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えーっと、幸福って、一種のスキルだと思うんですよね。
10年前かな?もし誰かに「幸せですか?」って聞かれたら、たぶん、うーん、上手くかわしてたと思う。「幸せ」について話したくなかったから。
もし幸福度を10点満点でつけるとしたら、当時の僕は2点か3点くらいだったかな。調子がいい時で、まあ、4点とか。でも、正直、当時の僕にとって幸福って、あんまり重要じゃなかったんですよね。
それが、今となっては、幸福度は9点くらい。お金があると確かに幸福度は上がるんだけど、実は、お金の役割ってほんのちょっとで。幸福度が上がった一番の理由は、時間が経つにつれて、自分が幸せになることが一番大事だって気づいたこと、かな。それに、自分の幸福度を高めるための色んなテクニックを、まあ、色々試してみたって言うか。
だから、幸福って、遺伝とか、そういうのとは関係なくて、ええと、選択とかでもない。むしろ、個人個人にすごく関係が深くて、後からでも習得できるスキルだと思うんですよね。筋トレで体を鍛えたり、食事で栄養を摂るのと同じように。
思うんですけど、幸福って、他の大きなテーマと同じように、時代とか場所とかで意味が変わってくるんじゃないかな。子供の頃って、よくお母さんに「死んだらどうなるの?」とか「サンタさんって本当にいるの?」とか「神様は本当にいるの?」とか「私は幸せになるべきなの?」とか「誰と結婚すればいいの?」とか聞いたりするじゃないですか。でも、そういう質問って、はっきりした正解がないんですよね。だって、全ての人に当てはまる答えなんてないから。もちろん、最終的には答えが出るんだけど、その答えは、あくまでもその人だけのもの。
ある人にとっての真実が、別の人にとっては嘘だったりするし、その逆も然り。僕が理解している幸福と、あなたが理解している幸福は、もしかしたら全然違うかもしれない。だからこそ、自分がどういう幸福を求めてるのか、探求することがすごく大事だと思うんですよね。
知り合いの中には、幸福はフロー状態だって言う人もいるし、欲望が満たされた状態だって言う人もいるし、満足することこそが幸福だって言う人もいる。僕自身の幸福の定義も、どんどん変わってるし。一年前の僕が答えた答えと、今の答えは全然違う。
今の僕が思うに、幸福って、特に何かをしなくてもいい状態、かな。生活から「欠乏感」を取り除くと、自然と幸福感が湧いてくる。
人間って、すごく主観的な意識を持った生存・繁殖マシーンだから、常に周りのことを評価してるんですよね。「あれが欲しい」とか「これが欲しい」とか思って、欲望の渦にハマっちゃう。幸福って、そういう欠乏感がない、満たされた状態のこと。人生に何も足りないものがないと感じている時、脳みそが休んでる状態になる。過去を悔やんだり、未来を夢見たりしない。
欠乏感がない短い時間の間、心は穏やかになる。心が穏やかな時、満足してるし、幸せ。もちろん、僕の意見に賛成しなくても全然いいんだけど。でも、繰り返すけど、人それぞれだし、幸福の理解もそれぞれ違うから。
よく、ポジティブな考え方とか行動を幸福と同一視しがちだけど、色々本を読んだり、知識が増えたり、経験を積んだりするうちに、実は、ポジティブな考え方って、必ずネガティブな考え方を含んでるって気づいたんですよね。ポジティブとネガティブって、表裏一体の概念だから。《道德经》っていう中国の古典にも詳しく書かれてるけど、万物には二元性とか極性がある。例えば、今「私は幸せ」って言ったら、それは、どこかの時点で「私は悲しい」って思ったことがあるってこと。誰かを「魅力的」って言ったら、それは、他の誰かは魅力的じゃないってこと。ポジティブな考え方にはネガティブな考え方の種が含まれてるし、その逆も然り。だからこそ、人生の素晴らしさは、苦しみから生まれることが多い。ネガティブな面を知らないと、ポジティブな面を憧れたり、感謝したりできない。
僕にとって、幸福はポジティブな考え方とか、ネガティブな考え方がない状態のことじゃない。幸福は、何も欲しがらない状態。特に、外側のものに対する欲求がないこと。欲望が少なければ少ないほど、物事のありのままを受け入れられるし、心が穏やかになる。「万般の悩みは心が動くことに起因する」って言うけど、心が常に未来を計画したり、過去を悔やんだりしてる状態のこと。今に生きれば生きるほど、幸せを感じるし、満足感も感じる。でも、今感じてる幸せを掴もうとしたり、ずっと幸せでいたいと思ったりすると、長続きしない。だって、その時点で心が動いてるし、欲が出てるし、一時的な状況を永遠にしようとしてるから。
