Chapter Content
えーと、今回はですね、「企業の台頭」っていうお話です。ちょっとね、アカデミックな感じもするんですけど、まあ、お付き合いください。
まず、企業の定義みたいなものなんですけど、有名なアンブローズ・ビアスっていう人がね、昔、「個人の責任を負うことなく利益を得るための巧妙な装置」って言ったらしいんですよ。なんか、皮肉っぽいですよね。
で、企業っていうのは、実は歴史がすごく長くて、語源はラテン語の「corporatio」っていう言葉から来てるんだって。ローマ時代にも企業みたいな組織はあったみたいですよ。へえー。ロンドンの金融街を管理してる「シティ・オブ・ロンドン・コーポレーション」っていうのがあるんですけど、その起源はもう霧に包まれてる、みたいな感じらしくて。1067年にウィリアム征服王から特許状をもらったらしいんですけど、それよりも前から権利を持ってた可能性があるみたい。その地域では、銀細工師とか魚屋とか、パン職人とかビール醸造業者とかのギルドが、貿易を規制したり、見習いを監督したり、品質を管理したりしてたみたいですね。でも、参入を制限したり、価格を固定したりもしてたみたい。これらの企業は、王室の特許状によって存在を認められて、独占権を与えられていたんですね。
ギルドとかリバリー・カンパニーっていうのは、今でも晩餐会とか飲み会みたいな形で残ってて、慈善活動を支援してたりもするみたい。でもね、魚屋のホールで魚を売ってる人を見かけることは、まあ、ほとんどないですよね。出てくる魚料理は、ムニエルくらいでしょうね。あ、でも、2019年にナルハルの牙が壁から引き抜かれて、テロリストを鎮圧するのに使われたって話があって、ちょっと面白いですよね。
で、企業の重要な点は、個人に帰属しない資産を持てたり、契約を結べたりすることなんですよね。つまり、企業は自然人と同じような権利と義務を持ってるってこと。これが、現代の会社法の中心的な概念である「法人格」の起源らしいです。企業のルールは、目的とか会員資格を定めてて、会員の中から選ばれた少人数のグループが、経営を監督するっていう仕組みだったみたいですね。
16世紀にヨーロッパ人が世界を探検するために船を送ったとき、大きな投資とリスクを管理するために企業を設立したんですよね。エリザベス1世は、東インド会社に特許状を与えて、東南アジアとの貿易を許可したんですよ。その2年後、オランダも東インド会社を作って、香辛料貿易に乗り出したんですね。
昔は、会社っていうのは、単に一緒に仕事をする人たちの集まりだったんです。それが、東インド会社みたいに特別な法的地位を獲得すると、企業になったんですね。その地位には、メンバーの責任を限定するっていう重要な規定が含まれてたりしたんですよ。ただ、この特権を得るには、王室の特許状とか議会の承認とか、特別な手続きが必要だったみたい。
1606年、ジェームズ1世は、バージニア会社とかプリマス会社に特許状を与えて、北米の植民地化を開始させたんですね。でも、これらのアメリカの会社は、商業的には成功しなかったみたい。バージニアには、金鉱がなかったんですよね。だから、植民地行政が直接王室の責任になったんです。ハーバード大学を運営してる「ハーバード・コーポレーション」っていうのがあって、これは西半球で最も古い企業らしいです。1650年にマサチューセッツ植民地議会から特許状をもらったみたいですね。
17世紀には、他にもたくさんの企業が王室によって設立されたんですけど、植民地事業とか、王室への支持に対する報酬としての独占権とか、いろいろだったみたい。これらの企業の運命は、まあ、いろいろだったんですね。ジェームズ1世は、スコットランドとイングランドの王室を統合したんですけど、議会は統合しなかったんですよね。スコットランド会社が、パナマ地峡にスコットランドの植民地を建設しようとしたんですけど、失敗して、多くのスコットランドの地主が経済的に困窮して、イングランドとスコットランドの完全な議会連合につながったっていう経緯があったみたいですね。
