Chapter Content
えー、皆さん、こんにちは。今回なんですけどね、えー、何について話そうかな…あ、そうだ!包摂について、ちょっとお話ししてみようかなと思います。
あの、1800年から1870年くらいまでの間、えー、テクノロジーとか組織の新しい発展のおかげで、こう、人類がね、マルサスの罠から抜け出して、もっと良い世界に行けるんじゃないかっていう希望が見えてきたんですよね。で、20世紀が始まった頃には、もう人類はその扉をくぐり始めて、ユートピアへの道を歩み始めた、みたいな感じだったんです。
ところがね、1914年から1949年くらいの期間っていうのは、第一次世界大戦、世界恐慌、それから第二次世界大戦…と、もう、本当に大変な時代だったわけですよ。内戦とか革命戦争もあったりして、特に中国の革命戦争は1949年まで終わらなかったんですけど、その時にね、5000万人から1億人もの人が飢饉で亡くなったっていうから、もう本当に、言葉が出ないですよね。テクノロジーとか組織っていうのが、人を解放して豊かにするはずのものだったのに、逆に人を殺したり、抑圧したりするのに使われることが多くなってしまったっていう…。
だから、もしね、この時代のイデオロギー的な問題とか、政治的な仕組みとか、成長とか分配のジレンマだけを見てたら、第二次世界大戦が終わった直後には、とてもじゃないけど楽観視なんてできなかったと思うんですよ。
でも、不思議なことに、第二次世界大戦が終わった後、世界、特にグローバルノース(先進国)っていうんですかね、は、まるで魔法みたいに、ユートピアに向かって猛ダッシュし始めたんですよ。えー、戦争のために高くなった税金っていうのが、主に富裕層に重くのしかかってたんですよね。それに、世界恐慌で富裕層の財産もかなり減ってしまって。アメリカでは、戦争のために労働者の需要がすごく高まって、賃金も上がったし、賃金格差も縮まったんですよ。特に、熟練労働者よりも、未熟練労働者の賃金が上がったっていうのは、戦時労働委員会がそう命じたっていうのもあるんですけど、工場を運営してる人たちが、とにかく仕事を終わらせるっていうプレッシャーにさらされてて、実は、本当に必要ならスキルを教えるのって、そんなに難しくないってことに気づいたっていうのも大きいんですよね。
で、第二次世界大戦が終わった後っていうのは、労働組合がどこも強かったから、経営者が自分の給料をすごく高くしたりとか、そういうことが難しくなったんですよ。経済成長は今まで以上に早かったし、失業率は低かったし、所得格差もそこまで大きくなかった…少なくとも、グローバルノースの国で生まれた白人男性にとっては、の話なんですけどね。物質的なユートピアに一番近いところにいたのが、この人たちだったっていうわけです。しかも、どんどんユートピアに近づいていったんですよね。
でもね、これってあくまで白人男性の話なんですよ。他の人たちはどうだったかっていうと…ほとんどの場所で、ほとんどの人にとって、昔よりは良くなったっていうのは、まあ、事実なんですけどね。ナイジェリアの小説家、チヌア・アチェベが、植民地化されたイボ族の祖先の立場になって書いた言葉に、「白人は確かに狂った宗教を持ってきたけど、交易所も建ててくれたし、初めてパーム油とかパーム核っていうのが高い値段で売れるようになって、たくさんのお金がウモフィアに流れ込んだ」っていうのがあるんですけどね。でも、ユートピアに近いかって言われると、全然そんなことなかったわけです。
それでもね、グローバルノースの市民権を持ってる白人男性と、そうじゃない人たちの間には大きな格差が残ってたけど、えーと、状況は少しずつ良くなっていった…少なくとも、良くはなっていったんですよ。
