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Calculating...

ええと、皆さん、こんにちは。今日は、ちょっと、うーん、信仰というか、ものの見方について話したいと思います。

そうですね、皆さん、「裸の王様」って童話、知ってますよね?王様が、まあ、詐欺師に騙されて、実は何にも着てないのに、周りの人が誰も「王様は裸だ!」って言えない、あの話。

あの話って、今の時代にも、すごく当てはまることって、結構あるんじゃないかなって思うんです。例えば、あるアメリカの大学で、学生にインタビューしてる動画を見たことがあるんですけどね。リポーターの人が、「もし僕が女性だって言ったら、どう思いますか?」って聞いたんですよ。そうしたら、学生さんが、にこやかに「いいと思います!応援します!」みたいなことを言うんですよね。

別の学生さんも、「お会いできて嬉しいです」とか、また別の学生さんは、肩をすくめて「別に問題ないです」とか。リポーターの人が、今度は「僕は7歳です」とか「身長は2メートル近くあります」とか「中国人です」とか、色々言ってみるんですけど、みんな、同じような反応なんですよ。「いいと思います!そのままでいてください!」みたいな。

なんか、今の時代って、自分が信じたいことが現実になる、みたいな風潮、ありませんか?自分がどう感じるか、それが一番大事、みたいな。突拍子もないことでも、無理やり通そうとする人がいたりして。

もちろん、人の気持ちを尊重するってことは、すごく大事だと思うんです。僕だって、子供の頃、自分がスーパーマンだと思って、パジャマとか靴下とかでコスチュームを作って、家の中を飛び回ってましたよ(笑)。でも、親も姉も、誰もそれを否定しなかった。それはそれで、良かったと思うんです。

でもね、社会全体が、そういう「ごっこ遊び」に、どこまで付き合えばいいのか?っていう問題もあると思うんですよ。

例えば、ある小児性愛者の人が、「自分は8歳の女の子だ」って主張して、児童ポルノを所持してた事件があったんです。彼は、「これは自分の表現の自由だ」って言ったんですよね。幸い、裁判官は、そんな主張を認めずに、彼を刑務所に送りましたけど。

それから、最近よく話題になるのが、トランスジェンダーの選手、特に、体の構造が男性の選手が、女性として競技に出場して、圧倒的な強さを見せる、みたいなケース。これは、女性スポーツの公平性を損なうんじゃないか、っていう議論も、すごく熱くなっていますよね。

うーん、難しい問題ですけど、要は、どこまでが許容範囲なのか?っていうことだと思うんです。

で、皆さん、自分自身について、どう思ってますか?例えば、「もっと若く見られたい」とか「もっと痩せていたい」とか「もっと頭が良くなりたい」とか。あるいは逆に、「自分はもっともっと美しくない」とか「昇進する資格がない」とか「幸せになる価値がない」とか、思ってたりしませんか?

誰だって、何かしらの幻想を抱いて生きてると思うんです。でも、そういう幻想って、ある程度は、プラスに働くこともあると思うんですよね。例えば、俳優を目指してる人が、アカデミー賞でスピーチしてる自分を想像するとか、医学研究者が、がんの治療法を発見してノーベル賞をもらう姿を思い描くとか、天文学者が、宇宙人の存在を証明するとか。

そういうポジティブな自己イメージを持つことは、自分を鼓舞する上で、すごく有効な手段だと思うんです。

問題は、そういう自己欺瞞が、自分の精神的、肉体的、感情的な健康、そして人間関係に、どれだけ影響を与えるのか?っていうことですよね。

で、ここからが本題なんですけど、皆さんの「世界観」って、一体どんなものですか?自分の現実を、どう捉えてますか?自分自身について、他人について、人生について、どんな信念を持ってますか?