18世紀後半に、オランダの植民地がイギリスに奪われたことで、オランダ東インド会社は終わりを迎えたんですけど、イギリスの東インド会社は拡大を続けて、19世紀前半には、事実上インドの政府になってたんですよね。1857年のインド大反乱(現代のインド人は独立戦争と呼ぶのを好む)の後、東インド会社は事実上国有化されて、貿易会社としての活動を停止したんですね。その直後、ヴィクトリア女王がインド女帝を宣言して、植民地化は民間ではなく、公共の活動になったんです。
有形資産に対する請求権を表す取引可能な証券を扱うっていう考え方は、昔からあったんですよね。シルクロードでは、商人がコインを持ち運ぶ手間を省くために手形を使ってたんです。企業の株式は、その事業を可能にする船舶とか貨物とか、設備とか機械とかの基礎となる資本資産を損なうことなく取引できたんですね。株式のリターンは、事業の成否によって決まるっていう仕組みでした。
同様に、銀行券も最初は銀行の金庫にある金に対する請求権だったんですね。銀行はすぐに、持ってる金よりも多くの紙幣を発行できることに気づいたんです。それが、銀行が「お金を創造する」っていう考え方の基礎になってるんですけど、誤解されてることが多いんですよね。きちんと経営されてる銀行は、資産が負債を上回ってるんですよ。無から富を生み出してるわけじゃないんです。現代の金庫にある金の代わりに、預金に対応する資産は、銀行が貸し付けたローンなんですよね。歴史的に、これらのローンは、住宅とかオフィスとか、製造工場とかの有形資産を購入するために使われてたんです。魔法があるとすれば、それは満期変換の魔法ですね。すべての預金者が同時に払い戻しを要求するわけではないので、銀行は短期で借りて長期で貸すことができるっていうことなんです。
ロイズ銀行とかバークレイズ銀行みたいなイギリスの銀行は、17世紀の最後の10年間に設立されて、徐々に活動と顧客基盤を拡大していったんですね。1690年代には、イングランド銀行(現在の中央銀行)とスコットランド銀行(2008年に破綻してロイズ銀行に買収された)も設立されたんです。国際貿易に関与してたことからそう呼ばれるようになった、マーチャントバンクは、少し遅れて登場したみたい。ベアリングス(ドイツからの移民、ヨハン・ベアリングの2人の息子によって設立)は、1764年に設立されたんですね。1798年、フランクフルトの銀行家マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドは、息子のネイサンをロンドンに派遣して銀行を設立させたんです。これが、今でもロスチャイルド家の象徴である「5本の矢」の最初の一本になったんですね。ロンドンの家はナポレオン戦争中に繁栄したんですけど、ワーテルローの戦いの結果を早く知って利益を得たっていう話は、作り話みたいです。ベアリングスとかロスチャイルドみたいな銀行は、証券市場を専門としてて、現代の投資銀行の前身だったんですね。
アムステルダム証券取引所は、1602年にVOC(オランダ東インド会社)が自社の株式を取引する場所として設立したんですね。20年後には、VOCは2番目の会社に、その建物で証券を提供することを許可したんです。コーヒーショップの発明は、哲学的な思索の場を提供したんですよね。オックスフォードのハイストリートにあるグランド・コーヒー・ハウスは、イギリスで最初のコーヒーショップだったと主張してます。でも、コーヒーショップは金融投機の場でもあったんですね。1660年の王政復古は、ギャンブルに対するピューリタンの抵抗を弱めたんですよね。1680年にジョナサン・マイルズがロンドンのシティにオープンしたコーヒーショップのトレーダーは、王室の債務だけでなく、企業の株式も扱ってたんです。ジョナサンズは今日、ロンドン証券取引所の起源として知られてます。また、近くにあるエドワード・ロイドのコーヒーショップは、ロンドン保険市場の起源として認識されてますね。
独立宣言からわずか3年後、マンハッタンの商人の一部は、新しいアメリカ共和国が証券取引の場所を緊急に必要としてることに気づいて、ウォール街のボタンウッド(アメリカスズカケノキ)の木の下に集まり、ニューヨーク証券取引所を設立したんですね。19世紀前半の鉄道ブームは、株式所有の広がりと匿名の市場取引のきっかけになったんです。
