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えーと、第五章、衝突、小白鼠と巨蟒、ハムスターと大蛇って感じですかね?えーっと、ニールとアモスはね、ミシガン大学に6ヶ月間、一緒にいたことがあるらしいんですけど、でもお互い全然接点がなくて、思想的な火花が散るようなこともなかったみたいなんです。ダニエルは、人の瞳孔の研究をしてて、アモスは別の建物で、数学モデルを使って類似性とか意思決定を分析してたみたいで。「私たちには共通の話題なんてなかった」とダニエルは言ってたみたいです。
だから、1969年の春に、アモスがダニエルのセミナーに突然現れたときは、大学院生たちがみんなびっくりしたらしいんですよ。それまでダニエルはゲストを呼んだことがなかったらしくて、セミナーは彼だけのショーだったんですよね。現実の問題に基づいて応用心理学の授業を展開してたんだけど、アモスは他の心理学者と同じように、なんか場違いな感じだったみたいで。しかも、二人の間にはちょっとぎくしゃくした空気もあったみたいで。「学生たちは、ダニエルとアモスがお互いに張り合っているように感じた」と、ある大学院生は言ってたみたいです。「心理学部のスター同士なのに、どういうわけか気が合わないんだなって。」
アムノン・ラポポートっていう人が、イスラエルからノースカロライナに行く前に、なんとなく、彼とアモスの存在がダニエルを不快にさせてるんじゃないかって感じてたらしいんですよね。「彼は私たちを少し恐れてるというか、疑ってるような感じがした」とアムノンは言ってました。でも、ダニエルは、アモス・トベルスキーにただ興味があっただけだ、と。「機会があればもっと彼のことを知りたいと思ってた」って言ってましたね。
で、ダニエルはアモスを自分のセミナーに招待して、何でも好きなことを話していいよ、って言ったんです。予想に反して、アモスは自分の研究については話さなかったんですよね。彼の研究はまだ抽象的な理論段階だったし、セミナーの雰囲気に合わないと思ったのかもしれません。ちょっと注意してればわかることなんだけど、アモスの研究は現実世界とほとんどつながりがなかったんです。彼が抽象的な世界に夢中になってる一方で、ダニエルは現実世界の問題に焦点を当てて考えてたんです。まあ、彼はいつも他人と距離を置いてたんですけどね。
最近アモスについて話すとき、「数学心理学者」って言う人がいるんですけど、それはちょっと誤解を招くかもしれないんですよね。ダニエルのような数学の研究をしない心理学者から見ると、数学心理学者っていうのは、数学を隠れ蓑にして心理学に対する無知を隠してるだけで、だから無意味なことをしてる人たち、みたいなイメージがあるみたいです。逆に数学心理学者から見ると、数学を理解できない心理学者はただの馬鹿で、自分たちの研究の重要性を全然理解できない、みたいな感じだったみたいです。当時、アモスは数学の才能にあふれたアメリカの研究者たちと一緒に、『測定の基礎』っていう、3巻からなる、内容が膨大で数式だらけの教科書を作ってたんです。1000ページ以上もあって、測定に関する議論と事例が載ってるんですよね。純粋理論としては素晴らしいんだけど、誰も聞かなかったら意味がない、みたいな感じだったみたいです。
だから、アモスはダニエルのセミナーでは自分のことについて話さずに、ミシガン大学のウォード・エドワーズ研究所で行われていた最先端の研究について話したんです。それは、人が意思決定をする際に、新しい情報にどう反応するか、っていう研究だったんです。研究者たちは、被験者の前にチップがいっぱい入った2つの袋を置いたんです。それぞれの袋には、赤と白のチップが入ってて、片方の袋には75%が白、25%が赤。もう片方の袋はその逆で、75%が赤、25%が白。被験者はランダムに袋を選んで、中を見ないでチップを一つずつ取り出すんです。そして、チップを取り出すたびに、手に持ってる袋が赤が多いか、白が多いか、を研究者に伝えるんです。