「世界観」っていうのは、自分の信念の総体です。それが、自分の考え方、感じ方、行動、言動、服装、話し方、態度、すべてを決定するんです。

世の中には、色んな「世界観」がありますよね。無神論、科学的、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、仏教、ヒンドゥー教…色々ありますけど、もし、既存の「世界観」を選ぶなら、それは、既製品を買うようなものだと思うんです。

でも、最近は、「カスタマイズ」も可能ですよね。例えば、科学的な世界観とキリスト教的な世界観を組み合わせるとか。でも、矛盾する「世界観」を、無理やり混ぜ合わせるのは、ちょっと危険かな、とも思います。

で、自分の「世界観」を考える上で、3つの質問を自問自答してみるといいと思うんです。

1. 自分の「世界観」の土台は何ですか?
2. 自分の「世界観」の大きさはどれくらいですか?
3. 自分の「世界観」の中心は何ですか?

この3つの質問に答えることで、普段は意識していない自分の「世界観」を、客観的に見つめ直すことができると思うんです。

まず、「世界観」の土台についてですけど、どんな「世界観」であれ、それは、信仰に基づいていると思うんです。証明できない考えや感情に基づいている。たとえ、エビデンスに基づいた「世界観」であっても、証明できない公理的な信念に基づいている。

つまり、無神論的な「世界観」であっても、信仰に基づいていると言えると思うんです。

で、ここでもう一つ重要なのが、すべての信仰が平等に作られているわけではない、っていうことです。知能指数(IQ)に基づいた信仰もあれば、心の知能指数(SQ)に基づいた信仰もある。啓発された信仰もあれば、誤った信仰もある。

理想的な「世界観」は、啓発されたIQとSQに基づいた信仰に基づいているべきだと思うんです。

次に、「世界観」の大きさについてです。僕自身は、最初は、科学的な無神論の世界観を持っていました。でも、大学院に進学して、相対性理論とか量子力学とか、論理的に理解できない概念に触れるうちに、自分の「世界観」が、どんどん広がっていったんです。科学的な世界観だけでなく、聖書の神やイエス、聖霊への信仰も受け入れられるようになった。

皆さんの「世界観」は、どれくらいの大きさですか?

そして最後に、「世界観」の中心についてです。

「世界観」は、ある意味、その人の宗教だと思うんです。無宗教の人でも、「世界観」は持っている。で、その「世界観」の中心に何があるのか?それが、その人の神様なんです。それが、その人の人生の中心にあるもの。その人が崇拝するもの。

それが、聖書の神なのか、寛容さの神なのか、成功の神なのか、あるいは、特定の人なのか、特定の原則なのか。それが、その人の神様であり、「世界観」の中心にあるものなんです。

昔は、地球が宇宙の中心なのか、太陽が宇宙の中心なのか、っていう議論がありましたよね。同じように、皆さんの「世界観」は、地動説ですか?天動説ですか?

もし、自分自身や自分の感情が、自分の宇宙の中心にあるなら、それは、地動説的な「世界観」です。それは、自分自身よりも大きく、重要なものを想像できない、狭い視野の「世界観」です。

僕自身も、長い間、そういう「世界観」を持っていました。科学者になることだけが、僕の宇宙の中心にあった。それ以外のことは、どうでもよかった。

でも、地動説的な「世界観」を持つ人は、自分自身や自分の感情以外のものを崇拝します。科学的な世界観やキリスト教的な世界観は、その良い例です。どちらも、利己的な感情よりも、無私無欲や絶対的な真実を大切にすることを教えてくれます。

で、自分の「世界観」が、理想的な「世界観」に比べて、どれくらい優れているのか?っていうのは、すごく重要な問題だと思うんです。なぜなら、それが、自分が「タイタニック・モーメント」に、どれだけ備えられているのか?を決定するからです。

「タイタニック・モーメント」っていうのは、自分を打ち砕こうとする危機のことです。自分の心の平和を脅かすもの。自分の命を脅かすもの。

僕自身は、北大西洋の海底で、そういう経験をしました。

そういう時、「世界観」は、自分の最も価値のある財産になります。

自分の「世界観」は、危機を乗り越えるための武器になるのか?それとも、足枷になるのか?

