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えっと、ね、ダニエル・カーネマンっていう人がいて、この人、いろんなことに懐疑的なんだよね。で、一番すごいのが、自分の記憶力に懐疑的だって言うんだから、ちょっと驚きだよね。
だってさ、教科書の内容を全部頭に入ってるみたいに講義してたんだよ。しかも、学生にもそれを要求してたっていうから、スパルタだよね、ある意味。なのに、自分の過去の経験を聞かれると、「記憶は当てにならない」って言うんだもん。他人にも信用するなって言うし。
自己懐疑が人生の信条、みたいなね。彼の教え子の一人が言うには、「彼の主要な感情特性は懐疑だ」って。「それが彼をより深い領域に進ませる原動力になった」って言うんだけど、まあ、ある意味、人目を避けるための防御策だったのかもね。要するに、彼と関わった全ての人や物事に対して、ある種の距離を置いていたんだよね。
まあ、記憶に懐疑的だって言っても、さすがに何かは覚えてるみたいで。例えば、1941年の終わりか42年の初め頃、つまり、ドイツ軍がパリを占領してから1年くらいの時に、夜間外出禁止令が終わった直後に街で捕まったことを覚えてるんだって。
当時、ユダヤ人は服の胸のところにダビデの星をつけなきゃいけなかったんだよね。それが恥ずかしくて、他の子にそれを見られないように、毎朝30分早く学校に行ってたんだって。帰り道は服を裏返しに着てたんだって。
ある日、帰りが遅くなってね、道でドイツ兵に出会ったんだって。「黒い制服を着てて、他のドイツ兵よりもっと恐ろしいって言われてた、ナチスの親衛隊しか着ない制服だ」って、ノーベル賞の選考委員会に提出した自伝で回想してるんだけど。
それで、急いで歩いてたら、その兵士が熱心に自分を見てることに気づいたんだって。そしたら、手招きされて、抱き上げられたんだって。服の裏側のダビデの星に気づかれるんじゃないかって怖かったんだけど、兵士はドイツ語で熱心に話しかけてきて、財布から男の子の写真を見せて、お金をくれたんだって。
その時、「母の言う通りだ。人は思っている以上に複雑で面白い」って思ったんだって。へえー、なんか感動的なエピソードだよね。
あと、1941年の11月に父親が連行された時のことも覚えてるんだって。何千人ものユダヤ人が逮捕されて、強制収容所に送られたんだよね。「父親は光り輝く存在だった」って言うんだけど、母親に対しては複雑な感情を持っていたみたい。
父親はパリ郊外のドランシーっていう仮設の刑務所に収容されたんだって。元々700人しか収容できない公営住宅に、7000人以上のユダヤ人が詰め込まれたんだって。「母親と一緒にその刑務所を見に行った時のことを覚えてる」って。「オレンジピンク色の建物で、外から中の人が見えるんだけど、顔までははっきり見えない。女の人や子供の声が聞こえた。刑務官が『ここでは皮とか野菜くずしか食べられない』って言ってた」って。ドランシーはほとんどのユダヤ人にとって、強制収容所への通過点だったんだよね。そこに連れてこられた子供たちや母親たちは隔離されて、アウシュビッツ行きの列車に乗せられたんだって。
でも、幸運なことに、ウジェーヌ・シュエレっていう人の取りなしで、父親は6週間後に解放されたんだって。シュエレっていうのは、フランスの化粧品会社、ロレアルの創業者兼経営者で、父親はその会社で化粧品の開発エンジニアをしていたんだって。第二次世界大戦が終わってからずっと後になって、シュエレがナチスのためにフランスのユダヤ人を捜索して殺害するのを手伝ったってことが明るみに出たんだけど、なぜかその時は自分の会社のトップエンジニアを助けたんだよね。
シュエレはドイツ人を説得して、「父親は戦争の成否を左右する重要な人物だ」って信じ込ませて、父親はパリに戻されたんだって。父親が帰ってきた日のことをダニエルはよく覚えてるんだって。「帰ってくるってわかってたから、先に買い物に行ったんだ。家に帰ってベルを鳴らすと、父親が出てきた。一番良いスーツを着てた。体重は45キロしかなくて、ガリガリに痩せてた。何も食べてなくて、一緒に食べるのを待ってた。それがすごく印象に残ってる」って。
