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えー、ちょっと僕のことについて知っておいてほしいことがいくつかあるんだよね。まず、僕はね、イーストLAのど真ん中で生まれたんだ。血筋は、まあ、5/8がメキシコ系、1/4がキューバとスペインの混血、で、1/8がオーストリア系っていう、ちょっと変わった感じなんだけどね。で、メキシコ料理が大好きなんだ。それから、僕はちょっと反骨精神が強いところがあるかな。小さい頃から、自分の道は自分で決めるって感じで生きてきたんだよね。時々、わざと人に逆らったりもするし。
それと、最後に、僕はとにかく好奇心旺盛なんだ。もう、先生たちを質問攻めにして困らせてたぐらいでさ。中学校の時、数学の先生が僕のこと大嫌いだったんだよ。授業をしょっちゅう中断するからね。で、ついに先生も我慢の限界で、僕のことを「マイケル・ジリオン」って呼び始めたんだ。「ジリオン」って、ものすごい数の質問をするって意味なんだけどね。でも、僕は全然気にしなかったよ。質問し続けたんだ。
ある意味、僕はね、フランケンシュタイン博士にすごく共感するんだよね。もちろん、死体をつなぎ合わせて生き返らせるって意味じゃなくてね(笑)。僕が共感するのは、彼が宇宙の仕組みを知りたいっていう情熱なんだ。
1931年のカール・レムル・ジュニア監督の映画ね、あれ、僕の一番好きなフランケンシュタインの映画なんだけど、その中でね、反逆者の科学者であるフランケンシュタイン博士を演じているのが、コリン・クライヴっていう、まあ、かっこいいイギリス人俳優なんだよね。彼が怪物を創造した直後、厳格な年配のワルドマン博士に叱責されるシーンがあるんだ。そのワルドマン博士を演じているのが、エドワード・ヴァン・スローンっていう俳優なんだけど。このシーンがね、科学者の心の奥底を完璧に捉えていると思うんだよね。
ワルドマン博士が言うんだ。「お前の作った怪物は厳重に監視すべきだ! 必ず危険な存在になるぞ」って。
それに対してフランケンシュタイン博士が答える。「危険だと? かわいそうなワルドマン。危険なことをしたいと思ったことはないのか? 誰も未知の領域を探求しなかったら、我々はどこにいる? 雲や星の向こう側を見たいと思ったことはないのか? 木々が芽を出す原因、暗闇が光に変わる原因を知りたいと思ったことはないのか? そんなことを言えば、人々は君を狂人扱いするだろう。だが、もし私がたった一つでもこれらのことを発見できたら、例えば、永遠とは何か、たとえ狂人扱いされても構わない」ってね。
小学校2年生の頃から、僕は科学者になることを夢見ていたんだ。夜、眠っているとね、白衣を着て、実験器具でいっぱいの研究室で働いて、ノーベル賞を受賞する自分の姿を見るんだ。何の賞だったかは覚えてないんだけどね。とにかく、僕はすごく幸せだったんだ。
その夢を追いかけて、僕はゲットーから抜け出してUCLAに入学して、物理学と数学の学士号を取得したんだ。その後、いくつかの有名な大学の物理学の大学院に応募して、合格したんだよね。コーネル大学もその一つだった。
進路を決める前に、父と僕はね、ニューヨーク州北部にあるコーネル大学のキャンパスを見に行くことにしたんだ。3月下旬だったんだけど、木々には葉が全然なくてね。まるで火事でもあったのかと思ったよ。南カリフォルニアで育った僕たちには、そんな光景は初めてだったんだよね。
物理学科の教授たちと会って、キャンパス内にある世界レベルの原子加速器、ウィルソン・シンクロトロン研究所を見学したんだ。次の訪問予定はプリンストン大学だったんだけど、父に「もういいよ」って言ったんだ。コーネル大学こそ僕にぴったりの学校だと確信したからね。
帰る日の朝、僕の論文指導教官になる予定のデビッド・カッセルっていう物理学者から電話がかかってきたんだ。
「おはよう!」って、彼は明るい声で言った。「もう外を見たかい?」
「まだです」って答えて、急いでホテルの部屋の大きな窓のブラインドを開けたんだ。すると、一面雪景色が広がっていた。