この実験の面白いところは、「自分が赤いチップが多い袋を選んだ確率はどれくらいか?」っていう質問に、正確な答えが出せることなんです。それを解くには、統計学のベイズの定理を使うんです(トーマス・ベイズっていう人の名前が由来になってます。1761年に亡くなった人で、不思議なことに、彼の論文は死後に発見されたらしいです)。被験者が袋からチップを取り出すたびに、ベイズの定理を使うと、手元の袋が赤い確率、または白い確率を計算できるんです。最初のチップを取り出す前は、確率は50対50。つまり、手元の袋が赤い可能性は50%、白い可能性も50%なんです。でも、チップを一つずつ取り出していくと、確率がどう変化するのか、って話です。
大まかに言うと、確率の変化は、いわゆる基準率、つまり袋の中の赤と白のチップの割合によって決まります(この割合はあらかじめ知ってる必要があります)。もし、片方の袋の99%が赤で、もう片方の袋の99%が白だって知ってたら、チップを一つ取り出した後の確率の判断は、基準率が51%のときよりもずっと正確になりますよね。でも、それ以外に何が言えるのか?ベイズの公式に基準率を入力すれば、答えが出るんです。袋の中の赤と白のチップの割合が75%と25%、または25%と75%のとき、もし赤いチップを3回連続で取り出したら、手元の袋が赤い確率は3倍になるんです。もし白いチップを3回連続で取り出したら、赤い確率は3分の1になるんです。もし最初に赤いチップを取り出したら、赤い確率は3対1(つまり75%)。もし2回目にまた赤いチップを取り出したら、確率は9対1(つまり90%)に増える。もし3回目に白いチップを取り出したら、確率はまた3対1に戻る。そういう計算になるんです。
基準率が大きいほど、つまり赤と白のチップの割合が大きいほど、確率の変化は大きくなります。赤白の割合が75%と25%の袋から、最初の3つのチップが全部赤だったら、その袋が赤い確率は27対1、つまり96%以上になるってことなんです。
実験室にいる被験者たちは、チップを取り出すとき、ベイズの定理なんて知りません。もし知ってたら、実験にならないんです。彼らは推測しなきゃいけないんです。そうすることで、心理学者は彼らの推測と実際の結果を比較して、人間の脳が新しい情報に直面したとき、その処理過程と統計計算との間に共通点があるかどうかを知りたいと思ってるんです。心理学者は、人間は生まれつき統計の達人なのか?統計公式に頼らなくても、正確な推測ができるのか?を知りたいんです。
当時、この実験は画期的でした。心理学者は、この研究成果を使って、生活の中のいろんな問題を説明できると考えていました。投資家が収益報告に基づいて次の行動をどう決めるか、患者が医者の診断に基づいて自分の体の状態をどう判断するか?政策立案者が世論調査に基づいて次の政策をどう作るか?コーチが新しい得点に基づいて次の戦略をどう立てるか?20歳の女性が胸部検査で乳がんと診断された場合、同じ検査を受けた40歳の女性よりも誤診される可能性がはるかに高い(なぜなら基準率が違うから。20歳の女性が乳がんにかかる確率は40歳の女性よりもずっと低い)。彼女は自分が病気になる確率を予測できるのか?もしできるなら、正確さはどれくらいなのか?生活の中にはそんな確率ゲームがたくさんあって、人々はそのゲームでどういう行動をするのか?情報の確率を正確に評価できてるのか、そうでないのか?人はどのように手がかりに基づいて結論を出し、判断を下すのか?人の確率予測は、新しい状況の出現によって変わるのか?