W・アーサー・ルイスっていう人は、1915年にイギリス領だったセントルシア島で生まれました。彼はすごく才能のある学生で、14歳で高校を卒業したんですけど、「政府も白人の会社も黒人エンジニアを雇ってくれないから、エンジニアになっても意味がない」って思ったらしいんですよ。それで、経営学を勉強することにして、奨学金を得て、1933年にロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に入学した最初のアフリカ系の学生になったんです。LSEの経済学者たちは彼の才能を認めて、1953年にはマンチェスター大学の正教授に昇進して、世界で最も優れた開発経済学者の一人って見なされるようになったんです。1959年には、西インド諸島大学の副学長に任命されてアメリカに戻ったんですけど、ルイスは自分の成功を、決してそのシステムを正当化するものだとは考えてなかったんですよ。彼は賠償を強く主張して、「低開発」の問題を常に前面に押し出そうとしていました。低開発っていうのは、経済の変化の欠如ではなくて、むしろ、市場経済がグローバル化したことによってグローバルサウスに押し付けられた経済変化の一形態だって、彼は言ったんです。
すごく昔から、人類の歴史を振り返ってみると、男性で、しかも特別な人…例えば、正しい部族とか、カーストとか、血統とか、社会階層の出身であるとか、十分な財産とか教育を持ってるとか、そういう人だけが社会的な力を持つことができたんですよね。人々は、それがずっと続くものだと思ってたんです。アリストテレスが考えたように、人類が黄金時代のファンタジー技術を手に入れない限りは…つまり、ユートピアみたいなものを手に入れない限りは、ね。アリストテレスの言葉を借りると、「すべての道具が、他者の意志に従ったり、予測したりして、自分の仕事をこなせるようになったら、職長は召使いを必要としなくなるし、主人は奴隷を必要としなくなるだろう」と。例えば、ダイダロスの像とか、ヘパイストスの三輪の配膳カートみたいに、ね。
でも、そうなるまでは、マルサス的な人口圧と、貧弱な発明のペースによって、生産性は低いままだったんですよね。もし誰かが、ジョン・アダムズが言ったように、哲学とか絵画とか詩とか音楽を勉強する暇を持つためには、他の人たち…つまり、ほとんどの人たちが、社会的な力を奪われて、自分たちが生産したものの多くを奪われる必要があったっていうわけです。
大きな不平等っていうのは、身分が世代を超えて固定されてるっていう意味ではなかったんですよね。農業時代の歴史の多くでは、多くの場所で、身分っていうのは変わりやすいものだったんです。あなたか、あなたのお父さんが運が良ければ変えられた、みたいな。例えば、百人隊長が止まって、トリブヌスの方を向いて、「この男はローマ市民だ」って言ったら、聖パウロが受けようとしていた鞭打ちがすぐに止められた、っていうような話があるじゃないですか。彼が市民権を持ってるのは、お父さんがローマの役人に何か便宜を図ったか、賄賂を渡したからで、彼のご先祖様は誰一人としてローマを見たことがなかったとしても、ね。
時間が経つにつれて、帝国商業時代が進むにつれて、ヨーロッパはますます暴力に傾倒していきました。大西洋奴隷貿易が拡大して、およそ1700万人がアフリカから拉致されてアメリカ大陸に連れてこられて、奴隷にされて、ほとんどの場合、死ぬまで、または死ぬ寸前まで働かされたんですよね。1800年以前のカリブ海の黒人奴隷の平均寿命は、働き始めてからおそらく7年くらいだったんじゃないかって言われてます。ヨーロッパでは罪悪感が募ってきました。これは犯罪だ…すごく儲かる犯罪だ…アフリカ人が奴隷にされるに値する理由がない限りは、ね。W・E・B・デュボイスは、1910年のエッセイ「白人の魂」の中で、この歴史を嘆いてこう書いています。
「世界の人々の中で、自分を白人だと認識するようになったのは、ごく最近のことである。支配的な世界のより優しい魂でさえ、私と話すとき…彼らの実際の言葉の上に、旋律と音色を絶え間なく奏でている。
「かわいそうな、白くないあなた!泣いたり、怒ったりしないで。神の呪いがあなたに重くのしかかっていることは、私もよく知っています。なぜかって?それは私が言うことではないけど、勇敢に!あなたの低い場所で働きなさい。愛にあふれた天国で、いつか白く生まれるように、良い主に祈りなさい!」