「イサカへようこそ!」って、カッセル教授は歌うように言ったよ。
ホテルをチェックアウトした後、父と僕は我慢できずに外に出て、まるで子供みたいに雪遊びを始めたんだ。ホテルのフロントの女性が信じられないって顔で僕たちを見ていたよ。無理もないよね。3月下旬には、イサカの住民はもう雪にうんざりしている頃だからさ。
数ヶ月後、一人でコーネル大学に戻って研究を始めた時、まるで宝くじに当たったような気分だったよ。ゲットー育ちの、なんでもない僕が、本当に物理学者になるんだからね。信じられない気持ちだったよ。
それまでとは全く違う、新しい人生の始まりだったんだ。
僕は厳格なスペイン語を話すペンテコステ派の家庭で育ったんだ。父も祖父も牧師だったんだよね。特に、父方の祖父はね、僕と同名なんだけど、40年間、CLADICっていう、アメリカ、メキシコ、中米の教会で構成される、アメリカで最も古い独立系のスペイン語ペンテコステ派組織の会長を務めていたんだ。信者たちからとても慕われていたんだよね。
子供の頃、僕の家族は毎日教会に通っていて、礼拝は長くて、騒々しくて、熱狂的なものだった。母を含めた会衆全員が飛び跳ねて、恍惚とした様子で異言を話していたのを覚えているよ。CLADICの信者は、ダンスをしたり、テレビを見たり、その他、精神的、肉体的、霊的に不健康だと考えられる多くのことを禁じられていたんだ。
聖書には、祝福は代々受け継がれる神聖な遺産であると書かれている。だから、僕を知る人みんな、僕が牧師になると思ってたんだ。ひょっとしたら、いつか祖父の後を継いでCLADICの会長になるかもしれない、ってね。
でも、僕は教会とか、僕が古代の超自然的な信念だと考えていたものじゃなくて、科学に夢中だったんだ。厳格なペンテコステ派の家庭で育ったけど、僕の心、注意、好奇心は、全く別のところにあったんだ。僕は数字と論理、自然現象、科学的な方法に魅了されたんだ。そして、少しずつ、科学的な世界観を吸収して、それが僕自身のものになっていったんだよね。UCLAを卒業する頃には、僕は心身ともに科学と無神論の世界に属していて、それらは僕にとって表裏一体のもののように思えたんだ。
だから、LAからコーネル大学へ出発する時、家族や友人との別れは寂しかったけど、本心では受け入れることのできなかった宗教から解放されることができて、嬉しかったんだ。牧師になることへのプレッシャーからも逃れられて、本当にホッとしたんだよね。牧師になることには全く興味がなかったからね。
要するに、解放されたんだ!
イサカに到着して、誰も知り合いがいないことに気づいた時、それはそれでいいと思ったんだ。むしろ、新しい人生が始まることを強調しているようで、嬉しかったんだよね。僕の人生。僕の夢。僕が達成するために一生懸命努力してきた夢。科学の修道士になるっていう夢だ。
情熱とカフェインに後押しされて、僕は昼も夜も授業に出たり、フランケンシュタイン博士みたいに薄暗い研究室にこもったりして過ごしたんだ。睡眠時間はせいぜい1日に3時間程度で、たいてい午前3時から6時までだったかな。
僕の研究室は、コーネル大学の高エネルギー物理学の建物、原子力研究所(LNS)の地下にあったんだ。その広々とした、窓のない男の隠れ家の中では、昼か夜かもわからなかったし、気にしていなかった。ほとんど食事も摂らなかったし、摂るとしても、LNSの周辺にある自動販売機で買ったものがほとんどだった。正直に言うと、僕は痩せていて、だらしなくて、熱心なオタクで、ぴったりしたコーデュロイのジーンズをはいて、ぼさぼさの茶色の巻き毛を振り乱していたんだ。
社交的な生活は全くなかったし、話せる友達もいなかったし、家族は4000キロ以上も離れた場所にいた。でも、僕は完璧に満足していたんだ。僕が気にかけていたこと、考えていたこと、それは科学だけだった。
最初、21歳の大学院生として、僕の好奇心は、宇宙が何でできているのかっていうことに集中していたんだ。宇宙の最も基本的な要素は何なのか?