2004年に連合国暫定当局が解散すると、イラクの当局者は電子取引システムを導入して、米国のような証券取引委員会を設立しようとする試みを放棄して、ホワイトボードに5つの上場株式の価格を設定する慣行を再開したんですね。
企業の株式の流通市場の制度は、投機と明らかな詐欺の機会を提供したんですよね。1720年頃、そのような取引は狂乱状態になったんです。イギリスでは、南海泡沫事件が膨らんで崩壊して、スコットランドの殺人犯で信用詐欺師のジョン・ローは、パリに亡命して、その都市から彼の奇抜な金融理論と詐欺的なミシシッピ会社を推進したんですね。その後1世紀にわたって、企業の設立と宣伝に対する厳しい制限が課せられたんですよ。
でも、それはほんの1世紀だけでした。鉄道は、経済生活のほぼすべての側面を変えることになったんですよね。ビジネスの組織と生産の組織の両方を含めて。最初の鉄道は、通常、貿易に迅速で信頼性の高い輸送手段がもたらす利点を見た地元のビジネスマンによって推進されたんですよね。彼らは、王室または州から企業憲章を確保しました。鉄道の建設には多額の資本が必要で、プロモーターやその他の裕福な個人は、株式の配当を約束する代わりに資金を提供したんですね。たとえば、グレート・ウェスタン鉄道は、ロンドンへの迅速な接続を求めていたブリストルの商人によって設立されたんです。彼らは、建設を監督するために、優秀な若いエンジニア、イザムバード・キングダム・ブルネルを雇ったんですよね。
鉄道の差し迫った到着と、それがもたらす社会的な激変は、ジョージ・エリオットの小説「ミドルマーチ」の中心的なテーマです。リバプールの国会議員で元閣僚だったウィリアム・ハスキソンが、リバプール・アンド・マンチェスター鉄道の開通時に線路上に立ってて機関車に轢かれて死亡したっていう事件が、機会と危険の象徴として繰り返し語られてるんです。また、エリオットの架空のキャラクターであるケイレブ・ガースは、新しい路線の土地を測量するプロセスに巻き込まれていく、っていう話ですね。アメリカ合衆国における鉄道の進展は遅かったんですけど、最終的にはさらに重要なものになったんです。1869年、リーランド・スタンフォードは、最初の大陸横断鉄道の完成を示すために、金のスパイクを打ち込んだんですよね。
1840年代までに、新しい開発の経済的な可能性と社会的な影響の両方が広く認識されるようになってきたんですね。イギリスは「鉄道マニア」に陥ったんです。株価は1845年から46年にピークに達して、ロンドンとバーミンガム、リバプール、マンチェスターを結ぶ最大の会社であるロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道の株価は、発売価格100ポンドに対して250ポンドでピークに達した後、1840年代末までに110ポンドに下落したんですね。新しいインフラは、イギリスの中産階級の貯蓄を利用して資金を調達したんです。アメリカの鉄道も同様に資金を調達したみたいですね。同名の会計事務所の創設者であるウィリアム・デロイトは、鉄道ブームの間に蔓延してた詐欺の中で、グレート・ウェスタン鉄道の株主に事業の健全性を保証するためのプロセスを導入したことで名声を博したんです。
あなたが鉄道のパニックについて聞いたとき、私たちがどうしてるのか不思議に思っただろうと思います。そして、私たちのささやかな資本はまだ減っていないという保証によって、あなたの親切な問い合わせに答えることができることをとても嬉しく思っています。ヨーク・アンド・ミッドランドは、あなたが言うように、とても良い路線です。それでも、私はあなたに告白しますが、私自身のためには、時期を見て賢明になりたいと思っています。たとえ最高の路線であっても、現在のプレミアムを長年維持できるとは思えません。そして、手遅れになる前に株を売却して、当面は収益性の低い投資であっても、より安全な投資で収益を確保したいと強く思ってきました。しかし、妹たちに私の観点から正確に物事を考えてもらうことはできません。そして、エミリーの意見に真っ向から反対する行動をとることで彼女の気持ちを傷つけるよりも、損失のリスクを冒したいと思っているように感じています。C.B.