でも、シュエレの庇護もパリでの安全を保証できなくなって、父親は家族を連れて逃亡したんだ。1942年にはフランスの国境が封鎖されてて、安全な場所にたどり着ける保証はどこにもなかったんだけど、ダニエルと姉のルース、両親のエフラムとレイチェルは南に向かったんだって。そこはまだヴィシー政権が名目上統治してたんだよね。
道中、いろんな危険な目に遭って、辛うじて生き延びたんだって。納屋に隠れたり、父親がパリで手に入れた偽の身分証明書のスペルが間違ってて、ダニエルと姉と母親の名前が「カデル」になってたんだって。父親の元の姓は「ケデル」だったんだけどね。
見つからないように、ダニエルは父親のことを「叔父さん」って呼ばなきゃいけなかったんだって。母親はいつも文句ばかり言ってて、今の状況は全部夫のせいだと思ってたんだって。母親は第一次世界大戦でドイツ人がパリを侵攻しなかったから、第二次世界大戦でもしないだろうって夫が間違った結論を出したから、パリに残ったんだって思ってたんだよね。「母は父よりも早く恐ろしい運命を予感していた。悲観的で、父は楽観的だった」って。ダニエルは自分が母親に似ていて、父親にはあまり似ていないことに気づいてたんだって。
恐怖におびえながら、1942年の冬が近づく頃、リアン=レ=バンっていう海沿いの町に着いたんだって。そこでは、ナチスの協力者だったシュエレの助けで、家を借りることができて、父親は化学の研究室で仕事を続けられたんだって。新しい環境に溶け込むために、両親はダニエルを学校に通わせたんだけど、あまり人と話したり、賢く見えたりしないように言われたんだって。「ユダヤ人だってバレるんじゃないかって心配してたんだ」って。その頃の記憶は、自分が老け込んでて、ガリ勉だったことくらいしか覚えてないんだって。体とのつながりを感じることはほとんどなかった。運動は苦手で、「歩くゾンビ」って呼ばれてたんだって。体育の先生からは、「何事にも限度がある」って理由で、学業賞をもらうのを反対されたこともあったんだって。それでも、鋭くて柔軟で、強い心を持ってたんだって。大人になったらどんな人になりたいかって考え始めた頃から、賢い人になりたいって思ってたんだって。頭だけの人、体がない人。今は、ハンターに追われるウサギ、生き残ることだけが目標、っていうイメージなんだって。
1942年11月10日、ドイツ軍がフランス南部を占領したんだよね。黒い制服を着たドイツ兵がバスから男たちを引きずり下ろして、服を脱がせて、割礼を受けているかどうか調べたんだって。「捕まった人はみんな死んだ」ってダニエルは回想してるんだけど。
父親は無神論者で、若い頃にユダヤ教の輝かしい思想を捨てて、リトアニアからパリに来たんだよね。ダニエルはまだ神への信仰を捨ててなかったんだって。「両親と同じ蚊帳の中で寝てた。両親は大ベッドで、僕は小ベッドで。9歳だった。神様に祈ってた。『神様、あなたは忙しいのはわかってる。大変な時期なのもわかってる。多くは求めません。どうかあと一日だけ生かしてください』」って祈ってたんだって。
生き延びるために、再び逃亡の旅に出たんだって。今度はコート・ダジュール沿いにカーニュ=シュル=メールに向かって、元フランス軍の大佐が管理してる場所に行ったんだって。ダニエルは数ヶ月間、家に閉じこもって、本を読んで過ごしたんだって。「八十日間世界一周」を何度も読んで、イギリスに夢中になったんだって。特にフィリアス・フォッグが好きだったんだって。そのフランス軍の大佐はヴェルダンの戦いの記録がたくさんあったんだけど、ダニエルはそれも全部読んだんだって。父親はまだ海岸沿いの研究室で働いてて、週末になるとバスで家族に会いに来てたんだって。金曜日の夜、ダニエルは母親と一緒に庭に座って、母親の繕った靴下を見ながら、父親が来るのを待ってたんだって。「山の上に住んでて、バス停が見えた。いつになったら無事にたどり着くかわからなかった。それ以来、待つのが嫌になった」って。