遺伝学的に言うと、人類の遺伝子の圧倒的な大部分は、およそ7万5千年前に、ごくわずかな人数を通って受け継がれてきたので、私たちのほとんどが、その時に生きていた数千人から遺伝子の大部分を受け継いでいる、っていうことになるんですよね。彼らは、私たち全員の偉大な(この言葉を3000回繰り返して)祖父母なんです。ちょっと計算してみてください。そうすると、私たちの家系図のそれぞれの世代のスロットの数を、その時代に生きていた祖先の人数の合計で割ると、153,778,990,270から始まって、さらに888桁続く数字になるんです。およそ1.5 x 10の99乗、ですね。7万5千年前に生きていた人の中で、私たち全員の祖先に当たる人…つまり、今日子孫を残している人は、宇宙に存在する粒子の数よりも多いだけでなく、10億の10億倍の宇宙に存在する粒子の数よりも多いスロットを、それぞれの家系図のその世代で埋めていることになるんですよ。
つまり、7万5千年前に生きていた人が、今日子孫を残しているとしたら、私たち全員がその個人から子孫を受け継いでいる可能性が圧倒的に高いっていうことなんです。しかも、無数の系統を通じて、ね。だから、すべての人類は親戚同士なんです。人間の集団よりも、典型的なヒヒの群れの方が、遺伝的な多様性が高いって言われてるくらいですから。
確かに、人類は文化とか地理と一緒に進化してきました。赤道から遠く離れた場所に移動した人たちの子孫は、メラニンを生成する遺伝子を破壊する突然変異を起こした人たちだけの子孫なんですよね。そうすることで、十分な日光が皮膚の外層を通過して、コレステロールをビタミンDに変えることができたっていう。乳糖耐性も、過去6000年間に6回も進化したみたいですね。テ・サックス病を引き起こした創始者効果が起こらなかったら良かったのに、って今、私たちは思ってるわけですが。
一部の人は、私たちが異なる集団の間で引く社会学的な集団区分には、重要な遺伝的な違いがあるって信じています。そして、これらの違いが、性別や民族の間での社会的、政治的、文化的、そして経済的な結果の違いを説明するって言うんですね。右派の経済学者、トーマス・ソウェルがずっと前に指摘したように、1900年の「進歩的な」アングロサクソン人は、東ヨーロッパの知恵遅れのユダヤ人がアメリカに来るのを防ぐために、移民を制限することが非常に重要だと考えていたんです。
黒人のアメリカ人が今日、比較的貧しい生活を送っているのは、彼らが集団として、知能の低い遺伝子を受け継いでいるからだ、っていうような主張を反論するのに労力を費やすのは、本当に疲れるし、品位を落とすことですよね。「ちょっと質問してるだけ」っていう人たちは、遺伝とか集団遺伝学とか、世代を超えた不平等の伝達について学びたいと思ってるわけじゃないんですよね。皮肉なことに、そのような主張に反論しようとする努力っていうのは、「煙が立つところには火があるはずだ」っていう反応を引き起こして、その考えの空虚さを露呈させるよりも、むしろ逆効果になることが多いんです。FacebookとかTwitterみたいなコミュニケーションチャンネルを運営している人たちのビジネスモデルっていうのは、読者を怖がらせたり、怒らせたりして、目をスクリーンに釘付けにして、偽の糖尿病治療薬とか暗号通貨を売りつけることだから、21世紀に合理的な公共の議論を行うのは本当に難しい問題なんですよね。
たぶん、こういう考え方が根強いのは、アメリカの歴史に深く根ざしているからなんでしょうね。エイブラハム・リンカーン…労働の尊厳と人類の平等に、他の誰よりも強くコミットしていた政治家であり、指導者…は、1858年の選挙演説で、この問題について語っています。「私は、白人と黒人の間に政治的、社会的な平等を導入するつもりはありません。両者の間には身体的な違いがあり、私の判断では、それはおそらく永遠に、彼らが完全に平等な立場で一緒に暮らすことを妨げるでしょう。そして、違いが必要である以上、私もダグラス判事と同様に、私が属する人種が優位な地位を持つことを支持します。」