シャーロットは部分的にしか正しくなかったんですよね。ヨーク・アンド・ノース・ミッドランドは、「鉄道王」ジョージ・ハドソンの帝国の中心だったんです。1849年の株主総会で、ハドソンは詐欺師として暴露され、ヨーク・アンド・ノース・ミッドランドから追放され、最終的には投獄を避けるために国外に逃亡したんですね。この話は、現代の暗号「資産」のブームの観察者にも共鳴するかもしれませんね。
1世紀前に南海泡沫事件とミシシッピ会社の失敗後に課せられた制限は、徐々に緩和されたんですよね。1856年の法律によって、イギリスのプロモーターは、王室の憲章または特別な議会法を必要とせずに、有限責任会社を設立することが許可されたんです。簡単な登録で十分だったんですね。フランスといくつかの米国州はすでにそのような法人化を許可してたみたい。
多くの観察者は、公衆が責任を制限し、当時の会計を公開する必要さえなかった機関と取引したいと思うかどうか疑問に思ってたんですよね。(1880年に、公認会計士協会が監査人を教育し規制するために設立されましたが、20世紀になって初めて、企業、特に最大の企業でさえ、監査人を雇用することが義務付けられたんです。)そのような疑念は、銀行ハウスのOverend, Gurney & Companyが1865年に有限責任を採用し、翌年に破綻して、景気後退を引き起こしたときに拡大したんですね。
満期変換の魔法は、あまりにも多くの預金者が同時に払い戻しを求めた場合に消滅する可能性があるんですよね。そして、これが起こる可能性があると思うなら、列の先頭にいたいと思うでしょうね。これが、銀行取り付け騒ぎの現象なんですよね。エコノミスト誌の編集者であるウォルター・バジョットによる画期的な記事は、中央銀行が「最後の貸し手」として行動することで、そのような問題を軽減できるという考え方を推進したんです。この概念は、21世紀の非常に異なる金融環境にも生き残り、2008年に十分に展開されることになったんですね。ただし、バジョットが推奨した方法とはまったく異なりますけど。
しかし、銀行の破綻の結果は、法人化の進展を止めるのではなく、強化することになったんですね。1878年、国際的に拡大して100以上の支店を開設していたシティ・オブ・グラスゴー銀行が破綻したんですね。銀行は、1,800人の株主の無限責任を強調してたんです。その結果、80%以上が破産したんですよね。シティ・オブ・グラスゴーの破綻は、イギリスの小売り銀行における無限責任の終焉を告げるものだったんです。数か月以内に、取締役は刑務所に入れられたんですね。一部の解説者は、2008年にスコットランドの2つの大手銀行が破綻したとき、結果は大きく異なっていたと指摘してましたね。
しかし、これらの継続的な投機と詐欺の波にもかかわらず、19世紀末までに、有限責任会社の台頭は止められないものになってたんです。鉄道に資金を供給した企業の構造は、銀行業や資源探査に利用され、やがて製造会社にまで拡大したんですね。1886年のアイルランドのビール会社ギネスの新規株式公開(IPO)は、ロンドン証券取引所における工業会社の代表的な上場だったんですよね。この発行は大幅に超過申し込みとなり、株価は開始時に10ポンドから16ポンドに上昇したんです。まもなくイーヴ男爵になるエドワード・ギネスは、会社の株式の65%を売却することで600万ポンドを手に入れたんですね。上場を企画したベアリング・パートナーシップは、その努力に対して50万ポンド以上を得たんです。そして、発行を組織したベアリング家の銀行は、発行の3分の1を自分たちのために賢明に保持してたんです。
エドワード(ネッド)・ベアリングは、19世紀後半の金融の発展における銀行の役割を認められて、1885年に貴族に叙せられたんですよね。彼が男爵に叙せられ、財政的クーデターを成功させ、カナダ太平洋鉄道への資金提供における彼の役割を記念して彼にちなんで名付けられた町(レベレストーク)を持つという彼の勝利が解き放たれるまでには、わずか5年しかかからなかったんです。この銀行は、アルゼンチンで巨額の損失を被った最初の金融機関の1つだったんですけど、決して最後ではありませんでした。ベアリングス自体はイングランド銀行によって救済されたんですけど、この銀行は無限責任パートナーシップだったんです。最近貴族に昇格した男のカントリーエステートとメイフェアのタウンハウスは、債権者を満足させるために売却されたんですよね。