ヴィシー政府と賞金稼ぎの協力で、ドイツ軍はユダヤ人を効率的に捜索できたんだよね。父親は糖尿病を患ってたんだけど、病院に行くこと自体が危険だったんだって。また逃げることになったんだって。最初はホテルに隠れて、最後はリモージュ郊外の小さな村にある居酒屋の裏の鶏小屋に隠れたんだって。そこにはドイツ兵はいなくて、フランスの民兵がいたんだって。彼らの仕事は、ドイツ人と協力してユダヤ人を逮捕したり、フランス国内の抵抗勢力を排除したりすることだったんだって。
ダニエルは父親がどうやってそこを見つけたのか知らないけど、ロレアルの社長が関係してるんじゃないかって思ってるんだって。会社から食料が送られてきてたからね。家の中央に仕切りを作って、姉のためのプライベートスペースを作ったけど、鶏小屋はやっぱり住む場所じゃなかったんだって。冬になると、すごく寒くて、ドアが凍り付くこともあったんだって。姉は暖炉のそばで寝ようとして、ネグリジェに穴を開けてしまったんだって。
クリスチャンの義務を果たすために、ダニエルの母親と姉は毎週日曜日に教会に行ってたんだって。10歳になったダニエルも学校に戻ったんだって。鶏小屋にいるよりは、学校にいた方がマシだったからね。そこの田舎の学校の生徒はリアン=レ=バンの生徒よりもレベルが低くて、先生は親切だったけど、あまり才能がなかったんだって。ダニエルが覚えてるのは、生命の起源についての授業だけで、その内容があまりにも馬鹿げてたから、先生が間違ってるって判断したんだって。「絶対にありえない!」って言ったんだって。母親に聞いたら、「その通りだ」って言われたんだけど、それでも納得できなかったんだって。でもある夜、母親の隣で寝てて、夜中にトイレに行きたくなって、母親の上を乗り越えて行かなきゃいけなかったんだって。母親が目を覚ました時に、たまたま息子が自分に乗っかってるのを発見したんだって。「母はすごく驚いてた。だから『やっぱりそうなんだ!』って思った」んだって。
子供の頃から、人のことをあれこれ推測するのが好きだったんだって。なぜそう考えるのか、なぜそうするのか。人から直接得た経験は少なかった。学校には行ってたけど、先生や同級生とは付き合わなかった。ちょっとした知り合いでも命取りになる可能性があったからね。でも、別の角度から見ると、人と距離を置いた生活の中で、いろんな興味深い行動を目撃したんだって。学校の先生とか居酒屋の店主は、自分がユダヤ人だって気づいてるだろうと思ってたんだって。そうでなければ、早熟な10歳の男の子が田舎の学校に通ったり、身なりをきちんとした4人家族が鶏小屋で暮らしたりすることはないだろうって思ったんだって。でも、彼らは何も知らないふりをしたんだって。先生は良い成績をつけてくれて、家に招待してくれたりしたんだって。居酒屋の女将のアンドリュー夫人は、たまにちょっとした手伝いを頼んで、お小遣いをくれたりしたんだって(使うあてもなかったけど)。母親に一緒に売春宿を開こうと誘ったりもしたんだって。もちろん、ほとんどの人は彼らの正体に気づいてなかったんだって。ダニエルが特に鮮明に覚えてるのは、若いフランスのナチス党員で、民兵だったんだけど、姉に恋をして振られたんだって。当時姉は19歳で、映画スターみたいだったんだって。(戦争が終わってから、そのナチス党員は自分がユダヤ人に恋してたことを知って、姉は溜飲を下げたんだって。)
1944年4月27日の夜、この日はよく覚えてるんだって、父親が散歩に連れて行ってくれたんだって。その時父親の口には黒い斑点ができてて、49歳なのに、実年齢よりもずっと老けて見えたんだって。「お前が責任を負うことになるかもしれないって言われたんだ」ってダニエルは回想してるんだけど。「自分のことを一家の主だと思えって言われた。母さんがうまくやっていけるように助けてやれって。お前は家族の中で一番理性的だって言われた。自分で書いた詩集を父親に送った。その夜、父親は亡くなった」んだって。父親の死について覚えてるのは、母親がアンドリュー夫妻のところに一晩泊めてくれたことくらいなんだって。村にはユダヤ人が隠れてて、母親はその人を見つけて、父親の遺体をダニエルが帰宅する前に運び出してくれたんだって。母親はユダヤ式の方法で父親を埋葬したんだけど、ダニエルを葬儀に参列させなかったんだって。危ないと思ったのかもしれない。「彼の死に怒りを感じた」ってダニエルは言うんだけど。「病気になったことはなかったのに、ずっと体調が悪かった」って。
