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えー、皆さん、こんにちは。今回のテーマは、「みんなが蝶」。なんかちょっとポエムっぽいタイトルだけど、要は、僕ら一人ひとりがどうやって世界を変えてるかって話なんだよね。
よくあるじゃん?「本気を出せば世界は変えられる!」みたいなモチベーションポスター。あれ、実はもうすでに実現してるんだよ。だって、今こうして僕が書いてる言葉をあなたが読んでる時点で、あなたの脳みそは微妙に変化してるわけ。もしこの一文を読んでなかったら、世界は今と違ってたんだよ、文字通り。あなたのニューラルネットワークはもうすでに変わっちゃってて、それが、本当にごくごくわずかだけど、あなたのこれからの行動に影響を与えるんだよね。その影響がどんな連鎖反応を起こすかなんて誰にもわからないけど、複雑に絡み合ったシステムの中では、無意味なことなんて何もないんだよ。全てが重要。
これって、ちょっと抽象的すぎるって思うかもしれないけど、例えばさ、あなたが、あるいはもうすでに、新しい命をこの世に誕生させるって決断をしたとするじゃん?細かい話は置いといて、赤ちゃんが受胎する瞬間って、本当に偶然の要素が強いんだよね。その日に、どんな些細なことでもいいから何かを変えたら、違う子が生まれてくるんだよ。いきなり息子じゃなくて娘になったり、その逆だったり、あるいは、ただ違う息子、違う娘だったり。兄弟姉妹って、意外なほど違う方向に成長したりするから、誰が生まれるかっていう変化は、あなたの人生、そして数え切れないほど多くの人々の人生を大きく変えちゃうんだよね。
でも、大切なのは子供が受胎するその一日だけじゃないんだよ。あなたの人生の全ての瞬間に、その偶然性が積み重なってるんだ。まるで鎖みたいに連なったあなたの人生の全ての出来事が、今ここにいるあなた、つまり、その子が生まれるために、完璧にその通りじゃなきゃいけなかったんだよね。それはあなたにも、僕にも、みんなに当てはまることなんだよ。
もう一度言うけど、モチベーションポスターは僕らを過小評価してるんだよね。「あなたは百万人に一人!」とか、元気いっぱいに叫んでるけど、実際は違うんだよ。平均して、あなたの片割れになるために、何千万ものライバルを蹴落としてきた精子なんだから。
あなたは重要なんだよ。これは自己啓発のアドバイスじゃないんだ。科学的な事実なんだ。もしあなたじゃなくて、あなたに負けて生まれてこなかった別の誰かが生まれていたら、数えきれないほど多くの人々の人生が大きく違ってたはずだし、世界も違ってたはずなんだよ。全ての命のさざ波は、予想もできない形で、永遠に広がり続けるんだよね。
これって、本当に畏敬の念を抱かせるような真実だと思わない?でも、現代社会では、僕らの多くが、巨大で冷たい機械の、簡単に交換できる歯車みたいに感じてるんだよね。グローバル企業がどんどん巨大化して、近所の店じゃなくてコールセンターに頼ることが増えてる現代社会では、僕らはまるで誰でも同じように感じさせられてるんだ。労働者はロボットみたいに手順書とかチェックリスト、台本通りに動いて、効率化の名の下に個性を奪われていくんだよね。人間が、まるで食事をするロボットみたいに感じてしまうんだよ。それは人間性を奪う行為なんだ。誰がクランクを回しても、回ればいい、みたいな。
でも、もしそんなディストピア的な見方が完全に間違っていたらどうだろう?
歴史がどう動くかっていう、正反対の二つの考え方を考えてみよう。一つの考え方では、歴史はまるで物語みたいに、秩序があって構造化されてるんだ。出来事は収束していくから、個人は入れ替わるけど、トレンドが全てを支配する。そのトレンドはどこから来るのかって?それは明確には語られない。ただ、人間の集合体が、必然的な結果に向かう道を作り出していて、僕らはそれに備えるしかない、みたいな。トレンドが運命なんだ。歴史は、目に見えない社会的な力によって書かれていて、主人公たちは物語を変える力なんて持ってない、みたいなね。
もう一つの極端な考え方では、個人が全てを支配するんだ。一人の人間の風変わりな行動が、僕らを全く違う道に導く可能性があるから。その考え方を突き詰めると、カオス理論に基づくんだけど、全ての個人が歴史を変える力を持ってるだけじゃなくて、僕らは一人ひとりが、あらゆる行動、いや、思考一つで常に歴史を変えてるんだってことになるんだよね。誰が何をするのかっていうのは、何をするのかと同じくらい重要なんだ。もしそれが本当なら、僕らを力づける事実が一つ生まれるよね。それは、あなたがすること全てが重要ってことだけじゃなくて、それをしているのがあなたであって、他の誰でもないってことなんだ。もしかしたら、僕ら一人ひとりが、ちょっとずつ違う羽ばたき方をして、独自のバタフライ効果を生み出してるのかもしれないよね。
この二つの変化の捉え方は、根本的に違うよね。僕らはただ流れに乗ってるだけなのか、それとも、僕ら一人ひとりが目的地を決めてるのか?