1890年の惨事後のベアリングスの再建には、有限会社としての法人化が含まれてたんですね。ただ、他のほとんどのロンドンとニューヨークの投資銀行は、その後1世紀にわたってパートナーシップのままでした。そのため、ベアリングスが1995年に再び破綻したとき(「悪徳トレーダー」ニック・リーソンの詐欺の結果)、株主は投資を失ったんですけど、ベアリング家の後の世代が所有するオックスフォードシャーにあるエレガントなジョージ王朝様式のバロック様式の邸宅は、今でも家族に残ってるんですよね。
20世紀を通じて、金融経営の失敗に対する個人的責任の概念は薄れていったんですよね。リーマン・ブラザーズのCEOであるディック・ファルドは、その破綻が2008年の世界的な金融危機を引き起こしたんですけど、その1年以内に、新しいアドバイザリー事業を開始し、「あれは昔のこと、今は今だ」っていうテキストで飾られてたんですよね。しかし、伝説的な投資家ジョン・テンプルトン卿に帰せられる格言「投資において最も高価な4つの言葉は『今回は違う』だ」っていうのを好む人もいるかもしれませんね。
企業体を統治する法律の詳細は、国によって、さらにはアメリカの州によって大きく異なるんですよね。今日、世界中のさまざまな略語が、わずかに異なる法的な形式を説明してるんですよね。LLC(有限責任会社、米国)、Inc.(株式会社、米国)、PLC(公開有限会社、英国)、SARL(有限責任会社、フランス)、AG(株式会社、ドイツ)などですね。ビジネス構造の選択における重要な要素は、個人的責任の制限、報告義務、適用される税務処理、およびビジネスに少数の株主がいるか、またはより多くの一般に株式を提供することを計画してるかどうかですね。
欧州委員会は、EU全体で一定の共通性を求めてて、公益事業体の概念を効果的に作成して、大規模なビジネスの行動は当然のことながら公益の問題であるという原則を明確に示してるんですよね。しかし、その考え方の適用は加盟国の手に委ねられてて、その結果、ほとんど何も起こってないんですね。ヨーロッパの企業は、現在Societas Europaeaとして登録でき、Airbus SEは現代のヨーロッパ企業の典型です。しかし、そのタイトルにラテン語に頼る必要があったという事実は、大陸全体で解決策を確保することの難しさを示唆してます。これは、米国にも当てはまる観察ですね。「コーポレーション」と「会社」という言葉は、今日、多かれ少なかれ同じ意味で使用されてるんですよね。アメリカ英語は「コーポレーション」を好み、イギリス英語は「会社」を好む傾向がありますね。
流通証券(人々がビジネスの遂行を妨げることなくビジネスの株式を売買できるようにしたもの)と満期変換(流動的な貯蓄が長期投資に資金を提供できるようにしたもの)という2つの発明は、歴史的に非常に重要なんですよね。それらがなければ、国際貿易がどのように発展し、産業革命がどのように起こり、現代経済に不可欠な鉄道やその他のインフラがどのように建設されたかを想像することは難しいでしょうね。
19世紀には、イギリスとその帝国が世界の産業シーンを支配してたんです。しかし、そのリーダーシップは、ドイツとアメリカ合衆国の経済力の増大によってますます脅かされるようになったんですよね。1860年代、オットー・フォン・ビスマルクはプロイセンの下でドイツを統一し、工業化は急速に進んだんです。ドイツ銀行は、1870年にベルリンで、実業家ヴェルナー・フォン・ジーメンスを(2人の)取締役の1人として設立されたんですね。ドイツでは、株式市場ではなく、銀行システムが、公共の貯蓄を産業に向けるための主要な経路だったし、現在もそうなんですよね。ジーメンスが1897年に株式を公募したとき、その目的は、エドワード・ギネスのように創業者に保有資産を現金化させることではなく、事業を拡大するための資本を調達することだったんですね。新しい資本のほとんどは銀行によって引き受けられました。今日でも、ドイツの銀行業界の主力は、ドイツ銀行のような国際的な銀行ではなく、州が支援するランデスバンクと、ほとんどのドイツの町で今も機能してる地域貯蓄機関なんですよね。
アメリカは「金ぴか時代」に入り、ジョン・D・ロックフェラー(石油)、コーネリアス・ヴァンダービルト(鉄道)、アンドリュー・カーネギー(鉄鋼)、ジェームズ・デューク(タバコ)のような「強盗男爵」が業界を「統合」し、独占を確立しようと競争相手を買収したんですね。彼らは、E.H.ハリマンやジェイ・グールドのような金融業者によって支援されたんですよね。彼らは、価格を設定する力、業界の未来を決定する力、労働力と政府に指示する力を求めてたんですよね。彼らは、拡大し続ける帝国が、拡大し続ける規模の経済から恩恵を受けることができると信じてたんですよね。