6週間後、連合軍がノルマンディーに上陸したんだよね。ダニエルは兵士を一人も見なかったし、アメリカ兵が戦車に乗って村に入ってきて、子供たちにお菓子をたくさんばら撒くのを見ることもなかったんだって。ある日、目を覚ますと、空気の中に喜びが満ちているのを感じたんだって。フランス民兵団の人はみんな連行されて、銃殺されたり、刑務所に入れられたりしたんだって。ドイツ人と寝た女の人も罰せられて、髪を剃られて街を歩かされたんだって。12月までに、ドイツ人はフランスから完全に追い出されて、ダニエルと母親はパリに戻ることができたんだって。そこには戦前に住んでた家と財産があったんだって。ダニエルは「私の思想日誌」っていうノートを持ってたんだって(「どうしても書き留めておきたかったんだ」って)。パリに着いて、姉の教科書でパスカルの記事を読んだんだって。それが彼の創作意欲を刺激したんだって。当時、ドイツ軍はフランスを再び占領するために、最後の反撃を仕掛けてたんだよね。ダニエルと母親は恐怖に包まれて、ドイツ人が防衛線を突破するんじゃないかって怯えてたんだって。この時期に、彼は人間がなぜ宗教を必要とするのかを説明する短い文章を書いたんだって。冒頭でパスカルの言葉を引用して、「神を信じることは私たちの心を清める」って言って、この言葉は「これ以上ないほど正しい」って評価したんだって。そして、宗教と身体はどちらも人為的に作られたもので、私たちはそれらを通して同じ感情を得るって主張したんだって。それ以来、彼は神を祈りの対象とは考えなくなったんだって。後年、自分の人生を振り返った時、子供の頃のこの衒学的な文章を覚えてて、少し得意げな気持ちにもなり、恥ずかしい気持ちにもなったんだって。少年老成な自分の文体は「私の内なる感情と密接に関係していた。私はユダヤ人として、無用な体を引きずりながら頭脳だけを抱えて、他の子供たちと決して打ち解けることはできないってことを知っていた」んだって。
パリで、戦前に住んでた古いアパートで、ダニエルと母親が見つけたのは、壊れた緑色の肘掛け椅子だけだったんだって。それでもそこに住むことにしたんだって。5年間、ダニエルはユダヤ人であることを隠す必要がなくなり、堂々と学校に通うことができたんだって。その間に、彼は2人の背が高くてハンサムなロシア貴族の男の子と忘れられない友情を築いたんだって。彼にとって、それは楽しくて忘れられない記憶だったんだって。なぜなら、それまでの日々があまりにも孤独だったからね。何年も経ってから、自分のこの記憶を確かめるために、その貴族出身の兄弟に連絡を取ろうと奔走したんだって。2人は建築家と医者になってたんだって。兄弟はダニエルに手紙を送ってきて、ダニエルのことを覚えてると言って、みんなで撮った写真も送ってくれたんだって。でも、ダニエルはその写真の中に自分を見つけられなかったんだって。彼らはきっと自分のことを誰かと間違えてたんだって。その寂しい友情は、彼の想像から生まれたもので、現実には存在しなかったんだって。
ダニエル一家は1946年に、自分たちを受け入れてくれないヨーロッパを離れたんだって。ダニエルの父親の家族は以前リトアニアに残ってて、6000人以上のユダヤ人の仲間と一緒にホロコーストで命を落としたんだって。残ったのはダニエルの叔父だけで、教師だったんだけど、たまたまドイツ兵が押し寄せてきた時に外出していて難を逃れたんだって。彼はダニエルの母親の家族と同じように、パレスチナに住んでたんだって。そこで、ダニエル一家はそこに引っ越したんだって。彼らの到着は地元で話題になり、短い映像も撮影されたんだって(フィルムは行方不明になっちゃったんだけど)。でも、ダニエルが後年そのことについて語る時、唯一触れるのは、叔父が差し出してくれた温かい牛乳のことなんだって。「あの牛乳の色を今でも覚えてる。とても白かった」って。「5年間で初めて飲んだ牛乳だった」って。ダニエルは母親、姉と一緒にパレスチナの祖父の家に引っ越したんだって。そこで1年暮らして、13歳になったダニエルは、自分と神の関係に区切りをつけたんだって。「今でもどこにいたか覚えてる。エルサレムの街路にいたんだ。その時考えてたことを覚えてる。神様がいるって仮定することはできるけど、神様は自分が自慰してるかどうかは知らないだろうって思ったんだ。結論として、神は存在しない。僕の宗教生活はここで終わった」んだって。
