関係を築いたり、顧客の信頼を得たりする能力が、企業の競争力の源泉になってるんですよね。
「人材は最大の資産である」っていう言葉は、西インド諸島やアメリカ連合国の奴隷所有者にとっては文字通り真実だったわけですよね。だから、20世紀に入るまで、「人的資本」っていう言葉が再び使われるようになるまで時間がかかったんだと思います。
アダム・スミスは、「人的資本」っていう言葉を使わずに、その概念を説明してました。ゲーリー・ベッカーが1960年代に広めたんですよね。スミスは、奴隷制度は非道徳的で非効率的だと考えてたんです。他者を支配したいっていう、人間が持ってる普遍的な欲求の産物だってね。
「人的資本」と物理的な資本の間には、いくつかの類似点があります。人的資本には、教育とか、見習い制度、OJTへの投資が必要ですよね。適切に管理されていれば、その結果得られた知識やスキルは、長年にわたって収益をもたらすけど、維持とか減価償却も必要になる。
でも、人的資本が他の資本と違う点もたくさんあるんですよね。最も根本的なのは、人的資本はサービスとしてレンタルできるけど、売買はできないってこと。教育は、経済的な利益だけでなく、社会的、文化的な利益ももたらしますし、それは教育を受ける人だけじゃないんですよね。教育の最も重要な機能は、受益者が文明的な社会と民主的な政治の一員となる準備をすることなんです。
人的資本と言えば、シカゴ大学の経済学者、ゲーリー・ベッカーの名前がよく知られてますよね。彼は1992年にノーベル経済学賞を受賞したんです。「ミクロ経済分析の領域を、市場外の行動を含む、人間の行動や相互作用の幅広い範囲に拡大した」っていう理由でね。彼の研究の中には、家族生活とか犯罪と刑罰みたいに、ちょっと馬鹿げてるものもあるけど、洞察に満ちたものもあるんですよね。教育や訓練の経済的な側面や価値を定量的に研究することには、意味があると思います。
学生ローンを組んで勉強しようと思ってる人は、高等教育への投資に対するリターンに関する証拠をよく調べた方がいいですよ。高等教育が、知識を獲得する手段としてではなく、コースへの入学に必要な能力を示すための手段として機能してるっていう研究は、非常に示唆に富んでますよね。
企業内で個人によって開発された人的資本は、学校教育によって得られる人的資本の単なる予備段階に過ぎないんですよね。その中には、見習い期間を通して得られる一般的な知識とか知性もあれば、特定の企業に特有の能力もある。マクドナルドで働く人は、マニュアルの内容を学ぶし、マッキンゼーで働く人は、パワーポイントのテンプレートを学ぶわけですよね。労働者は、企業の能力を定義する集団的な知性の開発に参加し、貢献するんです。その一方で、ゼネラルモーターズでは、ロボットが組み立てラインの仕事を引き継いでるんですよね。
次に、社会資本の話なんですけど、「社会資本」っていう言葉は、ハーバード大学の政治学者、ロバート・パットナムと密接に関連付けられてますよね。彼は、社会資本を「参加者が共通の目的をより効果的に追求するために、共に協力することを可能にする、社会生活の特徴、つまりネットワーク、規範、信頼」と定義してるんです。企業の能力は、参加者が共通の目的をより効果的に追求するために、共に協力することを可能にする、職場環境の特徴(ネットワーク、規範、信頼)の反映なんですよね。
エドマンド・バークっていう人が、「社会における小さな集団に愛着を持ち、所属する小さな部隊を愛することは、公共への愛情の最初の原則(いわば、その萌芽)である。それは、国や人類への愛へと進む一連の連鎖の最初のつながりである」って言ってるんですけど、まさにその通りですよね。
パットナムの研究は、イタリアの地方政府の質の地域差に焦点を当てて、ネットワーク、規範、信頼の重要性を強調したんです。イタリアは、産業クラスターの生産性を強く示してますよね。社会資本の差は、各地域の経済パフォーマンスの差と関連付けられてるんです。
パットナムの社会資本の概念は、政治理論と社会実践の進化に対する最も雄弁な反論の一つだったんですよね。彼が、アメリカにおけるボランティア活動への参加が減少してるっていう主張は、社会資本っていう概念を、発展途上の議論の中心に置いたんです。そして、「ボウリング・アローン」っていう印象的なフレーズは、彼の分析に注目を集めましたよね。
パットナムの研究は重要で、彼の考え方はこの本のテーマと一貫性があると思います。でも、「社会資本」には、通常「資本」っていう言葉に関連付けられる特徴がほとんどないんですよね。誰も所有してないし(「社会資本家」はいない)、他の種類の資本と交換することもできないし、売買することもできない。使用しても価値が減ることはないし、むしろ逆の場合もある。そして、測定しようとしても、うまくいかないんですよね。
最後に、自然資本の話なんですけど、経済協力開発機構(OECD)は、自然資本を「経済生産のための天然資源の投入と環境サービスの提供という役割における天然資産」と定義してるんですよね。
イギリスの国立統計局(ONS)は、イギリスの自然資本の総額を1.8兆ポンドと算定してるんです。これは、有形資本の2.7兆ポンドと比較できる数字らしいんですけどね。この「自然資本」の最大の構成要素は、イギリスの魅力的な田園地帯で、レクリエーションや観光の機会を提供してることなんです。
でも、レクリエーションの価値は、それから利益を得るための費用で評価されるんです。これって、ちょっと考えると変ですよね。私がよく、気分転換にリージェンツパークを散歩するんですけど、歩いて行くから、無料なので、レクリエーションの価値はゼロになるんですよ。もしタクシーで行ったら、タクシー代が国の自然資本に貢献することになるんです。
2023年には、ノーサンバーランドにある象徴的な木が、故意に切り倒されたんです。その木の損失額は622,191ポンドと評価され、2000年前のハドリアヌスの長城への損害額は1,144ポンドと評価されたらしいですよ。
シカゴ大学の経済学者、フランク・ナイトの言葉を思い出すといいかもしれませんね。「ケルビン卿がよく引用した『測定できない知識は乏しく、不満足である』という言葉は、精神科学や社会科学に適用すると、誤解を招き、有害である。これは、これらの科学が物理科学の意味での科学ではなく、その本質と機能を放棄せずに、物理科学になろうとすることはできないということの別の言い方である。具体的に定量的な経済学を主張することは、経済的な意味と重要性が不確実で疑わしい、物理的な大きさの統計を使用することを意味する。(「小麦」でさえ、経済的な用語で測定された場合にのみ、ほぼ均質になる。)そして、同様のことが他の社会科学にも当てはまるだろう。この分野では、ケルビンの格言は、実際には『測定できないなら、とにかく測定しろ!』という意味になることが多い。」
教育とか、信頼とか、環境とか、重要だと思ってることに注目を集めたい人が、それを「資本」と呼んでるのを見ると、マルクス主義の影響が、マルクス主義との関連を避けたい人たちにも及んでるんだなって思いますよね。「資本」っていう言葉は、どうしても必要な言葉だけど、もっと慎重に使うべきだと思います。