でね、2015年の終わりに、ニューヨーク・タイムズ・マガジンが読者に、こんな仮説的な質問を投げかけたんだ。「もしタイムスリップして、まだ赤ちゃんの頃のヒトラーを殺せるなら、殺しますか?」って。タイムトラベルの論理的な問題点は全部無視して、この質問の前提を受け入れると、一見すると、これは単純な倫理的なジレンマに見えるよね。功利主義者にとっては、簡単な計算問題だよね。一人の赤ちゃんを殺して、将来何百万人もの罪のない犠牲者を救うべきだ、ってなる。一方で、もっと厳格な、カント的なアプローチをする人は、違う見方をするよね。赤ちゃんのヒトラーは、将来、大人のヒトラーになるかもしれないけど、罪のない赤ちゃんを殺すことを正当化することは決してできない、って。で、読者の42%が「殺す」と答え、30%が「殺さない」と答え、28%が「わからない」と答えたんだって。
でも、この「赤ちゃんのヒトラー」の質問は、単なる難しい倫理的なジレンマよりも深い意味を持ってるんだよね。正しい答えは、僕らが歴史をどう捉えるか、変化がなぜ起こるのかっていう考え方に左右されるんだ。カオス理論が証明するように、小さな変化が巨大な影響を生み出す可能性があるから、過去を操作することは大きなリスクを伴うんだよね。
この「赤ちゃんのヒトラー」の思考実験には、ヒトラーがいなければ、ナチスはドイツで権力を握ることもないし、第二次世界大戦も起こらないし、ホロコーストも起こらないっていう考えが暗黙のうちに含まれてるよね。つまり、ヒトラーがこれらの出来事の唯一の、あるいは少なくとも決定的な原因だったって仮定してるんだ。でも、多くの歴史家は、その見解に異議を唱えるだろうね。彼らは、これらの大惨事は、ほぼ避けられなかったって主張するだろう。ヒトラーは、いくつかの結果に影響を与えたかもしれないけど、出来事全体の流れを変えることはできなかっただろう、って。ナチス、戦争、そして大量虐殺は、たった一人の男よりも大きな要因によるものだった、ってね。
仮に、ヒトラーを殺すことで歴史が変わると認めるとしても、この「赤ちゃんのヒトラー」の仮説は、ヒトラーのいない世界は、もっと良い世界になるだろうっていう前提に立ってるよね。想像しにくいけど、ヒトラーのいない世界は、さらに悪かった可能性もあるって示唆する人もいるんだ。イギリスの作家で俳優のスティーブン・フライは、大学院生がタイムスリップして、ヒトラーの父親を不妊にする小説を書いたんだ。ナチズムはそれでも台頭するんだけど、権力を握った指導者は、ヒトラーよりも合理的で衝動的じゃないから、ドイツは核兵器を手に入れて、戦争に勝利して、さらに多くのユダヤ人を殺すことになるんだって。そんなことが起こったかって?それは誰にもわからない。でも確かなことは、複雑な過去を変えることは、予測不可能な未来を作り出すってことなんだよね。そういう意味で、「赤ちゃんのヒトラー」の質問は、単に倫理の問題だけじゃなくて、歴史的な因果関係、そして、過去から一人の人間を削除することで、人類の物語がどう変わるかっていう考え方にも関わってくるんだ。それは僕らには決してわからないことなんだよね。
有名なイギリスの学者、E.H.カーみたいな歴史家は、そんな反事実的な歴史に携わることは、時間の無駄だって主張してるんだ。現実世界とは何の関係もない、空想的なお遊びだってね。別のイギリスの歴史家、E.P. トンプソンは、反事実的なことを Geschichtenscheissenschlopff と呼んだんだ。これは、「非歴史的なクソ」っていうチャーミングな言葉として翻訳できるらしいよ。歴史家がそんな見解を持つのは奇妙だよね。過去は変えられないとしても、代替的な道を検討することは、なぜ特定の出来事が起こったのかを理解するための有用なツールになるからね。もしそうだったらどうなってたかって推測することは、実際に何が起こったのかについての洞察を明らかにする可能性があるんだ。僕らが信じる物語が僕らの行動を形作るから、これは正しく理解することが重要なんだ。そして、歴史は物語なんだよね。「歴史は、何が起こったかではなく、何が起こったと僕らが合意したことである」ってデヴィッド・バーンは言ってるんだ。