僕にとっての幸福の意味は、主に苦痛がないこと、欲望がないこと、未来や過去に囚われないこと、そして、今を、現状を、現実を、ありのまま受け入れること、かな。
もし心の平穏を得たいなら、全ての物事に対して善悪の判断を超越する必要がある。
自然には、幸福とか不幸とかいう概念がない。宇宙のビッグバンから今に至るまで、自然は完璧な数学的法則と因果関係に従って発展してきた。自然の全ては、完璧な状態。幸福とか不幸は、僕たちの脳みそにだけ存在する。欲望があるから、物事に「完璧」とか「不完璧」っていうレッテルを貼ってしまう。
世界は、個人の感情を映し出す鏡。現実は中立で、判断しない。木は、正しいとか間違ってる、良いとか悪いっていう概念がない。人生を生きていく中で、僕たちは色んな感覚体験とか刺激を受ける。耳で聞いて音になり、目で見て色になる。どう考え、判断し、どう受け止めるかは、自分次第。選択権は自分にある。
僕が言う「幸福は選択」っていうのは、そういう意味。もし幸福が選択だと思えるなら、そう選択すればいい。
感情は外からの影響だって思われがちだけど、実はそうじゃない。
時間が経つにつれて、自分はちっぽけな存在だって思うようになった。大海の一滴みたいなものだって。そう思えるようになってから、幸福感を感じやすくなった。もし自分が宇宙で一番重要な人間だと思ったら、宇宙全体を自分の意志に従わせようとするじゃないですか。だって、自分が一番重要な存在なんだから、宇宙は自分の思い通りになるべきだって思う。もし宇宙が自分の思い通りに動かなかったら、おかしいって思う。
でも、自分を細菌とかアメーバみたいに思って、自分の人生の努力を水面に文字を書くこととか、砂浜に城を建てることみたいに思えば、人生に「こうあるべきだ」みたいな期待をしなくなる。人生はこうだし、現実はこう。それを、ただ受け入れる。そうすれば、幸せかどうかとか、そういう考えがなくなる。「幸福」は、客観的な存在じゃなくて、主観的な感情だから。
幸福は、欠乏感を解消した後の感情。
「幸福」と「不幸」を取り除いた状態が、中立な状態。でも、中立な状態は、退屈ってわけじゃない。中立な状態は味気なくて、情熱がないって思われがちだけど、そうじゃなくて、子供の状態が中立な状態。子供って、いつも楽しそうじゃないですか。それは、周りの環境とか、今に没頭してるから。環境を自分の好みに合わせようとか、欲望を満たそうとか思ってないから。中立な状態は、実は完璧な状態だと思う。自分の考えに溺れなければ、欲望に執着しなければ、幸せになれる。
人生はあっという間。暗闇の中の蛍火みたい。時の流れは一瞬で、白馬が隙間を通り過ぎるみたい。生きるってことは、一分一秒を最大限に活用すること。「最大限に活用する」って、つまらない欲望を追いかけることじゃなくて、自分がこの星にいる一分一秒が、とても貴重だって気づくこと。人間として生まれてきたからには、自分の幸福を確保する責任があるし、物事を最高の形で解釈する責任がある。
人は、三つ子の魂百まで、って言うけど、実は、僕たちは変化できる存在で、世界は基本的に変わらないもの。
瞑想は現実を受け入れるのに役立つかって?
まあ、役立つけど、効果は微々たるものかな(笑)。瞑想を長く続けてても、誰かに何か言われたりして、刺激されたら、平和な状態は一瞬で崩れて、また自我に振り回される状態に戻っちゃう。例えるなら、1キロのダンベルを持ち上げる練習をしてる時に、いきなり巨大なバーベルを渡されて、さらに頭の上に皿を積み重ねられたみたいな感じで、とてもじゃないけど対応できない。
瞑想は、何もしないよりはマシ。でも、瞑想してても、本当に辛いこととか、感情的な苦痛が来た時は、なかなか対処できない。だから、本当の幸福は、心の平穏の副産物で、主な原因は、現実を受け入れること。外側の環境を変えることじゃない。
理性が強い人は、訓練することで、無感動な反応を身につけられる。つまり、自分がコントロールできないことを無視する方法を学ぶ。
僕は、自分のアイデンティティを下げて、
脳の中のノイズとか雑念をシャットアウトして、
どうでもいいことを気にしないようにして、
政治に関わらないようにして、
不機嫌な人から遠ざかって、
時間を大切にして、
哲学書を読んで、
瞑想して、
幸せで満足してる人と付き合うようにしてる。
これらの方法は効果がある。
着実に、段階的に、自分の幸福度を上げることができる。まるで、体力トレーニングみたいに。