しかし、当時のすべての銀行家の中で最大手は、J.P.モルガンだったんですね。ギネスの上場におけるベアリングスの財政的な成功は、モルガンがカーネギー・スチールを他のいくつかの事業と合併して、1901年にUSスチールを作成したときに影を潜めたんですね。その結果、組み合わせは世界最大の会社になったんです。USスチールは、14億5000万ドルの資本金でニューヨーク証券取引所にデビューしました。モルガンとその仲間たちの利益は、わずか1億ドル強に達しました。現代の基準から見ても、この数字は息を呑むほどです。特に最大の貢献者(または犠牲者)はアンドリュー・カーネギーだったからです。おそらく、65歳で、残りの人生を慈善活動に捧げるためにビジネスから引退する機会を利用してたカーネギーは、厳しい交渉をすることに関心を失って、上場から得た4億5000万ドルに満足してたんでしょうね。
独占禁止法の導入(最初のそのような法律は1890年のシャーマン法)は、明らかにアメリカ的な現象でした。第一次世界大戦前の期間におけるイギリス最大の会社の名前の多くは、それらを運営しようとした男性の意図と野望の規模を証明してるんですよね。インペリアル・タバコ、ユナイテッド・アルカリ、カリコ・プリンターズ・アソシエーション、アソシエーテッド・ポートランド・セメント・マニュファクチャラーズですね。米国企業の国際的な成功に対する反発もあって、ヨーロッパの政府は競争よりも統合を好んだんですね。著名なビジネス歴史家であるレスリー・ハンナは、イギリス政府(イングランド銀行によって代表される)が支持した産業の「合理化」が、何十年にもわたってイギリスを特徴づける新しい「企業経済」の舞台を設定した方法を示したんですよね。1920年代には、合併によってICI(化学)、ディスティラーズ・カンパニー(スコッチウイスキー)、ユニリーバ(石鹸とマーガリン)が設立されました。ドイツでも同様の合併の波がIGファルベンとVereinigte Stahlwerkeをそれぞれ主要な化学および鉄鋼生産者として確立しました。これらの会社は両方とも1945年に戦勝国によって解散されました。
カーネギーとモルガンによるUSスチールの統合は、トラストバスターを生き残ったんですよね。ロックフェラーのスタンダード・オイルはそうではありませんでした。その後のパフォーマンスのコントラストは顕著です。USスチールが設立されてから120年後、日本の日本製鉄は株主にわずか141億ドルでそれを提供しましたが、USスチールが長年主要な構成要素であったダウ・ジョーンズ指数は300倍に上昇しました。スタンダード・オイルの解体から生まれた30以上の会社の多くが繁栄し、エクソンモービル(ニュージャージーとニューヨークの子会社に起源を見出す)は、その長寿において世界をリードする会社の中でユニークです。
鉄道や鉄道による輸送、工場での機械力の利用可能性、法人化や公的資本市場の制度。これらの要素が連携して、新しいビジネスの風景を作り出したんですね。そして、これはほんの始まりに過ぎませんでした。新しい世紀には、自動車や電気の変革的なイノベーションに基づく新しい産業の台頭が見られることになったんですね。
多くの起業家やエンジニアは、自動車が社会を変革する可能性を認識していました。ヘンリー・フォードはもちろん、アントワーヌ・キャデラック、ウォルター・クライスラー、ランソム・オールズですね。アメリカ合衆国以外では、カール・ベンツ、ウィリアム・モリス、ルイ・ルノーですね。生まれたばかりの業界は、合理化者や統合者の注意を免れませんでした。ビリー・デュラントはビュイック社を買収し、それを多くの競合他社やサプライヤーの買収の拠点として使用しました。1909年だけでも、彼はキャデラック、オールズモビル、ポンティアックの名前を彼のブランドに追加しました。
セールスマンおよびディールメーカーとしてのデュラントの才能は、ビジネスを運営する能力を超えてて、彼の買収熱を支えてた銀行は、現金が不足してた会社の支配権を握り、デュラントを解雇したんですよね。しかし、彼はシボレーを購入し、フォードのモデルTに匹敵する車両を開発することで、その挫折に対応したんですね。この商業的な成功によって、デュラントはゼネラルモーターズの支配権を取り戻すことができました。しかし、1920年までに、会社は再び財政難に陥ったんですよね。デュポン化学ファミリーのメンバーであり、会社の最大の株主であるピエール・デュポンは、再びデュラントを会社から追い出したんですね。彼のローラーベアリング事業をゼネラルモーターズが買収したときにゼネラルモーターズに来ていたアルフレッド・スローンは、デュポンの支持を得て、1923年にデュラントの扱いにくい帝国を管理する計画で会社の社長になったんですね。気難しく独裁的なヘンリー・フォードのために働くことができなくなったビル・クヌーセンの助けを借りて、GMは主要なライバルを追い越し、アメリカを代表する自動車会社になっただけでなく、世界最大の製造会社にもなったんですね。