自分の信念が、自分の状況の見方を決定し、その見方が、自分の行動を決定する。

「信じることは見ることなり」なんです。

タイタニック号を設計した技術者は、タイタニック号は不沈船だと信じていました。その信念が、彼らの現実を定義し、その結果、彼らは、船に十分な救命胴衣や救命ボートを積む必要はないと考えました。

もし、彼らが、タイタニック号は不沈船ではないと信じていたら、まったく違う結果になっていたはずです。彼らの誤った「世界観」は、1500人以上の死者を出した原因の一つになりました。

タイタニック号の乗客も、タイタニック号は不沈船だと信じていました。その結果、彼らは、氷山地帯を通って北大西洋を航海することに、大きな危険を感じませんでした。

「信じることは見ることなり」。

もし、自分の現実が、絶対的な現実と大きくかけ離れている場合、「タイタニック・モーメント」が訪れた時、自分の「世界観」は、自分の船を沈めてしまうでしょう。

論理学者のクルト・ゲーデルは、ナチスの台頭を恐れて、自分の親友が暗殺されたというニュースを聞いた時、自分も毒殺されるのではないか?と思い込みました。彼は、妻が作った料理しか食べようとしなくなりました。

その後、彼はアメリカに亡命し、プリンストン大学で活躍しましたが、その恐怖は消えませんでした。妻が病気で倒れた時、彼は食事を拒否し、餓死してしまいました。彼の誤った「世界観」が、彼の現実となり、彼の命を奪ったのです。

「信じることは見ることなり」。

だからこそ、もう一度、皆さんにお聞きします。何を信じていますか?皆さんの現実は何ですか?皆さんの「世界観」は何ですか?どれくらいの大きさですか?そして、誰が、または何が、皆さんの神様ですか?

そして、人生において大きな夢を持つことは、すごく大切なことだと思うんです。

キング牧師は、「私には夢がある」という演説で、「いつの日か、すべての谷は高められ、すべての丘と山は低められ、険しい道は平らになり、曲がった道はまっすぐになる」と語りました。

キング牧師の夢が、完全に実現することはないかもしれませんが、それは、アメリカ社会をより良い方向に変える、公民権運動を動かす原動力となりました。

僕自身の科学者になるという夢は、僕をイーストLAからUCLA、コーネル、ハーバードへと導いてくれました。

でも、途中で諦めていたら?最初の夢だけを叶えていたら?きっと、今でもどこかの研究室に閉じこもっていたでしょう。

科学者になるという夢を追い求める中で、僕の「世界観」は、大きく変化しました。見えるもの、証明できるものだけでなく、見えないもの、証明できないものも含む、ヘリオセントリックな「世界観」へと変化していったんです。

その結果、僕は、子供の頃の夢を実現しただけでなく、もっと壮大なもの、つまり、自分の運命を発見することができたんです。

運命というのは、神様が自分の人生に用意してくれた、唯一無二の目的のことです。それは、神様によってあらかじめ定められていますが、最終的には、自分自身の選択によって決定されます。

夢は、自分自身から生まれます。しかし、キリスト教的な世界観では、運命は、自分の創造主である神様から生まれます。

夢は、心温まるものであり、善意に満ちたものであり、利他的なものであるかもしれませんが、その本質は、地上の小さな世界観から生まれます。一方、運命は、貧困や謙虚さ、そして苦痛を伴うこともありますが、その本質は、天国の広大な世界観から生まれます。

運命は、特定の成果によって定義されるのではなく、人格によって定義されます。言い換えれば、運命は、何になるか?ではなく、誰になるか?なのです。キリスト教では、理想的な人格は、キリストのような人格です。

運命は、単なる目的地ではありません。それは、決して直線的な道を進むことのない旅です。それは、驚くような紆余曲折、行き詰まり、そして落胆に満ちた旅です。そして、それは、一生涯続く旅ではなく、永遠に続く旅です。

運命は、必ずしも夢と対立するものではありません。しかし、多くの場合、夢と対立し、そしてほとんどの場合、夢よりもはるかに壮大で、息を呑むようなものです。重要なのは、運命と夢の根本的な違いを認識することです。