子供の頃について聞かれた時、ダニエルが覚えてること、あるいは覚えておこうとすることは、これくらいなんだって。7歳から、誰も信じてはいけないって言われて、その通りにしたんだって。生き残れたのは、自分を人から隔絶して、自分の本当の姿を見せないようにしたからなんだって。彼は世界トップクラスの心理学者、人間の誤った行動の研究分野を開拓した驚くべき権威になる運命だったんだって。数々の研究成果に加えて、人間の意思決定プロセスにおいて記憶がどのような役割を果たすのかを探求することにもなるんだって。例えば、フランス軍がドイツ軍の第一次世界大戦時の軍事戦略の記憶が、第二次世界大戦でのドイツ軍の軍事戦略を誤って判断することにつながったとか、ドイツ人の第一次世界大戦での行動の記憶が、第二次世界大戦でのドイツ人の意図を誤って判断することにつながったとか。あるいは、ユダヤ人を逮捕することを自分の使命としていたヒトラー親衛隊員が、ドイツの遠い場所に住む男の子の記憶が、パリの街角で出会って抱き上げた男の子がユダヤ人であることを認識するのを妨げたとか。
でも、ダニエルは自分の記憶から、それほど多くの関連性を見出せなかったんだって。彼は常に、過去の経験と自分の世界観との間にはほとんど関連性がない、あるいは、世間が自分に抱いているイメージとの間にはほとんど関連性がないと考えてたんだって。何度も問い詰められると、こう言うんだって。「人々は子供時代が一生に大きな影響を与えると考えている。でも、その考えが正しいかどうかはわからない」って。親しい友人にさえ、ホロコーストのことを話したことはなかったんだって。本当に、ノーベル賞を受賞して、ジャーナリストが次々と訪ねてくるようになって、自分の人生の出来事を少しずつ話すようになったんだって。昔からの友人たちは、新聞で彼の過去を知ったんだって。
カーネマンと母親がエルサレムに戻った時、別の戦争が勃発したんだって。1947年の秋、パレスチナ問題はイギリスから国連に委ねられたんだって。国連は11月29日に決議を採択して、パレスチナを正式に2つの国に分割したんだって。新たに設立されたユダヤ国の面積は約コネチカット州と同じくらいで、アラブ国はそれより少し小さいくらいだったんだって。エルサレムは聖地とともにどちらにも属さないことになったんだって。エルサレムに住む住民はエルサレムの「市民」と見なされることになってたんだけど、実際には、アラブ系の市民もいれば、ユダヤ系の市民もいて、2つの派閥は互いに殺し合うことをやめなかったんだって。ダニエル一家が引っ越したアパートは、両派が勝手に決めた境界線の近くにあって、ダニエルの寝室に銃弾が撃ち込まれたこともあったんだって。彼が所属してたボーイスカウトのリーダーも殺されたんだって。
それでも、ダニエルは生活が危険だとは感じなかったんだって。「昔とは全然違う。戦ってるんだから、気持ちが楽になる。ユダヤ人としてヨーロッパで生活してた頃の自分が嫌だった。獲物みたいにいつも隠れてなきゃいけないのが嫌だった。逃げるウサギになりたくなかった」んだって。1948年1月の夜、彼は抑えきれないほどの興奮を覚えたんだって。なぜなら、初めてユダヤ兵を見たからなんだって。38人の若い兵士が住んでるアパートの地下室に集まってたんだって。アラブ兵がこの国の南部地域のユダヤ人入植地を封鎖してて、38人の兵士はそこから出発して、その入植地の住民を救出する予定だったんだって。途中で、3人の兵士が途中で引き返したんだって。1人は足を捻挫して、他の2人が送り返してきたんだって。だから、隊列に残ったのは35人だけで、「35人組」って呼ばれてるんだって。彼らは夜の闇に紛れて静かに進むつもりだったんだけど、翌日の夜明けになっても目的地にたどり着けなかったんだって。途中で、アラブ人の羊飼いに会って、結局解放することにしたんだって、少なくともダニエルが知ってる限りではね。ところが、羊飼いはアラブ兵に通報して、アラブ兵は「35人組」を待ち伏せして、ユダヤ兵全員を殺して、遺体をバラバラにしたんだって。この悲劇を引き起こした決断について、ダニエルは納得がいかないんだって。「彼らがなぜ殺されたか知ってるか?」って言うんだけど。「羊飼いに銃を向けることができなかったからだ」って。