1940年代のイギリスの国有化プログラムは、多くの場合すでに存在してた公共所有および支配よりも統合に関するものであったことは、忘れられがちなんですよね。英国鉄道庁、中央電力庁、および国立石炭庁の名前は、中央政府の指示が主要な目標であることを示していますね。
1920年代と同様に、戦後の国際貿易の成長は、1960年代のイギリスにおける州が後援する統合の時期を刺激したんですよね。産業再編公社(IRC)の設立に続いて、やや矛盾した国民企業庁の創設が続きました。IRCの3つの主要な成果は、主要な自動車会社のすべてをブリティッシュ・レイランドに合併すること、イギリスのコンピュータに関するすべての利害関係をICLに吸収すること、および主要な電気会社を総合電気会社(GEC)に統合することでした。国際競争への答えは国内の規模だったんですね。
でもそうじゃなかったんですよね。自動車の旗艦であるブリティッシュ・レイランドは、1974年に崩壊し、国有化され、最終的には解体されたんですね。コンピューティングの旗艦であるICLは、1981年に失敗し、日本のメーカーである富士通に吸収されました(私が書いているように、英国で最も忌み嫌われてる会社は、欠陥のある郵便局の会計システムの被害者の迫害における役割のためですね)。電気の旗艦であるGECは、2001年の解体まで生き残りました。これは第22章で説明されています。
国民企業庁は、ほとんど効果的ではありませんでした。ブリティッシュ・レイランドの不成功に終わった投資および拡張計画と並行して、工作機械(アルフレッド・ハーバート、1983年に破綻)、半導体(Inmos、1989年にフランスおよびイタリア政府が共同で所有してたSTマイクロエレクトロニクスに売却)、および家電製品(シンクレア・ラジオニクス、1980年に破綻)の国内チャンピオンを推進したんですね。同社のRB 211航空エンジンにおける壊滅的なコスト超過に続いて1971年に公共所有になったロールス・ロイスだけが、成功した会社として生き残りました。象徴的な自動車ブランドはBMWに売却されましたが、(その後民営化された)航空エンジン部門は、今日、世界を支配する3つの主要な生産者の1つです。
大量製造の重要性が増すにつれて、多くの商品が国境を越えて取引されるようになり、グローバリゼーションは鉄鋼、石油、消費財などの取引可能な商品における国際競争につながったんですね。世紀の前半では、保護貿易ロビーは市場の開放に抵抗しようとしましたが、第二次世界大戦後に確立された世界経済システムは、製造された商品の自由貿易を推進したんですよね。植民地時代の国際貿易の一般的なパターンは、原材料が製造された商品と物々交換されるというものでしたが、20世紀の終わりまでに、ほとんどの国際貿易は、工業経済がお互いに製造品、そしてますますサービスを交換することを表すようになってたんです。
ビジネスパーソンとビジネスの批評家の両方が、当時も今も、規模のメリットを誇張しています。規模の利点は技術的で目に見えるようですが、欠点は主に人間的で、すぐには明らかではありません。競争によって価格決定力が損なわれない場合、通常そうであるように、規制が一般的に行われます。大規模な組織は、集合知能の開発と新しいビジネス方法や革新的な製品の採用を阻害する既得権益を開発するんですよね。ラップトップコンピューターについてはIBMではなくインテルとマイクロソフトに感謝し、スマートフォンについてはAT&TとベライゾンではなくAppleに感謝し、電気自動車と自動運転車の先駆者についてはゼネラルモーターズではなくテスラに感謝すべきです。
1920年代、ゼネラルモーターズは、米国でフォードとクライスラー、ヨーロッパではオペルとボクソールの子会社を通じて市場のリーダーシップを競っていました。しかし、最終的には、まだ設立されてなかった国でまだ産業革命を経験してなかった企業に首位を奪われることになります。イギリスの消費者は今日、ドイツ製のフォード、スペイン製のフォルクスワーゲン、韓国製のヒュンダイ、サンダーランド製の日産を購入することができます。また、カリフォルニアで設計され中国で組み立てられたスマートフォン、または韓国で設計されベトナムで組み立てられたスマートフォンを選択することができます。そして、これらのすべての商品は、ほぼどこでも入手可能です。
ふう、長かったですね。お疲れ様でした!