何世紀にもわたって、歴史を決定するのは重要な個人であるっていう考え方が広く受け入れられてきたんだよね。昔の歴史家たちは、皇帝や王の輝かしい伝記を書いてたんだ。中国では、「天命」が支配者に正当性を与えていたんだ。彼らは、神の意志を地上で実現することで歴史を推進していると見なされていたから。中世ヨーロッパでは、これは王権神授説って呼ばれてたんだよね。19世紀には、スコットランドの哲学者トーマス・カーライルが、この考え方を明確な歴史哲学にしたんだ。「英雄史観」って呼ばれるものだね。カーライルは、国家の指導者や産業界の巨人は、神の意志に従って世界を変えるために送られたって主張したんだ。「世界の歴史は、偉人の伝記にすぎない」ってカーライルは言ったんだ。でも皮肉なことに、カーライルの歴史では、誰が偉人かってことは重要じゃないんだ。偉人たちは、単に予定されていた神の計画を実行していただけだから、誰と交代しても結果は変わらないんだ。もしナポレオンがいなかったら、別の誰かが神の意志を実行するために現れただろう、ってね。キリスト教の英雄史観論者にとっては、重要なのは性格じゃなくて、神の予言だったんだよね。
時が経つにつれて、英雄史観は、もっと幅広いものに変化していったんだ。変化がなぜ起こるのかを理解するために、力を持った人物に注目する歴史へのアプローチになったんだよね。テロとの戦いを理解するためには、根底にある傾向や社会的な力学じゃなくて、ジョージ・W・ブッシュとかオサマ・ビンラディンを研究する、みたいな。英雄史観のこの新しい解釈は、神の意志じゃなくて、特定の人間にかかってる、反事実的な偶然性に重きを置いてるんだ。指導者は結果を左右するし、彼らの性格、癖、そして気分さえも、出来事を左右する可能性があるんだよね。スティーブ・ジョブズは、ただテクノロジーのバトンを前に進めただけじゃなくて、全く新しいバトンを作り出したんだよね。もしジョブズの代わりに別の誰かがいたとしたら、あるいは、ジョブズの父親がシリアからアメリカに移住していなかったとしたら、今の世界は違っていたはずだよ。この歴史の見方では、個人は交換可能じゃないんだ。重要な人物が、重要な瞬間に、重要なんだよね。
で、19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、歴史家、哲学者、経済学者たちが、英雄史観に強く反発したんだ。レフ・トルストイは、「戦争と平和」の中で、ナポレオンを単に時代の男として描いたんだよね。帝国主義的な征服が当たり前の時代だったから、同じ歴史的、政治的な状況に直面したら、フランスの指導者なら誰でもロシアに侵攻しただろう、って。歴史が指導者を形作ったのであって、指導者が歴史を形作ったんじゃない、ってね。同様に、ヘーゲル、そして後にマルクスも、歴史を、ある最終目標に向かって予測可能な行進として提示したんだ。マルクスにとって、全ての出来事は、一連の段階を経て、プロレタリアートが支配する世界で終わる、容赦ない探求の一部だったんだよね。誰かがプロセスを加速させることはできても、どんなに力があっても、その必然的な結果を止めることはできないんだ。経済イデオロギーの反対側では、経済学者のアダム・スミスが、人間の行動を導く見えざる手について語ったんだ。スミスとマルクスはほとんど全てのことについて意見が違ったけど、個々の人物が入れ替わっても、歴史の最終目標は決定されているっていう点で意見が一致していたんだ。