考えてみたんだ。デジタル写真を拡大すると、ピクセルが見えるでしょ? じゃあ、宇宙を拡大したら、電子、陽子、中性子、クォーク、グルーオンとかを超えて、さらに拡大し続けたら、最終的に何が見えるんだろう? 物質のピクセル? エネルギーのピクセル? 時空のピクセル? 僕はそれを突き止めたいと強く思ったんだ。
でもある日、プリンストンの伝説的なP.J.E.ピーブルズが率いる観測天文学者のグループが、銀河はこれまで考えられていたように宇宙にランダムに散らばっているのではなく、壮大な3Dアートのようにパターンを形成していると発表したんだ。
このパターンはどこから来たんだろう? 何を意味するんだろう? ただの偶然?
突然、それこそが僕が答えたい深い疑問になったんだ。でも、それは宇宙で一番小さいピクセルに焦点を当てることから、宇宙で一番大きい銀河に焦点を当てることに切り替えることを意味していたんだ。
大学院で専攻を変えるのは簡単じゃないんだけど、僕は気にしなかった。自分の道を突き進む決意をしていたんだ。コーネル大学の伝説的な理論物理学者であるハンス・ベーテの許可が必要だと言われたので、彼に会いに行ったんだ。
1940年代、ベーテは世界初の原子爆弾を開発したマンハッタン計画の理論部門を率いたんだ。1960年代には、太陽が輝く理由を説明したことでノーベル賞を受賞している。
ベーテは昔ながらの、無駄のないドイツ人の頑固者で、研究室はLNSの最上階にあった。大学院生たちは彼のことを恐れていたんだ。そして、彼に会うためには、彼の有能な秘書であるベルマ・レイを突破しなければならなかった。僕らは彼女のことも恐れていたんだ。
ベーテが僕の運命を決めるのに時間はかからなかった。彼は重いドイツ語訛りで、現代物理学で最も難しいと言われる一般相対性理論を2学期履修する必要があると言ったんだ。もし成績が良ければ、専攻を変えてもいい。そうでなければ……ピクセルにしがみつくしかない、とね。
一般相対性理論の授業は、コーネル大学が最近カリフォルニア工科大学から引き抜いた、優秀な若い物理学者、ソール・テウコルスキーが教えていたんだ。授業は大変だったけど、なんとか合格して、ベーテの許可を得て、銀河の研究を始めたんだ。
むかしむかし、はるかかなたの銀河で…
すぐに、銀河は巨大なメリーゴーラウンドのようにゆっくりと回転していることを知ったんだ。ビリアル定理っていう科学法則によれば、銀河の質量が大きいほど、回転速度は速くなるんだ。
また、銀河はビリアル定理に反して、本来あるべき速度よりもはるかに速く回転していることも知ったんだ。まるで、見かけよりもはるかに質量が大きいみたいで、異常な速度で回転させる何らかの目に見えない物質で膨らんでいるかのようだったんだ。僕の天文学の教授たちは、この謎を質量欠損問題と呼んでいたんだ。
今日、僕たちはこの仮説上の欠損質量を暗黒物質と呼んでいる。僕たちが知っているわずかな情報に基づくと、それは全く新しい種類の力によって支配される、全く新しい目に見えない物質である可能性があると推測されている。でも正直なところ、それが何なのか、あるいは本当に存在するのかさえわからないんだ。
最近では、宇宙のもう一つの奇妙な点、つまり暗黒エネルギーも発見したんだ。僕たちが見る限り(ごくわずかだけど)、それは宇宙を加速的に膨張させる反発力のように振る舞うんだ。
そしてね、驚くことに、暗黒物質と暗黒エネルギーを合わせると、宇宙全体の95%を占めているように見えるんだ。そう、科学者たちは今、宇宙の95%が僕たちには見えないと信じているんだ。
質量欠損問題、そして僕たちが今暗黒物質と呼んでいるものについて最初に知った時、それは僕の心を吹き飛ばし、僕の現実を揺るがし、あらゆることに対する僕の認識に挑戦してきたんだ。(暗黒エネルギーの発見もそうだったけど、それは僕がハーバード大学で教えていた時に卒業してから起こったことなんだ。)
敬虔な科学の修道士、つまり解放された自由思想の無神論者として、僕は「見ることは信じることだ」っていう信頼できる格言に従って生きてきたんだ。実際に見ることができなくて、証明できないものは何も信じようとしなかった。