最後の質問について、アモスはダニエルのクラスの学生たちに、ミシガン大学の教授たちが明確な答えを出した、と言いました。彼は、ウォード・エドワーズ研究所の研究を紹介しました。それによると、被験者が袋から赤いチップを取り出すと、その袋には赤いチップが多いと思う傾向がある、って言うんです。もし最初の3つのチップが全部赤だったら、袋の中のチップが赤い確率は3倍になるんです。彼らの判断は間違ってないんだけど、ベイズの定理で計算すると、確率は実際には27倍になるはずなんです。つまり、判断の方向は正しいんだけど、変化の幅が小さいんです。人が新しい状況にどう反応するかを説明するために、ウォード・エドワーズ研究所の研究者は「保守的なベイズ人」っていう言葉を作ったんです。それは、人がまるで公式を使って計算してるかのように行動する、って意味なんです。もちろん、誰もベイズの公式が脳に組み込まれてるなんて思ってませんけどね。
エドワーズ研究所の人たち、そして他の多くの社会科学研究者は、人の行動はベイズの公式と切り離せない、と信じていました(そう信じたかったみたいです)。この考え方は、当時の社会学研究の主流な考え方と一致してました。1953年に経済学者のミルトン・フリードマンは、人がビリヤードをするとき、手玉をどの角度で、どれくらいの力で打てばいいのか計算しない、と書きました。それは物理学者が研究することなんです。でも、球を打つとき、人はまるで物理学に精通してるかのように、ほぼ正確な角度で、ほぼ適切な力で球を打つんです。彼らの脳は、標準的な答えに近い選択をするんです。脳がどのように選択するのかは、重要なポイントじゃない。同様に、人はある状況で確率を判断するとき、精密な計算をしなくても、計算したかのように高い精度で判断できることが多いんです。
アモスが話し終えると、ダニエルは困惑してしまいました。本当にそうなのか?ダニエルは言いました。「アモスは、人々が慣れ親しんだやり方で、尊敬できる同僚たちの研究について説明した。それを聞くと、まあ悪くないな、信じてみようかな、って思う。主要な雑誌に掲載されてる論文を読むと、私たちはその表面的な価値に圧倒され、著者の言うことにはきっと何か根拠があるはずだって思う。そうでなければ、こんな雑誌に載るはずがない、ってね。」でも、アモスが話したこの実験は、ダニエルにはすごく馬鹿げて見えたんです。人が袋から赤いチップを取り出したら、その袋には赤いチップが多いと確信する。ふうん、それって当たり前じゃないか、他にどう思うんだ?ダニエルはこれまで、この種の研究に触れたことがなかったので、人が意思決定をするときの考え方についてよくわからなかったんです。「私はこれまで、思考についてあまり深く考えたことがなかった」とダニエルは言いました。彼は思考のことを、まだ「見る」ことの一段階にすぎないと思ってたんです。彼が知る限り、思考に関するこの研究は、人々の実際の行動とは一致しません。目に見えるもの、耳に聞こえるものは、しばしば錯覚や幻影なんです。
ダニエルが最も愛するゲシュタルト心理学者は、視覚的錯覚から重大な発見をしました。それが錯覚だとわかっていても、人はどうしても騙されてしまうんです。だから、ダニエルは思考を信頼できないものだと思ってました。人は生まれつき統計の達人ではないし、脳が当然のように「正しい」答えを提供してくれるわけでもない。そのことを理解するには、ヘブライ大学の統計学の授業を少し聞けば十分です。学生たちは生まれつき基準率の重要性を知ってるわけじゃないんです。彼らは、大きなサンプルからも小さなサンプルからも、重大な結論を引き出してしまう可能性があるんです。ダニエル自身も、ヘブライ大学で最高の統計学教授だったんだけど、イスラエルの子供たちがテントを選ぶ傾向から結論を出したとき、サンプルサイズが小さすぎたために、後になってその結論を広げられないことに気づいたんです。彼はほんの数人の子供たちにしか調査してなくて、その結果が大多数の人々に当てはまるとは限らなかったんです。つまり、彼はいくつかのポーカーチップとたくさんのポーカーチップは同じように、袋の中身をはっきりと伝えてくれると考えていたんです。
ダニエルの考えでは、人間は「保守的なベイズ人」でもないし、他のどんな種類の統計学者でもない。彼らはしばしば、ほんのわずかな情報に基づいて直接判断を下す。人の脳が統計学者のように正確だと言うのは、ただの比喩なんです。でも、ダニエルはその比喩は適切じゃないと思ってた。「私は自分自身が直感に基づいて判断する嫌な奴だってわかってる」と彼は言いました。「そして、自分が他の人より賢いわけじゃないこともわかってる。」