数ヶ月後、赤十字の旗を掲げた医療チームが、ユダヤ人地区からスコパス山に向かって車で向かったんだって。スコパス山はヘブライ大学とその付属病院の所在地で、アラブの境界線に隣接してて、アラブの海に浮かぶユダヤ人の孤島だったんだって。山に入る唯一の通路は2.4キロの小道で、イギリス政府が管理してて、往来する人の安全を確保してたんだって。ほとんどの場合、この道は穏やかだったんだけど、この日は爆弾が爆発して、先頭のフォードのトラックを止めたんだって。すると、アラブ人の機関銃がトラックの後ろのバスと救急車に激しく掃射したんだって。数台の車はすぐにUターンして逃げ出したんだけど、乗客を乗せたバスは立ち往生してしまったんだって。掃射が終わると、車に乗ってた78人は全員死亡してたんだって。死体の体は銃弾で蜂の巣にされてて、結局全員同じ大きな墓に埋められたんだって。彼らの中にはエンツォ・ボナベンチュラっていう学者がいて、9年前にイタリアからやってきて、ヘブライ大学に心理学科を設立しようとしてたんだって。でも、彼の願いは遺体とともに墓の中に消えてしまったんだって。
ダニエルはいつどんな時でも、自分の生死を心配してたことを認めようとしなかったんだって。「私たちは5つのアラブの国を打ち負かした。今となっては信じられないことだけど、とにかく、私たちは何も恐れてなかった。世界が終わるって感じたことはなかった。殺された人がいた、それだけのことだ。でも、第二次世界大戦が終わった時は本当にホッとした」って。母親は明らかに彼ほど楽観的じゃなかったんだって。母親は14歳の息子を連れて、エルサレムからテルアビブに逃げたんだって。
1948年5月14日、イスラエルが独立を宣言して、イギリス軍は翌日に撤退したんだって。すると、ヨルダン、シリア、エジプトなどの国からの軍隊が、イラクとレバノンの武装勢力とともに、イスラエルに攻撃を開始したんだって。エルサレムは数ヶ月間包囲されてて、テルアビブの生活も混乱してたんだって。現在のインターコンチネンタルホテルの隣のビーチには、モスクのミナレットがあって、そこはアラブ人が狙撃兵の隠れ場所に改造してて、ユダヤ人の子供たちの通学路で子供たちを狙撃したんだって。実際にそうしてたんだって。「弾丸が飛び交ってた」ってシモン・シャミールは回想してるんだけど。彼がその戦争が始まった時、テルアビブに住んでて、14歳だったんだって。大人になってから、外交官になって、エジプトとヨルダンの両方に大使として派遣された唯一のイスラエル大使になったんだって。
シャミールはダニエルにとって初めての本当の友達だったんだって。「クラスの他の子供たちは、ダニエルと親しくなるのが難しいと感じてた」ってシャミールは言うんだけど。「彼は群れるのが嫌いで、選んで人と付き合ってた。彼にとって、たとえ友達が一人しかいなくても構わなかった」んだって。ダニエルは1年前にイスラエルに来た時、ヘブライ語が話せなかったんだけど、テルアビブの学校に通う頃には、流暢なヘブライ語を話せるようになってたんだって。しかも、彼の英語の成績はクラスの他の子供たちよりも良かったんだって。「誰もが彼が頭が良いと思ってた」ってシャミールは言うんだけど。「冗談で『お前は将来有名になるぞ』って言ったことがあったけど、そういうことを言うと彼はいつも居心地が悪そうだった。僕は占い師じゃないけど、その時は本当に、彼には素晴らしい未来が待ってるって感じてた」んだって。