経済史的に言うと、これは第二次世界大戦後、グローバルノースがユートピアに向かって走り出した時に、白人男性が他のすべての男性とすべての女性よりもはるかに有利なスタートを切ったっていうことを意味するんですよね。でも、リンカーンにとって、白人至上主義を守るつもりだっていう断言っていうのは、文脈的には、本題に入る前の譲歩的な咳払い、みたいなものだったんですよ。「しかし」に続く言葉が、彼の演説の中核的な意味だったんです。リンカーンの考えでは、黒人のアメリカ人は、当然、今よりもはるかに良い待遇を受ける権利がある…そしてもっと重要なことには、奪うことのできない権利を持っている…はずだったんです。「黒人が、独立宣言に列挙されているすべての自然権、つまり、生命、自由、幸福を追求する権利を持つべきではない理由は何もない。…自分の手で稼いだパンを、誰の許可も得ずに食べる権利においては、彼は私と平等であり、ダグラス判事と平等であり、生きているすべての人と平等である。」記録によると、その夏の土曜日の午後に、イリノイ州の上院議員選挙について楽しんだり情報を得たりしようとしていたイリノイ州の市民である白人の聴衆から、「大きな拍手」が送られたそうです。
リンカーンは言っていたんです。社会にどんな不平等が存在するとしても、あなたが誰かを奴隷にする権利は、その中にはない。あなたは自分の手で働いて稼いだものを食べる権利があるだけだ。それはあなたの生命、自由、幸福を追求する権利の一部だ。他の人があなたが稼いだパンを奪うのを防ぐのが、政府の役割だ。さらに、そのような政府は、あなたの同意を通してのみ正当化される。
それは理論でした。しかし、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが、1963年の有名な「私には夢がある」という演説で後に述べたように、独立宣言とアメリカ合衆国憲法の起草者たちは、黒人のアメリカ人に対して「約束手形」に署名したけど、それは当時もまだ支払われていなくて、今日でもまだ支払われていないんです。考えてみてください。アメリカの州の半数は現在、黒人の投票力を低下させ、彼らが選挙権を行使することを不当に困難で不便にするために作られた選挙法を持っています。そして、黒人を貧しく保ち、彼らが民主党の候補者に投票することを好むようにする政策を実施する社会を作っておいて、投票抑制の異質な影響に人種的な敵意はないと主張することはできません。
それでも、リンカーンの奴隷解放宣言は、私たちが今「包摂」と呼んでいるものへの氷河のような進展を可視化する強力な一撃でした。そして、長い20世紀を通して、少なくとも物事は変わり始めています。世紀が進むにつれて、男性であることとか、正しい部族、カースト、血統の出身であること、または正しい社会秩序のメンバーであることっていうのが、社会的な力にとって不可欠ではなくなっていきました。
でも、財産と教育(そして、適切とか質の量)っていうのは、依然として重要でした。人がどこで生まれたかっていうのは、彼らの機会を形作る上で決定的な要素であり続けたんです。言い換えれば、長い20世紀を通して、「包摂」は現実というよりも、目標であり続けたっていうわけです。
長い20世紀の包摂に向けた社会的な動きの中で、アメリカ合衆国は再び、未来が形成される炉でした。アメリカ合衆国が他の国よりも優れていたっていうわけではありません。しかし、その世界的な覇権力と、その願望と現実の間の大きなギャップとの組み合わせが、多くの高張力エネルギーを生み出したんです。あるいは、アメリカ合衆国が、ロジャー・B・トウニーの「黒人は非常に劣っていて、白人が尊重する義務のある権利を持っていない」っていう宣言よりも、トーマス・ジェファーソンの「すべての人は平等に創造され、…特定の奪うことのできない権利を授けられている」っていう宣言によって定義されることを決めて以来、そうだったんです。
第二次世界大戦が終わった時、黒人のアメリカ人に対する法律上と事実上の差別の組み合わせによって、彼らが教育を受けたり、貧困から抜け出したり、富を築いたりすることを無期限に妨げられるだろうっていう兆候がありました。経済学者で社会学者のグンナー・ミュルダルは、1944年に人種とアメリカに関する本に「アメリカのジレンマ」というタイトルを付けました。そのジレンマは、機会の平等という「アメリカの信条」と、アメリカにおける黒人の実際の地位との間の矛盾でした。国がこのジレンマと無期限に共存できない理由はないように思われました。