ウォード・エドワーズ研究所の心理学者は、オースティン・リッグスセンターの精神分析医と似たようなもので、ダニエルが彼らに同じくらいの興味を持っていたのは、彼らのどちらも自分たちの愚かさを認めようとしないからなんです。アモスが紹介したこの実験は、人間の直感的な判断は正しい答えに近く、基本的に優秀な統計学者だ、という考えを持ってる人たちにしか魅力的じゃないんです。
少し考えれば、その矛盾に気づくはずです。現実の生活では、ほとんどのことは、どちらの袋に赤いチップが多いかを判断するほど明確ではありません。この種の実験はせいぜい、人が直感的に判断するのが得意じゃないこと、つまりそこに答えがあるのに、それを見ようとしないことを証明するだけなんです。袋の中のチップの色を予測するのが得意な人は、もっと複雑な状況に遭遇すると、例えば外国の独裁者が大量破壊兵器を持ってるかどうかを予測するような状況では、判断に迷ってしまうでしょう。ダニエルは、人が理論に頼るときに、このようなことが起こると考えています。彼らは証拠を理論に合わせようとするのではなく、理論で証拠を検証しようとする。そうなるとき、彼らの考え方はどうしても偏ってしまう。
どこにいても、くだらないことが真実として扱われてる例を目にする。その原因は、それらのくだらないことが理論という服を着て、科学者の研究と結びつけられてるからなんです。ダニエルは言いました。「考えてみてください。心理学者は何十年も、学習によって人間の行動を説明できると考えてきました。だから、彼らは飢えたネズミが迷路の中で方向を見つける方法を観察するんです。それが彼らのやってることなんです。知能が低くて知識が少ない人でも、彼らはデタラメを言ってると思ってるのに、彼らは私たちがゴミと見なしてるものに夢中になって研究してるんです。」
意思決定の研究者たちも同じように、理論に目がくらんでる。「保守的なベイズ人」っていう言葉は無価値だ、とダニエルは言いました。「それは、人々が正しい答えを知っていて、心理的な活動によるのではなく、正しい答えを盗んでいることを意味する。人々は確率を判断するときに何をしてるのか?」アモス自身も心理学者なのに、心理学とは全く関係のないこの実験を説明するとき、明らかに肯定的な態度をとっていた、というか少なくとも疑問を持っていなかった。「まるで数学の問題を解いてるかのようだ」とダニエルは言いました。だからこそ、ダニエルはくだらない理論を聞いて、ヘブライ大学のまともな人間なら誰でもするようなことをしたんです。アモスと議論したんです。ダニエルは後で説明しました。「彼はいつも私が『彼を恥ずかしい思いをさせた』って言ってました。友達と話してるときもそう言ってました。誰もが意見を表明する権利がある。それがアメリカのルールだけど、エルサレムではそうじゃないんだ。」
セミナーが終わるころには、アモスはもう反論できなくなってることにダニエルは気づきました。家に帰ると、ダニエルは妻のエリッキに、傲慢な若い同僚を論破したと自慢しました。まあ、それはエリッキの記憶に基づくものかもしれませんけどね。「これはイスラエル式議論の重要な瞬間だった」とダニエルは言いました。「双方が雄弁家だったんです。」
アモスの人生の中で、議論で負けることはほとんどなかったし、相手に説得されることはさらに少なかった。「彼が間違ってると言ってはいけない。たとえ本当に間違っていてもだ」とアモスの学生だったズール・シャピラは言いました。アモスが頑固だからではありません。人と議論するとき、アモスは常に自由奔放で、率直で、新しいアイデアや考え方を受け入れるのが好きでした。まあ、それらの考え方は彼の考え方と明確な矛盾がない場合がほとんどでしたけどね。おそらく、彼は常に正しかったので、すべての議論で、彼自身を含めて誰もが「アモスは正しい」と当然のように思っていたのかもしれません。アモスの印象について尋ねられたとき、ノーベル賞を受賞したヘブライ大学の経済学教授、ロバート・オーマンが最初に思い出したのは、ある時彼がアモスを驚かせたことでした。オーマンは言いました。「彼が『そんなことは考えたことがなかった』って言ったのを覚えてる。私がそれを覚えてるのは、アモスが考えたことのないことなんてほとんどないからだ。」