ダニエルが人と違うってことは、誰もが見てわかったんだって。意識してそうしてるわけじゃなくて、本質的にそうだったんだよね。「彼はクラスで唯一、英語の発音を真剣に直してた」ってシャミールは言うんだけど。「他の人はみんなそれを滑稽だって思ってた。彼は色んな面で私たちと違ってた。ある意味、彼は部外者だった。それは難民だったからってわけじゃなくて、性格的なものだった」んだって。ダニエルは14歳の男の子っていうより、子供の体をした老学者みたいだったんだって。「彼はいつも何かに夢中になってた」ってシャミールは言うんだけど。「ある日、彼が自分で書いた文章を見せてくれたのを覚えてる。不思議に思ったんだ。文章なんて学校から押し付けられたもので、課題をこなすために書くものだったのに。ダニエルは授業内容とは全く関係のないテーマについて長々と書いてた。ただそのテーマに惹かれたから。それがとても印象に残ってる。彼はイギリス紳士とヘラクレス時代のギリシャ貴族の性格を比較してたんだ」って。シャミールは、他の子供たちが周りの大人から知識を得ている時に、ダニエルは本から、自分の考えから答えを探し始めてることに気づいたんだって。シャミールは言うんだけど。「彼は理想、手本を探してたんだと思う」って。
イスラエル独立戦争は10ヶ月続いたんだって。戦前、このユダヤ人国家の国土面積はコネチカット州の大きさしかなかったんだけど、戦争が終わる頃には、ニュージャージー州よりも広くなってたんだって。イスラエル国民の1%が戦争で死亡して(ニュージャージー州の9万人に相当する)、アラブ人の死者は1万人を超え、75万人のパレスチナ人が家を失って、難民になったんだって。ダニエルの母親は戦後、ダニエルを連れてエルサレムに戻ったんだって。そこで、ダニエルは人生で2番目に親しい友人、イギリス人のエリック・キンズバーグと出会ったんだって。
テルアビブの生活も大変だったけど、エルサレムの状況はそれ以上だったんだって。カメラとか電話とか、ベルとか、そういうものを持ってる人はほとんどいなかったんだって。友達に会いたかったら、歩いて探しに行って、ドアをノックするか口笛を吹いて呼び出すしかなかったんだって。ダニエルはいつもエリックの家まで歩いて行って、口笛で呼び出して、一緒にYMCAに行って、泳いだり、卓球をしたりしてたんだって。2人は一緒にいる時、ほとんど何も話さなかったんだって。ダニエルはその状態が好きだったんだって。エリックはフィリアス・フォッグを思い出させたんだって。「ダニエルは特別だった」ってエリックは言うんだけど。「人と人との間に壁があるのを感じてたけど、その壁は彼が意識的に維持してた。ある意味、行き着くところまで行ってたんだ。俺は彼の唯一の友達だった」って。
独立戦争が終わってから数年もしないうちに、イスラエルのユダヤ人の数は2倍になったんだって。60万人から120万人に。世界中どこを探しても、イスラエルほど新しくやってきたユダヤ人を地域社会に溶け込ませるために、これほど大規模な奨励策を講じた国はなかったんだって。でも、ダニエルは精神的にどうしても溶け込むことができなかったんだって。彼は生まれ育ったイスラエル人が好きで、自分と同じように外国から来た移民は好きじゃなかったんだって。でも、彼自身はイスラエル人とは全く違ってたんだよね。ほとんどのイスラエルの子供たちと同じように、ボーイスカウトに入ったけど、そこは自分たちの居場所じゃないって気づいてすぐに辞めたんだって。驚くほどの速さでヘブライ語を習得したけど、家では母親とフランス語しか話さなかったんだって、しかも怒りながら。「幸せな家庭じゃなかった」ってエリックは言うんだけど。「母親は不満だらけだった。姉はチャンスをうかがって、すぐに家を出た」って。ダニエルは自動的に有効になるイスラエル人のアイデンティティを受け入れず、ただ身を寄せられる場所として受け入れただけだったんだって。