1920年代から30年代にかけて、フランスでアナール学派っていう歴史学派が登場したんだ。特定の個人や重要な出来事じゃなくて、長期的な、社会全体の傾向を分析することによって社会の変化を理解しようとした学者グループによって設立されたんだ。それは非常に影響力を持つようになったんだよね。その創設メンバーの一人、マルク・ブロックは、ユダヤ人の歴史家で、後に第二次世界大戦中にフランスのレジスタンスのメンバーになったんだ。1944年半ばに、彼は逮捕され、拷問を受け、ゲシュタポによって処刑されたんだ。彼の歴史哲学は、彼の死を説明するために、「赤ちゃんのヒトラー」まで出来事を遡るんじゃなくて、長期的な社会の力学に注目するだろうね。
アナール学派は、「歴史を研究する」っていうことの意味を変えたんだ。重要な人物に固執するんじゃなくて、多くの歴史家はその後、「下からの歴史」と呼ばれるものを採用したんだ。それは、一般の人々の生活における長期的な変化が、どのように社会の変化を生み出すのかを調べるんだよね。現代の歴史家は、ハリウッド映画みたいな、セクシーな歴史に興味があるだけで、「本当の」歴史を無視しているかのように、英雄史観、巨大な獣の考え方に固執する人たちを軽蔑するんだよね。
政治学者や経済学者も、個人を交換可能として扱う傾向があるんだ。特定の個人に起因する説明を無視するんだよね。ゲーム理論、経済方程式、合理的な選択モデルは、多様な性格を理解することに依存するんじゃなくて、誰でも直面するであろうインセンティブをモデル化することに依存してるんだ。個人の違いを、想像上の「一般的な」または「標準的な」人間に完全に置き換えてしまうんだよね。
ベルギーの数理物理学者、デイヴィッド・ルエルは、この種の思考の限界を示すための有用な思考実験を提案してるんだ。チェッカー盤の真ん中に一匹のノミを置くことを想像してみて。確率論は、そのノミが盤上の特定のマスに飛び跳ねる頻度を効果的に予測できるよね。ここまではいいよね。
今度は、64マスのチェッカー盤に63匹のノミを追加して、それぞれのノミに名札を付けてみて。リックとかエリーとかジョーとかアンとかキャスピーとかアンソニーとかね。リックやエリーがいつどこにいるかを正確に予測することは、おそらく不可能だろうね。64匹のノミが64マスにいるっていう組み合わせが多すぎるからね。でも、社会科学モデルは、時間が経つにつれて、ノミがチェッカー盤上でどのように配置されるか、つまり、ノミ間の間隔、移動速度、平均ジャンプ高さを予測することには非常に優れているだろうね。特定の運転手が道路にいるかどうかがあまり重要じゃない交通量の予測みたいな種類の問題には、社会科学のツールは完璧に適合してるんだ。
さて、もし一匹のノミ、ナイジェルと呼ぼう、共食いだったらどうなる?すると、平均とか均衡に基づいてチェッカー盤の力学を予測したり理解しようとする試みは、もはや役に立たないんだよね。個人は交換可能じゃなくなるから。ノミたちはナイジェルから逃げるだろうね。次に、全てのノミが少しずつ異質だと想像してみて。一匹のノミ、バーバラは、ナイジェルの2マス以内に終わったら、完全に盤から飛び降りてしまうんだ。他の2匹、ポールとジェームズは、何があっても動かないんだ。一匹のノミ、ケルシーは、盤の隅が好きだから、隅のマスに終わったら、そこに留まるんだよね。さらに複雑なことに、ノミたちが学んだり、適応したり、経験に基づいて新しい好みを発展させたりするにつれて、これらの行動は時間とともに変化するんだ。すると、ノミの初期位置が非常に重要になってくるんだ。実験をやり直すたびに、全く違うことが起こるんだよね。
でも、人間についての研究は、ノミよりもはるかに複雑なのに、特定の人々があまり重要じゃないふりをする場合があまりにも多いんだ。例えば、アメリカ政治を研究する多くの政治学者は、アメリカ大統領制を研究するよりもアメリカ大統領の特性を分析する人たちを長い間非難してきたんだ。エイブラハム・リンカーンの伝記は、真面目な学者じゃなくて、ケーブルテレビの司会者が書くべきだ、みたいな。社会科学における数学化された、科学的な転換は、個人を理解しようとする人たちが、洗練されていないとか、十分に厳密じゃないとか見なされることを意味したんだ。宮廷陰謀とか人物プロフィ