ダニエルは後になって、アモスは人間の思考とベイズ統計の関係について真剣に考えたことがなかったんじゃないか、と思いました。それは彼の研究分野ではなかったからです。ダニエルは言いました。「おそらく彼は、この問題について真剣に議論したことがなかったんだろう。議論したとしても、こんなに明確な反対意見を言う人はいなかったはずだ。」人々は数学の問題を解くように統計分析をする。ほとんどの人は7×8=56って計算できるけど、もしできない人がいたらどうなるだろう?彼らは様々な間違いをする可能性がある。人の脳には数学の問題を解くメカニズムが備わっていて、その間違いは体系的だ、と言う人もいるけど、そうじゃない。もし誰かがアモスに「人間は保守的なベイズ人だと思いますか?」と尋ねたら、彼は「もちろん全員ではないけど、大まかな記述としては正しい」と言うかもしれません。
少なくとも1969年の春、アモスは社会科学の主要な理論を特に否定していたわけではありません。ダニエルとは違って、彼は理論を拒否しませんでした。彼にとって、理論は思考のポケットのようなもので、入れたいものを何でも入れることができる。より良い理論、つまり予測機能をより良く発揮できる理論が見つかるまでは、古い理論を捨てるべきじゃない。理論は知識を決定し、より正確な予測をするための希望を与えてくれる。当時、社会科学の分野で最も影響力のある理論は、人間は合理的だ、少なくとも有能な直感的な統計学者だ、ということでした。彼らは新しい情報をうまく解釈し、様々な可能性の間で判断を下すことができる。もちろん、彼らも間違うことはあるけど、その間違いは感情によるもので、感情はランダムなので無視できる、と考えられていたんです。
でも、このとき、アモスの心の中で何かが変わりました。ダニエルのセミナーを終えて、アモスの思考は珍しい状態、つまり疑念に陥ったんです。かつて彼がある程度は正しいと思っていた理論が、今では疑わしく思えてきたんです。
アモスの親しい友人たちは、彼に驚くべき変化があったことに気づきました。彼らにとって、アモスは実際には常に懐疑的な考えを持っていたんです。あるとき、彼はイスラエルの軍人が部隊を率いて砂漠を横断するときに直面する問題について語りました。それは彼自身も経験した難しい問題でした。砂漠では、肉眼で形や距離を判断するのが難しく、そのため進行方向を正確に把握するのが難しいんです。「この点がアモスを非常に悩ませた」と彼の友人、アビシャイ・マルガリットは言いました。「軍隊を率いるときは、常に進行方向を確認する必要があります。アモスはそれが得意でしたが、それでも砂漠では困難に感じました。夜間に行軍するとき、遠くの明かりを見ると、それが近いのか遠いのか分からなくなります。水源を見ても、1キロしか離れてないと思っても、何時間もかかってようやくたどり着くんです。」イスラエルの兵士として国を守るためには、国を理解する必要がある。でも、その国はとても理解しにくいんです。アモスは軍用地図を持っていましたが、ほとんどの場合、地図は役に立ちませんでした。突然の嵐で砂漠の風景は一変し、今日はここにある谷が、嵐の後はあっちに現れる。砂漠で部隊を率いることで、アモスは視覚的錯覚に対する認識をより深めました。視覚的錯覚は命取りになるんです。20世紀の50年代から60年代にかけて、砂漠で道に迷ったイスラエルの軍隊の指揮官は、兵士たちの言うことを聞いてもらえませんでした。道に迷うことは死につながることを皆が知っていたからです。アモスは不思議に思いました。人間には環境に適応する能力があるのに、なぜ環境の認識を間違えるのか?
アモスが意思決定分野の他の理論家の考え方に完全に同意していなかったことは、他のことからも伺えます。数ヶ月前、まだダニエルのセミナーに参加する前に、彼は軍に召集され、ゴラン高原に予備役として赴きました。当時、そこでは戦闘は行われていませんでした。彼の任務は、新しく占領した地域の部隊を指揮し、シリア兵士の動向を監視し、彼らが攻撃を企てているかどうかを判断することでした。彼の下には、スタンフォード大学で数学の教授になる予定の学者、イツィク・カツネルソンという人がいました。アモスと同じように、カツネルソンも1948年の独立戦争の真っ只中にエルサレムで子供時代を過ごし、その光景は彼の記憶に深く刻まれました。彼は、ユダヤ人が逃亡するアラブ人の家に侵入し、貴重品を奪い去るのをはっきりと覚えていました。「私は、アラブ人も私と同じように、戦争の当事者ではなかったと思った」とカツネルソンは言いました。当時、彼は人々に混ざってアラブ人の家に入り、ユダヤ人の中学生たちがピアノを刀で切り刻んでいるのを目にしました。ただ木材が欲しかっただけなんです。カツネルソンとアモスはこれらのことについて話しませんでした。それらのことは封印しておくのが一番でした。