イスラエルの国籍が彼にとって何を意味するのかを言うのは難しい。なぜなら、彼は元々捉えどころのない人だったからなんだよね。彼はどこにも落ち着きたくないみたいだったんだって。彼は何かに執着することがほとんどなかったし、執着したとしても、それは疎遠で一時的なものだったんだって。ルース・キンズバーグは当時エリックのガールフレンドだったんだけど、彼女は言うんだって。「ダニエルは早い段階で責任から逃れることを決意してた。私の感じだと、彼の心はいつも根無し草であることを言い訳してた。彼は根を必要としない人で、人生は一連の偶然の出来事で構成されてると考えてた。物事はこういう形で起こることもあれば、別の形で起こることもある。唯一できることは、この世俗的な世界で偶発的な出来事を最大限に利用することだ」って。
土地と人々を切望してる国で、ダニエルが土地や人々に対して抱いてる疎遠な態度は、彼を特に異質な存在にしてたんだよね。「私は1948年にイスラエルに来て、彼らの一員になりたいと強く願ってた」ってイェシュア・クロドニーは回想してるんだけど。彼は現在ヘブライ大学の地質学教授で、ダニエルと同い年で、親戚もホロコーストで全員亡くなったんだって。「サンダルを履いて、ズボンの裾をまくり上げて、あらゆる谷や山の名前を覚えたかった。一番やりたかったのは、ロシア訛りを直すことだった。自分の過去について、誰にも言えないような恥ずかしさがあったんだ。私は同胞の英雄たちを崇拝し始めた。ダニエルは違った。彼はこの場所を見下してた」んだって。
ダニエルは「ロリータ」の著者、ウラジーミル・ナボコフと似てるところがあったんだって。2人とも難民で、周囲の世界と距離を置いてて、少しばかり気取ったところがあって、鋭い目で地元の人たちを見てたんだって。15歳の時、ダニエルは職業適性検査を受けたんだけど、その結果、彼は人文科学か科学研究の分野に進むことになるだろうって示されたんだって。それは彼の予想通りだったんだって。
彼はいつも将来、何かの分野の教授になるだろうと思ってて、最も興味のある研究対象は人間だったんだって。ダニエルは言うんだけど。「心理学に興味を持ったのは、哲学を理解するためだった。世界を理解するために、人はなぜ、特に自分はなぜ、こんな風に世界を見るんだろうって研究しようとしたんだ。その頃には、神が存在するかどうかとかはもうどうでもよくて、人がなぜ神の存在を信じるのかを知りたかったんだ。紛争で誰が正しいとか間違ってるとかじゃなくて、怒りっていう感情がどうやって生まれてくるのかを知りたいと思ったんだ。それこそが心理学者が解決すべき問題なんだ!」って。
ほとんどのイスラエル人は高校を卒業するとすぐに、兵役に就かなきゃいけなかったんだよね。ダニエルが学業で発揮した並外れた才能のおかげで、高校を卒業するとすぐに大学に入学して、心理学の学位を取得することができたんだって。どうすればそれを実現できるのかよくわかってなかったんだけど、この国で唯一の大学はアラブ人の境界線の近くにあって、大学に心理学科を設立する計画も、アラブ人の待ち伏せ攻撃によって頓挫してたんだって。そこで、1951年の秋のある朝、17歳のダニエル・カーネマンは、エルサレムの修道院に開設された数学の授業に参加したんだって。そこはヘブライ大学が一時的に選んだいくつかの教育拠点の1つだったんだって。そこでもダニエルは場違いな感じがしたんだって。ほとんどの学生は3年間の兵役を終えてからここに来てて、戦争を経験した人もたくさんいたんだって。ダニエルは年下で、いつもジャケットを着て、ネクタイをしてたから、クラスメートから見たら変人だったんだって。
その後の3年間、先生のレベルが低かったから、ダニエルはほとんど独学で専門分野の膨大な知識を習得したんだって。「統計学の先生は好きだった」ってダニエルは回想するんだけど。「でも、彼女は統計学のことを何も知らなかったから、自分で本を読んで学んだんだ」って。大学で専門家集団に出会ったというよりは、個性的な人々と知り合ったって感じなんだって。彼らのほとんどはヨーロッパからの難民で、たまたまイスラエルを安住の地として選んだんだって。「先生たちは総じて人格的な魅力があって、講義要綱を書くだけじゃなくて、伝記も書いてた。彼らは普通じゃない経験をしてた」ってハヴィシャム・マグリットは回想してるんだけど。彼はすぐにヘブライ大学を離れて、スタンフォード大学を含むいくつかの場所で哲学教授を務めることになってたんだって。