では、どうすれば、自分の運命を見つけることができるのでしょうか?それは、意図的に探し求めることです。

僕自身は、自分の運命を見つけたと信じています。そして、今、それを生きていると信じています。

今、僕は、今まで生きてきた中で、最も充実感と心の平安を感じています。まるで、1000馬力のスポーツカーが、すべてのシリンダーで点火しているかのように。まるで、飛行機が、ジェットストリームに乗って、まさに最適な高度にいるかのように。まるで、オリンピック選手が、ゾーンに入っているかのように。

僕の運命は、世界の宗教を探求し、科学や論理だけでは答えられない、深い問いに、厳密な答えを求めることでした。

僕の運命は、ローレルと出会い、彼女と一緒に聖書を読み、結婚することでした。

僕の運命は、フレッド・グラハムと出会い、彼の目に留まり、全国的なテレビの特派員になることでした。

僕の運命は、寛容さについての、受賞歴のある家族映画を制作し、それによって、莫大な金額を寄付する人たちの、並外れて無私無欲な世界に触れることでした。

僕の運命は、信仰の比類なき力と、それが科学とキリスト教の両方にとって、いかに重要であるかを説明する、世界的な講演者になることでした。

僕の運命は、本を書くことでした。

皆さんの運命は、夢よりもはるかに素晴らしく、満足でき、意味のあるものなのです!

キング牧師は、1968年に、自分の命があとわずかしかないことを予感していたと言われています。そして、その予感通り、彼は暗殺されてしまいました。

キング牧師の言葉に、僕は強く共鳴します。「何も心配していません」。その言葉を聞くと、僕自身の「タイタニック・モーメント」を思い出します。

北大西洋の海底で、死に直面した時、僕は、同じように、不思議なほどの平安を感じました。僕の状況は、混乱、警戒、そして無益さを叫んでいましたが、僕の「世界観」は、僕に知恵、平静さ、そして勇気を与えてくれました。

夢を追い求めるだけでなく、自分の運命を探し求めてみてください。

皆さんは、「タイタニック・モーメント」に直面していますか?もしそうなら、皆さんの現実は、絶対的な現実に比べて、どれくらい優れていますか?

その答えは、皆さんが何を信じているか?によって決まります。皆さんの「世界観」によって決まります。

だから、もう一度お聞きします。皆さんの「世界観」は何ですか?

それは、皆さんの運命を包含するのに十分な大きさですか?それとも、見えるもの、証明できるもの、想像できるものだけを信じるほど、小さいですか?

それは、見えないもの、証明できないもの、想像できないものの存在を許容するのに十分な大きさですか?それとも、「見ることが信じること」という、視野の狭い、論理的な、唯物論的なモットーに従って生きていますか?

もしそうなら、僕は皆さんに、「信じることは見ること」という、宇宙的な、超論理的な、形而上学的な原則に従って生きることをお勧めします。

研究によると、ほとんどの人は、26歳までに自分の「世界観」を決定してしまうそうです。だから、先延ばしにしないでください。そして、誰にも、自分の代わりに選択させないでください。最も重要なのは、啓発されたIQとSQに基づいた信仰、そして、利用可能な最も信頼できる証拠に基づいて選択することです。

僕がそうしたように、宿題をしてください。科学的、無神論的なものを含む、さまざまな「世界観」を研究してください。質問をしてください。正直で厳密な答えを求めてください。

僕は、特定の「世界観」を擁護するために、この本を書いたのではありません。僕が、自分の「世界観」を、どのように、そしてなぜ選んだのか?を説明するために書きました。

真実を擁護するために、この本を書いたのでもありません。真実は、擁護を必要としません。真実は、ライオンのようなものです。ただ解き放てば、それは、自分自身を守ってくれるでしょう。

それが、ここでの僕の目的でした。真実を解き放つこと。あとは、それを使って、何をするのか?を決めるのは、皆さん自身です。じゃあ、今日はこの辺で。またね!

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