彼らが話したのは、最近アモスが興味を持っていたことでした。それは、人々が不確実な出来事の発生確率をどのように判断するのか?ということでした。例えば、当時、シリア軍が攻撃を開始する可能性はどれくらいなのか?カツネルソンは回想しました。「私たちはそこに立ってシリア兵士を監視しながら、彼が可能性について、そして可能性をどのように判断するかについて話すのを聞いていました。彼が興味を持っていたのは、1956年のシナイ作戦が勃発する前に、政府が戦争は5年以上続かないだろうと考えたのに、別の人は戦争は10年以上続かないだろうと考えたのはなぜか、ということでした。アモスが言いたかったのは、可能性は不確実だということでした。人々は可能性を正しく判断する方法を知らないのです。」
アモスがイスラエルに戻ってから、もし彼の心にすでに亀裂が入っていたとしたら、ダニエルとのこの交流は間違いなく地震を引き起こしたでしょう。その後まもなく、彼はアビシャイ・マルガリットに会いました。「廊下で誰かを待っていた」とマルガリットは言いました。「アモスがやってきて、ひどく落ち込んだ様子でした。彼は私をオフィスに引っ張り込み、『君は私が今経験したことを想像できないだろう』と言いました。彼は、ダニエルのところに講義に行ったこと、ダニエルの反応が『素晴らしい講義だったけど、私は全く信じない』だったことを話しました。彼は本当に困っているように見えたので、私はできる限り彼を慰めるしかありませんでした。彼は、『判断力と知覚力は無関係であるはずがない。思考は孤立した行動ではない』と言いました。」当時の最新の研究は、人が客観的な判断を下すときに、思考がどのように働くかを調査していました。しかし、それらの研究は他の瞬間の思考の働き方には触れていませんでした。「アモスのこの経験は非常に重要だった」とダニエルは言いました。「彼がかつて信じていた考え方、ウォード・エドワーズの研究を可能にした考え方は、その日の午後以降、別の考え方に取って代わられました。新しい考え方から見ると、ウォード・エドワーズの研究は非常に馬鹿げて見えました。」
セミナーの後、アモスとダニエルは何度か一緒に昼食をとる機会がありましたが、それでも二人はお互いに別々のことをしていました。同じ年の夏、アモスはアメリカへ、ダニエルはイギリスへ行き、注意力の研究を続けました。ダニエルは、この研究が持つ可能性に気づいていました。例えば、戦車戦を考えてみましょう。研究の中で、ダニエルは被験者の左耳に一連の数字信号を送り、右耳に別の数字信号を送り、彼らが左右の耳から聞こえてくる信号をどれくらいの速さで切り替えることができるか、そして彼らの思考が無視されるべき情報をうまく遮断できるかどうかを調べました。「戦車戦は西部劇の決闘と同じで、攻撃側が目標を確認して行動を起こす速度が、生死を分ける」とダニエルは後で語りました。このテストを利用して、彼はどの戦車指揮官が感覚的に最も優れた判断を下せるかを知ることができます。関連する信号を最も速く認識し、それに焦点を当てて、相手の砲火で粉々にされることを防ぐことができるかを調べるんです。
1969年の秋、アモスとダニエルはヘブライ大学に戻ってきました。睡眠時間以外は、ほとんど一緒にいました。ダニエルは朝型人間だったので、昼食前の時間帯によく姿を見かけられました。アモスは夜型人間で、深夜に邪魔しても大丈夫でした。それ以外の時間は、二人は人目から隠れて、一緒に研究室に閉じこもっていました。通りかかる人は、中で二人が大声で議論してるのを聞くこともありましたが、ほとんどの場合は笑い声が聞こえてきました。彼らは、非常に興味深く、同時に非常に個人的なことを議論してるんだろう、と皆は推測しました。なぜなら、彼らの会話に誘われた人は一人もいなかったからです。もしドアの前で立ち止まって聞こうとしても、聞こえてくるのは英語とヘブライ語が混ざった会話だけでした。特にアモスは、興奮するとヘブライ語を使うことが多かったので、二人は2つの言語を行き来していました。