共和党は、「自由な労働」に対する信念の一部として、黒人の地位向上への名残をとどめていました。しかし、平等を求めるアメリカの願望は、奴隷解放宣言からさらに1世紀の間、公的な州が認可した差別と選挙権剥奪と共存することができました。南部では、黒人の選挙権剥奪は確立された政策であり、白人の間で圧倒的に人気がありました。1875年から1877年の間に、南部の黒人8人が議会で務めましたが、その後、1973年にテキサス州のバーバラ・ジョーダンとジョージア州のアンドリュー・ヤングが就任するまで、南部の黒人代表はいませんでした。
北部では、1910年代の第一次大移動の始まりまで、黒人代表の選出が実現する可能性は低く、そのため黒人代表はいませんでした。大移動が始まってからも、北部の黒人議員はほとんどいませんでした。実際、最初の北部の黒人議員は、1929年に共和党のオスカー・スタントン・デ・プリーストがシカゴのサウスサイドの過半数マイノリティ地区から選出されるまで就任しませんでした。2人目の黒人議員、ハーレムのアダム・クレイトン・パウエル・ジュニアが1945年に就任しました。その後、1955年にミシガン州のチャールズ・ディグス、1959年にペンシルベニア州のロバート・ニックス、1963年にカリフォルニア州のオーガスタス・ホーキンス、そして1965年にミシガン州のジョン・コニヤーズが就任しました。要するに、1965年の画期的な投票権法が可決される前の最後の議会には、黒人有権者のための意味のある一連の保護措置を提供した、民主党の黒人議員は4人しかいなかったんです。
そして、今日、州のほぼ半数が黒人投票の割合を減らすことを目的とした投票制限を設けています。アメリカ合衆国最高裁判所の多数の判事は、これらは共和党の議員が次の選挙で民主党に優位に立つために課した党派的な制限であり、黒人男性と女性を抑圧するための人種差別的な制限ではないと信じているふりをしています。しかし、長い20世紀の後半の数十年でさえ、アメリカの政治史の醜い現実を考えると、これはそれほど驚くべきことではありません。結局のところ、これは共和党の旗手(ロナルド・レーガン)がタンザニアからの外交官を「アフリカの国々の猿」と呼び、経済政策の旗手(シカゴ大学のジョージ・スティグラー)がマーティン・ルーサー・キング・ジュニアや他の公民権運動の指導者たちを「増大する横柄さ」で非難した時代だったんです。さらに、共和党が任命した最高裁判所の判事が尋ねない質問があります。もし政党が人種差別主義者を引き付けるために全力を尽くしているとしたら、その政治戦略に反発する人たちの投票を抑制しようとすることは、人種差別的ではないのでしょうか?
富と所得のヒエラルキーと格差を拡大し、強化しようとする政党は、民主主義の中で何をすべきでしょうか?少なくとも、ある程度の潜在的な多数派に投票する理由を提供する必要があります。そのような政党は、経済成長を生み出すのが得意であると主張することができます。それは、経済的なパイの小さな一片を与えるけど、そのパイは十分以上に大きくなるので、それを補うことができる、っていうわけです。特に、より速い成長を提供することと、より公正な分配とより少ない不安を提供することの優先順位の間で有権者が揺れ動く二大政党制の文脈では、このアプローチは良好な統治につながることがあります。しかし、最終的には、保守的な政策が経済的なパイをより速く成長させると言うだけでは不十分であり、実際にその約束を果たす必要があります。