しかし、その世界観は今や時代遅れになっていたんだ。なぜなら、科学が、僕たちが見ることができるもの、存在を証明できるものは、そこにあるもののほんの一部にすぎないことを発見したからなんだ。
質量欠損問題によって、もし僕が頑固な科学的な世界観に固執したら、「見ることは信じることだ」と主張したら、宇宙にあるものの95%に対して目を閉じることになるって気づいたんだ。明らかに、僕の世界観は宇宙にとっては狭すぎたんだ。
それを拡大する必要があったんだ。見えるものや証明できるものだけでなく、暗黒物質のように見えないものや証明できないものも信じられるほど大きくならなければならなかった。さもなければ、僕は自分を科学者と正直に呼び続けることはできなかっただろうね。
夢よりもはるかに遠くへ
銀河の研究に没頭するにつれて、物理学、天文学、数学という3つの異なる分野に身を浸す必要があることにすぐに気づいたんだ。そこで僕は再び、変更の許可を願い出たんだ。
それは前例のない要求だったけど、幸運にも許可を得ることができたんだ。それは主に、僕の論文指導教官であるデビッド・カッセルの揺るぎないサポートのおかげだったんだよね。だから、最終的に3つの学科すべてにオフィスを持つことになって、素晴らしい、優秀な同僚たちに囲まれて、たくさんのことを学んだんだ。
運動理論について初めて学んだ時、とても興奮したのを覚えているよ。それは常に気体の挙動を説明するために使われてきたんだけど、僕はそれを銀河の挙動を説明するために使うことを思いついたんだ。
僕はすぐにその予感を追求し、運動理論の世界的な専門家であるリチャード・リボフの励ましと指導を受けたんだ。彼は最終的に僕の論文アドバイザーになってくれたんだよね。数年後、僕の若い人生の中で最も激しい、ノンストップの努力の末に、ついに大当たりしたんだ。僕は銀河が深宇宙で壮大な3Dパターンを形成する理由をエレガントな数学的説明で発見し、その発見を英国王立天文学会の月報に発表したんだ。この発見の意味は革命的な可能性を秘めていたので、物理学、数学、天文学の博士号を取得するために提出したんだ。
3D博士号を取得する前にクリアする必要があった最後のハードル、論文審査の日を僕は決して忘れないだろう。LNSの最上階にある小さな教室の中で、僕は3つの分野すべての教授たちを前に黒板の前に立っていたんだ。規則によると、彼らはどんなに難しい質問でも、好きなように質問することが許されていたんだ。そして案の定、彼らは僕を容赦なく攻撃してきたんだ!
審査は4時間にも及ぶ厳しいものだったけど、合格したんだ! そして、審査委員の一人一人が握手を申し出て、「おめでとう」と言ってくれた時、赤ん坊のように泣きじゃくったことを恥とは思わないよ。
僕の夢がついに実現したんだ! これ以上幸せなことは想像できなかったよ!
ハーバード大学へ向かう途中、さらに大きく、もっとエキサイティングな冒険が僕を待ち受けているとは、夢にも思わなかった。僕がよく言うように、「ケンブリッジへ向かう途中で、面白いことが起こったんだ」。
その旅行中、僕はジョージ・オーウェルの小説『1984年』に関するセミナーに参加するために、ワシントンD.C.の国立自然史博物館に立ち寄ったんだ。それは当時CBSニュースの法廷記者だったフレッド・グラハムが主催したものだった。
その後のレセプションで、僕はグラハムと一人の女性が一人で立っているのを見つけたので、自己紹介をしたんだ。グラハムは僕が科学者だと知ると、「ねえ、ひょっとしたら君は僕がプロデューサーと議論していることを解決してくれるかもしれない」みたいなことを言ったんだ。
「いいですよ」って僕は言った。「何が問題なんですか?」
「ロータンダにある巨大な振り子を知ってるかい? 僕のプロデューサーは、一度動かしたら、それは永遠に揺れ続けるって言うんだ。僕はそうは思わない」って彼は言った。「それを動かし続けるためには、時々押す必要があると思うんだ」
僕にとって、それは簡単なことだった。
「それはフーコーの振り子と呼ばれています」と僕は説明した。「そして、それを遅らせる摩擦はほとんどありません。ただ、鋼鉄製のケーブルが天井に取り付けられているところに少し摩擦があるだけです。でも、それは徐々に遅らせるのに十分なんです。だから、そう、時々押す必要があるんです」
