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えーと、今回は「価値」っていうテーマで、ちょっとお話してみようかなと思います。

よく、ほら、「オウムに需要と供給って言わせれば、立派な経済学者だ」みたいなこと言うじゃないですか。なんか、経済って結局そういうことなのか?ってちょっと考えちゃいますよね。

で、シニカルな人って、何でも値段で判断するけど、価値が分かってないって言われたりするじゃないですか。うーん、深いですよね。

価値って何だろう?って考えると、なんかハサミの上刃と下刃、どっちが紙を切ってるんだ?みたいな話になりそうじゃないですか?つまり、価値って、効用で決まるのか、それとも生産コストで決まるのか、どっちが重要なんだ?みたいな。

そもそも、経済活動って価値を創造するためにあるわけですよね。でも、その「価値」って一体何なんだ?っていう根本的な問いから始めないと、経済の話ってできないと思うんです。

昔の経済学者、アダム・スミスとか、デヴィッド・リカードとか、カール・マルクスとかは、「労働価値説」っていうのを唱えてましたよね。簡単に言うと、モノの価値は、そのモノを作るためにどれだけの労働が投入されたかで決まるっていう考え方。

工場でピンを作る工程をイメージすると分かりやすいんですけど、分業することで複雑な作業が効率化されて、それが製品の価値に繋がるっていう考え方なんですよね。でも、それだけだと、いろんな問題が出てくるわけですよ。例えば、ものすごい時間と労力をかけて作ったとしても、それが全然役に立たないものだったら、価値がないですよね。

そこで、今度は「主観的価値説」っていうのが出てくるわけです。これは、モノの価値は、それを使う人がどう感じるかで決まるっていう考え方。つまり、消費者の頭の中に価値があるっていうこと。

アダム・スミスの「ダイヤモンドと水」のパラドックスってありますよね。水は生活に欠かせないのに、ダイヤモンドみたいにただ綺麗だけのものよりずっと安いのはなぜか?っていう。

で、19世紀後半になって、ジェヴォンズとかメンガーとかワルラスとかが、この問題を解決しようとしたわけです。つまり、価値っていうのは、主観的な要素と客観的な要素の両方が関係してるんだって。

誰も欲しがらないものには、どれだけ労力をかけても価値はない。でも、ダイヤモンドが高いのは、綺麗だからだけじゃなくて、採掘が難しくて、加工にも手間がかかるから。水は豊富にあるから、ちょっとぐらい無駄遣いしても気にならない、みたいな。

さらに深く考えると、水の一番最初の価値はものすごく高いけど、シャワーで無駄に使う最後の1リットルの価値は低い、みたいな話になるわけです。この「限界」っていう概念が、経済学を理解する上で非常に重要なんですよね。これを知ってるか知らないかで、経済学の理解度が全然違うって言っても過言じゃないと思います。

で、ここまでの話には、値段とか市場の話は出てこないんですよ。ダイヤモンドとか、モナリザとか、グランドキャニオンとかって、欲しい人がたくさんいるのに、数が少ないから価値があるわけですよね。水はたくさんあるから、先進国では無駄遣いされがちだけど、水不足の地域ではすごく大切にされる。これは、どんな社会でも同じだと思うんです。

権力を持ってる人が、価値のあるものを手に入れるっていうのも、よくある話ですよね。ダイヤモンドとか、高級マンションとかだけじゃなくて、どんな文化でも同じようなことが起きてる。

民主的な社会では、モナリザとかグランドキャニオンみたいな、みんなで楽しめるものを公共のものにしたりしますけどね。でも、マンションとかダイヤモンドリングみたいに、誰か一人が独占するものもあるわけです。

そういえば、レオナルド・ダ・ヴィンチの「サルバトール・ムンディ」っていう絵が、ものすごい高値で落札されたことがありましたよね。でも、本当にダ・ヴィンチの作品なのかどうかっていう議論があったり、売った人も買った人も、なんか怪しい動きがあったりして、いろいろ話題になりましたよね。お金持ちの世界って、やっぱり違うんだなって思いました。

ニューヨークの高級住宅街に住んでる人たちとか、ダイヤモンドを持ってる人たちとかを見ても、やっぱり権力とか富を持ってる人が多いですよね。

結局、レオナルド・ダ・ヴィンチはもう新しい絵を描けないし、モナリザはフランス政府が持ってるから、市場に出回ることはない。この「希少性」が、モナリザの価値の根本にあるんですよね。