それができない場合、その政党は経済的な分断と富の不平等を、それほど目立たなくするように努めることができます。そのためには、他の問題をより目立たせる必要があります。言い換えれば、非経済的な政治的分断を強調して、それを利用するわけです。ナショナリズムのカードを切ることができます。国家は危険にさらされていて、脅威にさらされています。防衛は豊かさよりも重要なので、お弁当箱の利益のために投票する余裕はありません、っていうわけです。あるいは、外部ではなく内部に敵を見つけて、有権者の大多数を動員することができます。そして、アメリカ合衆国の建国以来、政党は、この戦略を展開する最も効果的な方法っていうのは、黒人人口に対して修辞的な(そして、しばしば死に至るほどの)戦争を宣言することだと気づいたんです。常に共和党だったわけではないことに注意してください。1940年代までは民主党でした。当時、機会の平等というアメリカの信条に関して、民主党は白人男性の間では平等という点で優位に立っていて、共和党は機会という点で優位に立っていました。しかし、白人男性がお互いに平等だと感じさせることの大きな部分は、彼らを黒人男性よりも優れていると感じさせることだったんです。だから、アメリカの「進歩的な」瞬間の民主党の魅力の大きな部分は、その白人至上主義だったんですよね。
進歩的な時代に、黒人のアメリカ人の自由が後退したことによって引き起こされた損害っていうのは、過小評価されてきたことが多いんです。奴隷解放に続いて復興がありましたが、それは後退し、その政治経済社会的な均衡は、ジム・クロウによってさらに後退し、当時台頭していた黒人の中産階級を壊滅させました。
1940年の時点で、アメリカの平均的な黒人労働者は、平均的な白人労働者よりも3年少ない教育しか受けていませんでした。アメリカ人のかなりの割合が、雇用、住宅、教育、そして投票における差別を承認していました。黒人男性は、主に生産性と所得の低い南部の未熟練農業労働に集中し、黒人女性は、未熟練農業と家事労働に集中していました。どちらも非常に低賃金の職業であり、黒人男性と女性は、平均的な週給が白人の45%程度でした。黒人男性の大卒者は週に約280ドル(今日のドルで)稼いでいましたが、白人の高卒者は週に約560ドル稼いでいました。1940年、白人家族の約48%が今日の公式統計によると「貧困線」を下回っていましたが、黒人家族の約81%が貧困にありました。
これらの格差は、他のさまざまな要因とともに、黒人男性と女性を従属させていました。長い20世紀の後半の数十年までに、多くのことが変わりました。事実上すべての白人が、黒人のアメリカ人に対する均等な雇用機会の原則を公に支持しました。人種別の教育達成度は、1980年代後半と1990年代に学校を卒業した人たちにとって、ほぼ同じでした。黒人男性の平均的な週給は、白人の3分の2でしたが、黒人女性の平均的な週給は、平均して白人女性の95%以上でした。
その変化は、黒人コミュニティの賢明なリーダーシップと道徳的な力の巧みな使用によるものだと信じざるを得ません。公民権運動の指導者たちは、弱い手を非常に巧みなスキルと忍耐力で扱い、並外れた長期的な成功を収めました。彼らは、長い20世紀の最大の英雄の一人です。
特に、1940年から1970年の間に実現した利益をもたらす上で、3つの要因が大きな役割を果たしました。それは、形式的、法的、州が認可した差別の終焉、黒人のアメリカ人が農村部の南部から都市部の北部への第二の大移動、そして低賃金、低スキルの農業雇用から工業およびサービス産業への関連する移行です。この期間は、黒人のアメリカ人が達成した教育水準の大きな向上と、経済の残りの部分における高い雇用率と生産性の向上を伴いました。4番目の非常に重要な要因は、1964年に公民権法の第VII条が雇用差別を違法としたことです。それがなければ、黒人のアメリカ人の経済的な進歩はかなり遅れていたと考える十分な理由があります。