かつて、ヘブライ大学で最も賢い二人だった彼らは、お互いに距離を置いていました。しかし今では、性格が全く違う二人が、共通点をたくさん持ち、親友になった。この変化に、学生たちは困惑しました。「彼らの間にどんな化学反応が起こったのか想像もつかない」と、二人から心理学を学んだ大学院生のディサ・カフリは言いました。ダニエルは子供時代にホロコーストを経験しましたが、アモスは昔ながらの「生粋のイスラエル人」でした。ダニエルはいつも自分が間違ってると思っていましたが、アモスはいつも自分が正しいと思っていました。ダニエルはパーティーに行くのが嫌いでしたが、アモスはいつもパーティーの中心人物でした。ダニエルは正統派でしたが、アモスは自由奔放で型にはまりませんでした。アモスと一緒だと、すぐに親しくなれるような気がしますが、ダニエルと一緒だと、昨日話したばかりでもよそよそしく感じて、また一から知り合わなければならないような気がします。アモスは音痴でしたが、情熱的にヘブライ語の民謡を歌っていました。ダニエルは良い声を持っていたのに、それを隠していました。論理的でない議論に直面すると、アモスはそれを断固として否定しますが、ダニエルはいつも「それは場合によっては正しいかもしれない」と尋ねます。ダニエルは悲観主義者ですが、アモスは楽観主義者です。彼はそれを心がけています。なぜなら、悲観主義は彼にとって愚かさの代名詞だからです。アモスはいつも、悲観的になると悪いことが倍増し、心配すると心配が再びやってくると言っていました。ヘブライ大学の同僚は言いました。「彼らは全く違うタイプの人間です。ダニエルは短気ですが、それでも誰かを喜ばせようとすることがよくあります。アモスはなぜ媚びを売る必要があるのか理解できません。彼は謙虚さの必要性は知っていますが、なぜそれをわざとする必要があるのか理解できません。」ダニエルは多くのことを深刻に考えていましたが、アモスはいつも冗談めかした態度で人生に立ち向かっていました。ヘブライ大学から博士号審査委員会のメンバーに任命された後、アモスは人文科学の博士論文の杜撰さに驚かされましたが、直接反対するのではなく、「もしこの博士論文がその分野で優れていると言うのなら、私は構いません。ただし、著者が章を明確に分けられるという条件付きで!」と言いました。
それに加えて、アモスは人々が見た中で最も恐ろしい頭脳の持ち主でもありました。「人々は彼の前で問題を議論することを恐れていました」と彼の友人は言いました。なぜなら、彼が彼らがはっきりと意識してなかった欠陥を遠慮なく指摘することを恐れていたからです。アモスのかつての大学院生だったルーマ・フォルクは、アモスに運転技術を批判されるのが怖かったので、彼を家に送るときはアモスに運転させることにした、と言いました。現在、アモスの自由な時間はダニエルと一緒に過ごす時間がほとんどです。後者は非常に繊細で、学生からの悪い評価でさえ、長い間自己嫌悪に陥らせるほどでした。彼をアモスと一緒にすると、まるでハムスターを大蛇のテリトリーに放り込むようなものですが、振り返ってみると、ハムスターが滔々と喋り続け、大蛇が隅に丸まって静かに耳を傾けている、という光景が見られたんです。
実は、二人には共通点もたくさんありました。まず、二人は東欧のユダヤ人ラビの子孫でした。次に、人々が「普通の」非感情的な状態でどのような行動をするかについて、強い関心を持っていました。二人とも科学研究が好きで、シンプルで力強い真実を見つけたいと思っていました。ダニエルの性格は複雑かもしれませんが、それでも「ある特定の問題だけを研究する心理学者」になりたいと思っていました。アモスの研究も複雑かもしれませんが、彼の最大の願いは、無駄なことを取り除いて問題の本質を見つけることでした。二人とも驚くほど豊富なアイデアを持っていて、イスラエルに住むユダヤ人で、神を信じていませんでした。でも、それでも、人々が気づくのは二人の違いなんです。
二人の大きな違いを最もよく物語るのは、彼らのオフィスの状態でした。ダニエルのオフィスアシスタントだったダニエラ・ゴードンは回想しました。「ダニエルのオフィスはめちゃくちゃで、一言二言書かれた紙があちこちに散らばっていました。本があちこちにあり、紙もあちこちにありました。本はいつも開いたままになっていて、次に読むときにすぐ読めるようにしていました。あるとき、自分の修士論文が13ページ開かれているのを見つけました。おそらく、彼はちょうどそこを読んでいたのでしょう。3、4部屋離れたところに、アモスのオフィスがありました。そこには、机の上のペン以外、何もありませんでした。ダニエルのオフィスでは、めちゃくちゃすぎて何も見つかりません。アモスのオフィスでは、そもそも何もないので何も見つかりません。」周りの人は冷ややかな目で、なぜ二人が仲良くやってるのか考えていました。ある同僚は言いました。「ダニエルは扱いにくい人で、アモスはそういう人を最も嫌うのに、ダニエルの前ではアモスは我慢する。それは本当に驚きでした。」