もちろん、「サルバトール・ムンディ」の価値も、希少性にあるわけだけど、それに加えて、お金持ちの虚栄心みたいなものも影響してるんじゃないかなって思います。だって、モナリザのレプリカだったら、数千円で買えるんですよ。なのに、本物は何億円もする。それは、みんなが「本物」だと認める希少性があるからなんですよね。

経済学者のフレッド・ハーシュは、こういうものを「地位財」って呼んでましたね。他の人が持てないからこそ価値がある、みたいな。結局、価値っていうのは、需要と供給のバランスとか、生産コストと効用の関係で決まるっていうのが、現代経済学の基本的な考え方なんです。

ただ、最近の哲学者は、資本主義の行き過ぎみたいなものに批判的な人もいて、経済学的な価値の考え方に疑問を投げかけてたりします。特に、マイケル・サンデルは、人間関係を金銭的な取引だけで考えることに警鐘を鳴らしてますよね。売春とか、臓器売買とか、代理出産とかに対する抵抗感って、そういうところから来てるんじゃないかなって思います。

ただ、そうは言っても、価値が効用とコストの組み合わせで決まるっていう原則自体は、やっぱり否定できないと思うんですよね。

市場っていうのは、需要と供給がぶつかり合う場所ですよね。お金持ちは、欲しいものがたくさんあっても、全部買えるわけじゃない。それは、予算っていう制約があるから。値段っていうのは、自分が欲しいものを手に入れるために、他の何かを諦めなければならないっていうことを教えてくれるものなんです。

競争的な市場の素晴らしいところは、正直に自分の希望を伝えれば、それが一番良い結果に繋がるっていうこと。つまり、値段をつけることで、自分が何を求めていて、どれだけ払えるのかを正直に表明することができる。

消費者は、「この商品やサービスは、自分が払う値段以上の価値があるかどうか?」を考える。生産者は、「この商品やサービスを作るコストは、市場価格よりも安いかどうか?」を考える。そして、双方が納得すれば、取引が成立する。

ただし、買い手や売り手が少ない場合は、交渉の余地が出てきますよね。家を買ったり、中古車を買ったり、バザールに行ったりするときみたいに。

製薬業界では、値段が必ずしも価値を反映していないことがありますよね。薬を処方する医者も、飲む患者も、実際には薬の値段を払わないことが多い。保険会社とか、医療制度が負担することが多いから。だから、製薬業界は、一般的な消費財とはちょっと違うんです。

例えば、肥満治療薬とかは、飲むのをやめると効果がなくなっちゃう。一方、抗生物質は、効果がありすぎて、短期間で治っちゃうから、あまり儲からない。だから、新しい抗生物質の開発が進まないっていう問題もある。

希少疾患の治療薬とか、C型肝炎の治療薬みたいに、値段がものすごく高い薬もありますよね。あれは、開発に莫大な費用がかかってるし、厳しいテストをクリアしないといけないから、値段が高くなるのは仕方ない部分もある。

でも、それだけの価値があるのか?っていうのは、難しい問題ですよね。誰がその値段を払うべきなのか?っていう問題も、また別にあるし。

値段っていうのは、価値とコストを知るための重要な手がかりになる。でも、QALY(質調整生存年)っていう指標があるように、価値のあるもの全てに値段がつくわけじゃない。むしろ、価値のあるもののほとんどは、市場経済の外にあるんじゃないかなって思います。

逆に、値段がついてるもの全てに価値があるわけでもない。例えば、詐欺的な金融商品とか、依存性の高い薬とか。価値を破壊する人が、その責任を取らない場合もある。環境破壊とかもそうですよね。

だから、値段とか市場を妄信しちゃいけない。文化的な環境とか、社会的な価値観とかについて、政治的な判断を下す必要がある。生産っていうのは、ただモノを作るだけじゃなくて、消費っていうのは、生活の一部に過ぎない。

でも、消費は私たちの生活の大きな部分を占めてるし、生産は私たちの活動時間の半分を占めてる。過去に、中央集権的な計画経済を採用した社会は、幸福度とか、人間開発の指標が低かった。毛沢東の「大躍進」とか、スターリンの強制集団化とかを考えると、それがよく分かると思います。

なんか、つらつらと話してしまいましたが、価値について、ちょっとでも考えてもらうきっかけになれば嬉しいです。

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