1940年から1970年までの期間が実質的な相対的な進歩の期間だったとしたら、1970年以降の状況はより複雑でした。1980年代の終わりまでに、アメリカ合衆国の25歳から54歳の黒人男性の少なくとも5人に1人が、年間所得をまったく報告していませんでした。そして、今日でも、黒人のアメリカ人の1人当たりの家族収入は、白人の約60%にすぎません。それは、1960年代の終わりとほぼ同じです。アメリカ人の大多数は、個人的な人種差別はもうないと信じています。つまり、黒人に対する白人の敵意は以前の世代にはあったけど、もはや存在しない、って言うんですね。しかし、黒人の相対的な所得をそれほど低く抑えているものは、人種差別以外に何があるのでしょうか?実際、この人種差別の多くは、今では「構造的な人種差別」として認識されています。つまり、過去の摩擦、制度、遺産が、富と社会的なネットワークへのアクセスの現在の形の中で、個人的な人種的な敵意がかつて果たしていた機能を果たしている、っていうわけです。
黒人の経済的な平等に向けた進歩を停滞させる上で最も重要なのは、私の判断では、一般的な経済全体に影響を与える要因でした。つまり、雇用者がスキルと教育の低い労働者に対する相対的な需要が減少したことによる所得格差の拡大です。また、家族構造の変化も重要でした。それは、離婚の増加、婚外出産の増加、そして結果として生じるひとり親世帯の増加(ほぼ必然的に女性が世帯主になる)です。20世紀後半までに、子供がいる黒人の両親がいる家族の貧困率は12.5%でした。子供がいる黒人のひとり親世帯の貧困率は40%でした。そして、黒人の子供の半数が、子供時代の少なくとも半分を貧困線以下で過ごしました。
黒人の両親がいる家族の数の減少に対する右派の説明…つまり、チャールズ・マレーやジョージ・ギルダーのような人たちが提供した説明…は、より寛大な福祉手当が労働意欲をそぎ、成人のカップルを一緒に保つことの物質的な経済的な利益を排除することによって、崩壊を引き起こした、っていうものでした。マレーとギルダー、そして同様の思想家たちが彼らの解釈を構築した元となる作品は、ジョンソン政権の政策立案者、ダニエル・パトリック・モイニハンによって書かれた1960年代半ばの文書でした。しかし、モイニハンの「黒人家族:国家行動の事例」は、一部には彼自身の内向きの傾向、つまり、物質的な圧力の下での彼自身のアイリッシュ系アメリカ人の家族の力学の記憶によって形作られました。それは、彼自身の個人的な精神劇というよりも、黒人家族が直面している状況の分析でした。彼は、彼自身の経験と、彼が1960年代にひどい状況で育つ黒人の子供たちの経験であると想像したものとの間に強力な類似点があることを認識しました。それは、アメリカの将来において、子供たちがヘルズ・キッチン、マンハッタンでギャングと走り回って育った彼のように、または彼が1960年代に育つ多くの黒人の子供たちを見ているように育つ必要がないように、国家的なコミットメントを求める必要がありました。
実際、マレーとギルダーが単に自分たちの計算をしていないっていう結論を逃れるのは難しいです。3人の子供を持つ母親に対する福祉とフードスタンプの支払いは、1960年から1970年の間に3分の1増加しましたが、その後減少しました。1990年代半ばまでに、福祉手当はインフレ調整後の金額で1960年よりも低くなっていました。実質賃金は3分の1高くなっていました。黒人男性にとっては約50%高くなっていました。両親がいる世帯を維持することは、1950年代と1960年代に別れて福祉を受け取ることに比べて、1990年代には物質的な意味で、はるかに有利な選択肢でした。
より良い説明は、黒人家族がより広範な社会全体の変化の逆流に巻き込まれたけど、特にそれに対して脆弱だったということです。包摂の潮流は人種の重要性の低下をもたらしたかもしれませんが、1980年以降の未来は、第二の金ぴか時代の到来と、白人男性の間でさえ、所得と富の不平等が爆発的に増加することをもたらしました。ある程度まで、黒人のアメリカ人にとって、社会的な包摂の利益は、少し遅すぎただけでなく、少なくとも半世代遅すぎました。
ここで、少しだけ第二次世界大戦直後の時期に戻ってみましょう。繰り返しますが、成長は今まで以上に速く、失業率は低く、所得はそれほど不平等に分配されていませんでした…少なくとも、グローバルノースの白人男性にとっては。それは白人男性にとって物質的なユートピアに今まで以上に近く、急速に近づいていました。しかし、女性はどうでしょうか?