グラハムは僕の説明に飛びついた。「すごい!」って彼は言った。「テレビに出てみませんか?」
僕は彼が冗談を言っていると思った。
「いや、本気だよ」って彼は言った。「CBSニュースは科学レポーターを探しているんだ。もしよければ、君を推薦したい。君は物事を説明するのが上手いから」
僕はケンブリッジに向かったんだけど、今起こったことをほとんど信じられなかった。僕は教師としての仕事を始めたんだけど、グラハムとの出会いから何も生まれないだろうと思い始めていたんだ。しかし、数週間後、CBSモーニングニュースが僕を新しい科学技術レポーターとして採用したんだ。
僕はニューヨークを拠点とするベテランプロデューサー、ゲイル・アイゼンと一緒に働くことになった。数年後、彼女は60 Minutesでダイアン・ソイヤーのプロデューサーになったんだ。ゲイルは辛抱強く、専門的に僕にコツを教えてくれて、すぐに僕は全国放送に定期的に出演するようになったんだ。
一方、ハーバード大学では、後に量子物理学での発見でノーベル賞を受賞した物理学者、ロイ・グラウバーの指導の下で教えることができたんだ。僕は教えることが大好きだったので(今もそうだけど)、2度もハーバード大学の優れた教育に対する権威あるダンフォース賞を受賞した時は、とても感動したよ。
CBSモーニングニュースに数年間出演した後、最初にボストンのABC系列局であるWCVBの有名なニュースディレクターであるフィル・バルボニに、そしてその後、ニューヨーク市を拠点とするABCニュース自体に引き抜かれたんだ。
最初は、僕はグッドモーニングアメリカのためだけに科学レポートをしていたんだ。しかし、すぐにナイトライン、20/20、ワールドニューストゥナイトにも出演するようになった。結局のところ、僕はバーバラ・ウォルターズ、ヒュー・ダウンズ、テッド・コッペル、ピーター・ジェニングス、ジョアン・ランデン、ダイアン・ソイヤー、オプラ・ウィンフリー、コニー・チャン、その他多くの一流のプロフェッショナルたちと仕事をする素晴らしい機会を得たんだ。
その数年間、僕はハーバード大学とABCニュースの間で時間を分割していたんだ。それは楽しくて、華やかで、しかし激動とストレスに満ちた生活だった。ある日はキャンパスで、ハーバード大学のサイエンスセンターの中で、学部生に物理を教えている。次の日には、火山の噴火を取材するために日本に飛んでいる。あるいは、石油流出事故を取材するためにアラスカに。あるいは、オゾンホールの取材のために南極に。あるいは、最初の北極横断犬ぞり遠征の取材のために北極に。あるいは、スティーブン・ホーキングにインタビューするためにイギリスに。その過程で、僕は3つのエミー賞を受賞し、南極から北米への生放送を行った最初の人、大西洋の海底に潜ってタイタニック号の残骸からレポートした最初のテレビ特派員になったんだ。
1994年、魔法のような9年間を経て、僕はしぶしぶハーバード大学を辞めて、テレビの仕事に専念することにしたんだ。学術機関と提携しなくなるのは変な感じだったけど、教室とスタジオを行き来する慌ただしい二重生活に疲れてしまったんだ。
結局、14年間、心から楽しんだ後、ABCニュースも辞めたんだ。妻と僕は家族を築くことを計画していて、ジェットセッターのニュース特派員であることは、良い父親であることと両立しないことに同意したんだ。
その後すぐに、ヒストリーチャンネルが僕を「Where Did It Come From?」っていう毎週のプライムタイムシリーズのホストとして雇ったんだ。そしてその後、ジョン・テンプルトン財団が、人間の寛大さを称える長編映画を制作するために多額の助成金を出してくれたんだ。その映画、「Little Red Wagon」は多くの賞を受賞したんだ。
控えめに言っても、僕の人生は、イーストLA出身の夢見がちなメキシコ人の少年が想像したようなものにはならなかったよ。さらに、これからわかるように、僕が今説明した予想外の出来事は、氷山の一角に過ぎなかったんだ。