二人が二人きりのとき何をしてるのか、ダニエルとアモスはあまり語りませんでしたが、その沈黙が周りの人々の好奇心をさらに刺激しました。最初、彼らはダニエルの命題、つまり人間はベイズ人ではない、保守的な統計学者ではない、どんな種類の統計学者でもない、ということについて話し合っていました。人々が確率的な選択に直面したとき、どのような決断を下したとしても、それは統計学とは関係がない。でも、この考え方を、多かれ少なかれ理論に目がくらんでる社会学者にどうやって受け入れてもらうか?どうやってそれを検証するか?二人は、型破りな統計テストを設計して、科学者にその有効性を検証してもらうことにしました。彼らは、実際のデータに基づいて、人々のアンケート回答に基づいて、その統計ツールを設計することにしました。ここでは、選ばれた被験者は統計学の知識を持ち、確率理論を理解していることが前提です。アンケートの質問のほとんどはダニエルが考えたもので、その多くは「赤いチップか白いチップか?」という質問をレベルアップさせたものでした。例えば、
ある都市の8年生の平均IQは100です。地元の教育水準を検証するために、50人の生徒をランダムに選び、テストを受けさせました。最初の生徒のIQテストのスコアは150でした。この50人の生徒の平均IQを判断してください。
1969年の夏の終わりに、ダニエルが設計したこれらの質問は、アモスによってワシントンDCで開催されたアメリカ心理学会の年会に、そして数学心理学会の大会に持ち込まれました。そこで、非常に高い統計学の素養を持つ専門家たちが彼のテストを受けました。その中には、統計学の教科書を出版したことのある人も2人いました。テストが終わると、アモスはテストの結果をすべて集め、それを持ってエルサレムに飛行機で帰りました。
エルサレムで、彼とダニエルは初めて一緒に論文を書くことにしました。オフィスが狭すぎたので、彼らは小さな研究室で作業をすることにしました。アモスはタイプライターを使うことができず、ダニエルはタイプライターを使うのが嫌いだったので、二人はノートを持って一緒に座りました。彼らはすべての文章を注意深く吟味し、1日に1つか2つの段落しか書き終えませんでした。「これは普通のことじゃない、と感じました」とダニエルは言いました。「なぜなら、すべてがとても面白かったからです。」
その時期を振り返ると、ダニエルが最もよく覚えているのは笑い声です。つまり、外を通りかかる人が聞いていた笑い声です。「私は、椅子を後ろ足でバランスを取ろうとするときに、笑いすぎて倒れそうになったときのことをよく覚えています。」もし二人がアモスのジョークで大笑いすると、その笑い声はさらに大きくなりました。その主な理由は、アモスが自分で言ったジョークを笑い続けることが多かったからです。(「彼はとても面白かったので、独り言を言って笑うのも普通でした。」)アモスの付き添いで、ダニエルも面白くなりました。彼はこれまでそんな経験をしたことがありませんでした。そして、ダニエルの影響で、アモスは人が変わったように、批判的ではなくなりました。少なくともダニエルのアイデアに対しては、粗探しをしなくなりました。彼はこれまでになくダニエルに自信を与え、ダニエルは生まれて初めて攻撃者の味を体験しました。「アモスは決して守備的な姿勢で文章を書くことはありませんでした」とダニエルは言いました。「彼は自然に傲慢なところがあって、自分が誰よりも賢いと思っていました。」完成した文章には、アモスの自信が至るところに表れていました。その最たる例は、文章のタイトルでした。「小数法則に関する信念」です。しかし、この文章は二人の完璧な協力の結果だったので、署名するとき、どちらも最初の著者になることを望むべきではないと考え、コインを投げて決めました。結局、アモスが勝ちました。
「小数法則に関する信念」という文章は、人々、つまり訓練された統計学者を含めて、頻繁に犯す思考の偏りを体系的に整理したものでした。文章は、人々が部分を全体と誤解していることを指摘しました。統計学者でさえ、問題を説明するには不十分な少量の証拠から、独断的に結論を導き出してしまうことがあります。ダニエルとアモスは、その理由は、人々がサンプルは全体の特徴を反映しているはずだと誤って信じているからだと考えました。
この思考の偏りは、人々がランダムな出来事に対して抱く態度に特によく表れています。例えば、コインを投げることを考えてみましょう。人々はコインを投げると、表が出る確率と裏が出る確率が同じであると知っています。しかし、それでも、コインが何度も連続して表が出た場合、次は裏が出る可能性が高いと考える傾向があります。これが、人々がよく言う「ギャンブラーの誤謬」です。人々は、コインが自動的に表と裏の回数を調整して、機会を均等にしようとしているように