プラトンのソクラテスは、国家の中で、男性と女性の魂は根本的に同じであるため、理想的な都市の守護者の中に女性がいるだろうと仮定しました。それから1世代後の紀元前340年頃に書いた彼の弟子のアリストテレスは、それに異議を唱えました。彼は、重大な違いがあると考えていました。
自然の秩序には例外があるかもしれませんが、男性は本質的に女性よりも命令に適しており、年長で十分に成長した人が若くて未熟な人よりも優れているのと同じです。…男性と女性の関係はこのようなものですが、そこには不平等が永続的に存在します。…奴隷はまったく思慮分別がなく、女性は持っていますが、権威がありません。…男性と女性の勇気と正義は、ソクラテスが主張したように同じではありません。男性の勇気は命令することで示され、女性の勇気は従うことで示されます。
私たちは、より大きな全体像を見る必要があります。なぜ男性至上主義が何千年もの前に、農業時代に、それほどしっかりと確立されたのかは明らかではありません。確かに、生き残った子孫を持つことは非常に重要でした。そうすることで、誰かが老後にあなたの世話をするためにそこにいるからです。確かに、彼らの世話をする生き残った子孫を持つ可能性を最大化するためには、男性と女性が多くの子供を持つことが重要でした。したがって、典型的な女性は20年間、妊娠と授乳のために2人分を食べて過ごしました。そして確かに、2人分食べることは、特に自給自足に近い人口(そして、農業時代の人口は自給自足に近い)にとっては、莫大なエネルギーの消耗です。確かに、授乳には女性が子供たちの物理的に近くにとどまる必要があり、それは家事労働の集中を強制するのに役立ちました。それは、庭仕事や住居内および住居近くでの他の形態の労働、特に織物です。
しかし、それをすべて考慮しても、男性は、特に女性が自分がそれに値すると納得させることができる場合、哺乳類の生物学の形態で必然性によって課せられた制限であると主張できるものをはるかに超えて、女性をさらに抑圧することから具体的な利益を得ました。「女に彼は言った、『私はあなたの悲しみとあなたの懐胎を大いに増やす。あなたは悲しみの中で子供を産むだろう。そして、あなたの願望はあなたの夫に向けられるだろう。そして、彼はあなたを支配するだろう。』」
しかし、この高い家父長制が人間の文化の主要な部分であった期間は、私たちが知っていることではありません。私たちの遺伝子には、約5000年前に大きな変化があった兆候が少なくともいくつかあります。つまり、人類の「有効な」男性人口、つまり、当時生きていて、現在子孫を持つ男性の数が突然減少したのです。人類の「有効な」女性人口には、そのような減少はありませんでした。約5000年前、初潮を過ぎて生き残ったほぼすべての女性が子供を持っていたにもかかわらず、思春期を過ぎて生き残った男性のかなりの割合が子供を持っていませんでした。女性が夫を共有したり、はるかに年上の夫を受け入れたり、男性のかなりの割合が未婚のままでいることが、多かれ少なかれ規則になるためには、どれくらいの社会的な圧力が必要でしたか?どのような制度がこの圧力を加え、どのように加えましたか?約3000年前に、状況は再び均衡を取りました。世帯内で再び1対1が優勢になりました。高い家父長制の起源は、この再均衡の原因でしたか?これは、アリストテレスの「男性の勇気は命令することで示され、女性の勇気は従うことで示される」という発言に見られるものですか?(アリストテレスは、男性と女性の魂は根本的に同じであると主張するソクラテスとプラトンからの強い反対にもかかわらず、この信念を維持していることに注意してください。)または、それは以前から人間の社会に存在していましたか?
もし私が女性なら、女性の地位の著しい変化を歴史の中心的なものと見なすでしょうか?古代の典型的な経験から…つまり、8回以上の妊娠、20年間2人分を食べる、出産中に死亡する確率が7分の1…から、今日の1回または2回の妊娠という現代の経験への移行を、最も大きな変化の1つと見なすでしょうか?フェミニズムの台頭は、長い20世紀の最大のニュースですか?1000年後の歴史家は、マルサス的な貧困の終焉よりも、それと相互に関連してはいるけど、より重要なものと見なすでしょうか?
少し時間を遡ってみましょう。1900年には、アメリカ合衆国では、有給の男性労働者は有給の女性労働者よりも約4対1の割合で多かったんです。その不均衡は、おそらくそれほど高くはありませんでした。国勢調査の手順では、実際には市場で販売された女性の労働生産物の数が過小評価され、経済学者の測定では、従来、世帯内生産が過小評価されてきました。それでも、その違いは著しいものでした。しかし、世紀の終わりまでに、有給労働力はほぼ半分が女性になりました。
1900年には、国勢調査で数えられた、正式に有給の労働力セグメントにおける女性労働者の大部分は未婚でした。15歳以上の独身女性の約43.5%が、公式に数えられた労働力の中にいました。白人女性の41.5%、非白人女性の60.5%です。対照的に、既婚の白人女性のわずか3.2%(および既婚の非白人女性の26%、全国平均で5.6%)が労働力に参加していました。1920年には、約30歳の既婚の白人女性のわずか4%が働いていました。1980年までに、約30歳の既婚の白人女性のほぼ60%が働いていました。約30歳の既婚の非白人女性の労働力参加は、それほど増加していませんが、より高い基盤から、より高いレベルまで増加しました。1920